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暁の死線

夜中に発覚した殺人事件。奔走する若いふたり。
犯人を捕まえて、朝の6時には故郷に向かうバスに乗るのだ。都会の呪縛を振り切るために。

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タイムリミットものです。針の進む時計の絵が緊迫感を、わが身に降りかかったことのような臨場感を醸し出します。
古い作品なので良しとされるのか そもそも器物損壊 不法侵入、遺留品を触りまくる。
困窮の上の出来心で一度盗んでしまった金。返したとはいえ、罪には問われないのか?

作者 アイリッシュは別名義でも作品を発表していて、アイリッシュの名では「幻の女」が有名。こちらは死刑執行までのタイムリミットで無実を証明できる女を探すものだとのこと。タイムリミットを設けて物語をタイトに盛り上げるのが得意技の作家さんのようです。また文学的にも秀でた文章表現と スリルとサスペンスの後ろにある人間の生きざまと心情が上手に描かれています。

 作者も事件の解明の経緯よりも、それに伴うブリッキーとクィン、二人の出会いと気持ちの接近、信頼に至るまで、そして壊れかけた心の再生と新たな出発を描きたかったのではないかと思います。

夢を描いてやって来た都会で 夢破れ疲弊した同郷の男女。転入と旅立ちがのタイミングで、ごくごく近隣(知ったのちは「隣の男の子」と何度も表現されます)だったにも関わらず顔見知りではなく、ふと目にした手紙の宛先からそれと知ります。もちろんスポットライトを夢見て先に街に出た女性、ブリッキーは都会でさんざん痛い目に遭い、簡単には他人を信じない。わざと間違った言葉で問いかけたりしながら相手を探ります。こんな出会いからお互いが信頼に至るまでのやりとりは秀逸。
どれだけ都会が彼女を傷つけ疲弊させ、追い詰めていたのか、どんなにここから出て故郷へ帰ることを望んでいたのかが判ります。
でも、親を心配させたくない、見栄もある、そんな葛藤もあって何度も故郷行の早朝出発のそのバスに乗りそびれている。そういった経緯が、「クィンの潔白を証明するために『殺人犯』を見つけてから6時のバスに乗って ふたりで故郷に帰るのだ」というこの物語の揺るがせない芯となる。ここに突っ込んだら台無しですからね。突っ込んではいけません。
とはいえ、犯人を捜すって言っても、ただのシロウト 死人は知り合いでもない。なんの手掛かりも無い。死体や部屋を調べて何が解るのか、時間もない。そもそも犯人を見つけたら 彼らは警察に追われる心配は無いのか、素直にハラハラさせられます。物語に上手く惹きこまれるのは その文章の巧みさと、主人公たちのキャラクターの確かな魅力ゆえだと思います。

葉巻の噛み跡、ちぎれたボタン、香水の匂い。男女ふたりをそれだけの手がかりから手分けして探します。無謀でも何でもやらなければ何も始まらない。終わらない。

二人の追い詰め方はそれなりに説得力があり、もう犯人を追い詰めたかと思わせて、そうは簡単にいかないと、がっかりさせ、また改めて奮起。そうなると読み手は作者の思うツボ。犯人探しに夜中の街を奔走し、聞き込みをし、タクシーに乗り、ドアをノックし…間違えた相手にはハタ迷惑な話です。(けど、そこが醍醐味で)

古い映画にも 百恵ちゃんの「赤い」シリーズの一作にもなったそうです。ノスタルジックな映像の洋画の方を観てみたいと思います。

# by nazunakotonoha | 2020-01-11 11:16 | 海外の作家 | Comments(0)

きいろいゾウ

一見 平和な日常にも 苦しい過去や生きづらい今が隠れている。だからこそみんな、想い合う相手の温かさが必要なんだ。
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「窓の魚」が初読で、この作品は映画が先。
好きなところもあるけれど、どこか少しだけ 苦手。そんなイメージの作家さんだった。

宮崎あおいと向井理が演じた映画も、好きなところと、ファンタジー展開の描写の中に少しだけうーむ、なところがあったような記憶だけあり、読み進めながら色々不安はあった。

結論。

少しだけ うーむ、なんですが 読んで良かったし、好きなところが沢山あった。
宮崎あおいはイメージどおり。向井理は、原作より見た目がソフトかな、という感じ。(もっと見た目はいかつい感じの男性のような描写があるので)

主人公はムコとツマ。

個性的なツマの語りの部分と、作家であるムコの目で見た日常やツマの様子が綴られた日記とが 順に描かれます。そして各章の最初には「きいろいゾウ」という絵本の内容が 少しずつ小分けで綴られるという構成。

無辜(むこ)という苗字の男性と妻利という苗字の自分が出会ったというところから ツマは強く運命を感じている。それだけではない。月の満ち欠けと共に不安定になるツマの内面を初対面のひとことで救ってしまうムコ。そして短い期間で、プロポーズ、結婚、田舎暮らし。

ツマの個性的で独特なものの感じ方、感情の激しい起伏や、それ以上に、気持ちを相手に伝えきれず心に秘めたまま鬱屈してしまう様や、なにより動物や虫の言葉が聞こえるという日々の言動。ツマ側の章を読むとそれは 目まぐるしく騒がしいほどの内に聞こえる声であふれていて、ツマと一体化できない読者には少々辛い。表面的にはどちらかといえばおっとりした「不思議ちゃん」にも見えるのだろうけれども。


そんなツマについて、ムコはおおらかに受け止め 面白がり 愛しく思い、そんな彼女を心から支えたいと思う。包容力のすばらしさ。
そんなムコに見守られて ツマは自然体で生きていける。
近所の住人も二人を受け入れ、一緒にビールを飲み、おかずを分け合い、蜂に刺されたら心配する。
そんな周囲の人の前でツマは 痛がってわんわん泣いたりもできる。

けれど ほわほわと温かいだけで、「こんな夫婦になって 田舎暮らししたいわー」なんて簡単に言わせないのがこの物語だ。

近所のアレチさんの奥さん セイカさんの認知症(記述内では特に困った感じはないのだけれど)、駒井さんの孫の大地くんは登校拒否して田舎で休養中。

当のムコさんも 大好きだった叔母を自殺で亡くし、喪失感を引きずっていて、背中の色鮮やかな鳥の入れ墨には重たい何かを隠している。

都会にいた頃の二人や 二人が出会うまでのことは(ムコさんについては終盤で明かされるのだが)、ツマがどんな風に生きづらい(生きづらかっただろう)世界で大人になってきたのかは明かされない。

野良犬のカンユさんや虫や草花は ツマの中ではおしゃべりなのだけれど、いざ映画となって、実際の「声」が自分の耳に入ると、そこだけすっかりファンタジーになってしまう。

文章の場合はまだ、それが聞こえないムコさんの立場、ものの見方、聞こえる世界が並行するので、どちらにでも感情移入できる。

ムコさんが過去から解放されて 背中の鳥が飛び発つのも それが映像になってしまうと、少し違和感があった。決してファンタジー展開が嫌だとかそういうことではない。ただ小説の方が 沢山の不思議な状況をどう見るか、どうとらえるかの選択枝がある気がしたのだ。


漫才師の復活エピソードは 大地君が考えるきっかけにはなったけれど、少しだけ物語の中で浮いた色合いになってしまったかと思う。ムコさんの働く場の雰囲気やそのイベントに関わって わくわくするツマや頑張るムコの様子は生き生きしていて ストーリーに華やぎを与えてくれてはいるけれど。

小学生の大地君とツマの恋に似た(……恋ですね)繋がりも微笑ましい。ツマだから、こういうツマだからこそ大地君の心を掴み、癒し、前へ進ませることができたのだと思う。

そうやって 誰かが誰かの支えになって 癒しになっている光景が素敵だなとおもうのだ。
恋敵(!)の小学生の洋子ちゃんともちゃっかり仲良くなれているところもいい。



いつもお花を供えてある、誰のか解らなかったお墓のことは 他の人には見えないものが見えるツマの不思議な力によってそれと解る。酷い雨の中、傷ついてふらふらになったツマに 久々に聞こえる虫たちの声。誰にも語られなかったはずのアレチさんの辛い戦争体験。ファンタジーといえばこれもそうなんだけれど、現実の重さとバランスを取って 不自然な感じはしない。


ムコが過去と向き合うために訪ねる相手は 心を病んだ女性とその夫。ムコの訪問によって愛する奥さんが心を開くかもしれないと ムコに頼るのが切ない。
ムコは大好きだった叔母さんを救うことができなかったことに捉われたまま、その女性を彼女に重ね、ツマと出会い心から愛しながらも、どこかそこにまだ心を残したままでいた。

そんなムコの書いた日記をそのまま ツマが黙って読んでいて、読んでいるということがムコ自身にちゃんと解るような印を残しながら お互い何も言わない。

解り合い、支え合い、愛し合って 平和に暮らしている ちょっと変わったツマと優しい夫(ムコ)という構図が いや それだけではないぞ、というのはまずここから始まっているのだろう。


一番大事なこと「行かないで」だけが言えなくて 水道の蛇口から水を出し続け、止めるムコの手を傷つくまで打ち続けるシーンは映画でも ツマの心の叫びが痛いほど伝わって 忘れられない。


おつきさまの黄色い粉の中で 黄色くて空を飛べるゾウ。
夜の空を 病気の女の子とひとっとびして 世界を巡るのは楽しかっただろうに。

でも 舞ってきた鳥の羽を見つけて ゾウと女の子は気づくのだ。
空を飛びまわるのは 鳥に任せ
ゾウは灰色のゾウの群れで 幸せに。

その絵本の結末は 二人にどんな意味をもたらしたのだろうか。

ムコさんもまた その絵本が好きだったっていう話は 大地君が後に教えてもらって、まだ、ツマは知らずにいる。読者と大地君とムコの楽しい秘密なのだ。


色々な不思議は世界に満ちていて もしかしたらツマの見て、聞こえるものも「ほんとう」かもしれない。そんな風に思える人が 田舎だけでなく都会にもたくさんいたら きっと皆 穏やかに生きることができるのだろうと思うのだ。

西加奈子さん、少し間をおいて やっぱりもう一作、読もうかな と思う。

# by nazunakotonoha | 2019-12-21 20:25 | 西加奈子 | Comments(0)

守銭奴

「勘違いコント」といえばイメージが解るかな。掛け合いの妙。
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「ド」の付くほどのケチでお金が大好きな父親を持つ兄クレアントと妹エリーズ。振り回されるふたりのそれぞれの恋人(ヴァレール、マリアーヌ)や使用人たち。

父親のアルパゴンは自分の都合で子供たちの結婚相手を決めようとしています。けれど、それぞれまだ父親には言い出せないものの 思い合っている相手がいるのです。何とか親に認めさせたいと策を考えているうちに、どういう訳かアルパゴンが息子の好きなその女性と(そうとも知らず)結婚すると言い出したから さあ大変。どたばた喜劇の幕開けです。


物語の台詞は「笑いを取る掛け合い」のいくつかもパターンをきっちり揃えていて、落語や 良く出来た漫才やコント想起させます。戯曲内での順はばらばらになりますが思いついたものから挙げてみます。


父と娘の恋人の会話は 同じ事柄について会話していると思い込んで、実は別の話をしているという「勘違い」のパターン。
本人たちが齟齬に全く気づかずに延々と会話して笑いを誘うという手法は 古今東西好まれているようです。観客(読者)には すでにその「勘違い」は解っているので、畳みかけるような会話の応酬のおかしみと、いつ勘違いに気づくのか、というワクワク感が相まって更に面白いのでしょう。
隠したお金の「箱」のことを父は言い、娘の恋人は娘である「エリーズ」のことをしゃべっている。「人」と「お金の入った箱」じゃあ全くかみ合わないはずの会話がなぜかそのまま続くところがミソです。


相手の台詞のオウム返しや 語尾や語句を少し変えての返答。
嫌味や揶揄い、相手の言葉にまともに答えない、という態度で 父が娘に答えます。娘の気持ちを軽んじて小馬鹿にした感じが出ています。


間に人を置いての喧嘩中の父と息子の会話。
ジャック親方は 真正直に主人の悪評判を告げたせいで殴られてしまい 言ったことを後悔して「不正直」に転じます。喧嘩中の父と息子は直接口をきくのを嫌がり、親方を間に立てるのですが、間に入った彼はそれぞれの喜ぶような嘘の伝言をします。
伝言の両方を観客(読者)は交互に聞くことになり、他方の会話は聞こえていない二人が その嘘の伝言を真に受けるそれぞれの様子に苦笑します。そんなに簡単にそれぞれの都合通りに和解できるなら 最初から親子の揉めごとはありませんよね。これはすぐにバレますが。

同じように ご機嫌取りの心にもないおべっか、お追従の言葉とそれを真に受けるアルパゴン。
恋人の父親に気に入られるための作戦として アルパゴン喜ぶようなのことばかり言うヴァレール、彼は身分を隠し、執事としてこの家で働いています。
その調子の良さと それにまんまと乗せられて単純に喜んだり感心するアルパゴンの様子も笑えますし、同じように少しでも上手くおだててお金を貰おうとする「取り持ち婆」フロジーヌと 誉め言葉と良い情報だけ喜んで受け取り、お金のことだけは聞こえないふりをするアルパゴンのやりとりも絶妙です。


父と息子が同じように同じ女性を褒め、会うことを喜ぶ言葉、「継母」としては受け入れがたいという息子の言葉が 実は「恋敵」としての言葉なのに伝わらないこと、息子が人を介して借金しようとした相手が 途方もなく酷い利息や条件をつけてくる。こんなひどい金貸しなんて あの人以外にいないだろうな、観客(読者)は思うけれど、借りる方も貸す方も本人たちは気が付かない。

「盗人」が誰だか知っている、というジャック親方の「証言」もさもありなん、という具合です。どこにどんなものが隠してあったのかも知らない、もちろん「濡れ衣」を、アルパゴンの言葉を上手く引き出して あたかも「知っていた」ように言う。どう聞いたっておかしな「証言」なのに 立ち会っている面々はその不審さに気づかない。

そんな風に、観客(読者)から見たらバレバレの 勘違い、すれ違いなどのおかしな会話が これでもかと続きます。展開は期待通りに進み、きっと笑いに来た客(読み手)はこの「期待どおり」が楽しいのです。


そして結末は 離れ離れになったある家族が幸せな再会をし 貧しく辛く暮らしていた母娘に救いがあり、二組の恋人たちがめでたく結ばれ ハッピーエンドとなります。これも想定内というところでしょうね。(アルパゴンも一番大事なものが戻ってきたみたいなので これも良かった、ということでしょう)



子供よりお金の方が大事なアルパゴンも 嘘の伝言をしたり嘘の証言をしてヴァレールを盗人に仕立てようとしたジャック親方も 悪人というほどでもなく、なかなかチャーミングに描かれていると思います。

喜劇は笑ってナンボ。とっても楽しい読書でした。


# by nazunakotonoha | 2019-12-21 20:12 | 海外の作家 | Comments(0)

フラニーとズーイー

こどもたちの悩みを解決できなくても せめてスープを、と思うベッシーママの気持ちがよく解る。
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サリンジャーを読んで、ママ目線になって語ってしまう読者が今までいたかしら、と思う。

折角の繊細な若者ならではの悩みや辛さを巧みに描いた作品を、自分が何歳だとしても、主人公に心を寄せて読むのが普通なんじゃないか、とも思う。
もちろん主人公たちの気持ちにも寄り添うし、同じように心を痛める。目の前にレーンという「恋人」がいて こっちを向いていれば私は「フラニー」だし 部屋に入って来た兄が長々と語るのを悲しい気持ちで聞いている間も「フラニー」であり、彼女を何とか助けたいと語り続けている兄の「ズーイー」でもある。

※私の手元にあるのは講談社文庫で、高村勝治訳「フラニー ズーイー」ですが ここに掲載させて頂きます。訳の違いで言葉が少し違うこともあるかと思いますがお許しを。


ラジオ番組に順に出てはその賢さやかわいらしさで人気を博していた7人の兄弟。スクラップや写真を部屋に並べ、どんなに両親にとって自慢で可愛い 素敵な子供たちだったかは想像できる。(中でもこの2作の主人公 下から二人は飛びぬけて容姿にすぐれ、兄は俳優に、妹は大学で演劇を専攻している。)

そんな幸せだった日々も遠ざかり、繊細な次兄は自死してしまい、もう一人の男の子も事故死で失うということがこの家族に この母に、影をささないわけがない。それでも母はそのほかの子供たちを見守り、食事を作り 笑ったりしながら日々を過ごさないとやっていけないのだ。


1作目「フラニー」は フラニーが「恋人」のレーンと週末に会い、レストランに向かうところから始まる。

美人で才女のフラニーと、そつのない好男子(のはずだが……)という誰もが羨むカップルの お洒落で楽しい週末が フラニーの不調で台無しになってしまうのだ。

その日のフラニーは、何もかもに懐疑的で否定的になってしまい 食欲もないぼろぼろの状態だ。周囲の人のくだらなさにげんなりし、レーンが読ませたがる論文(もちろん彼女の賞賛を期待しているんだろうが)になんて全く興味を持てない。ちやほやされ、劇で主役を演じることも、それを受け入れてしまう自分自身にもうんざりし 心身ともに酷く憔悴している。

フラニーの気持ちそのままに、二人のかみ合わない会話は、読者の目にレーンを何の魅力もない「俗物」に映し出すのだ。(改めて考えたら そんなに酷い奴でもない……かもしれない)

フラニーが今心の中を占めていて やっと語ろうとする本の話をレーンは全く聞こうとせず、皿の食べ物を切り分けるのに必死だし、フラニーがいよいよ気分が悪いと席を外すと、周りの目を気にして 何の問題もないカップルのように振舞っている。

そうしているうちに フラニーは気を失って倒れてしまう。
そんな 一日の短い時間を描いた話だ。



そして2作目の「ズーイー」。

これは フラニーがその後、家に帰ってきたものの引きこもって何も食べず ベッシーママを心配させる話だ。

レーンからは彼女の様子が変だったと何度も電話が入っている。家でもフラニーは部屋に籠ってベッドで一日中過ごし、折角のスープもほとんど受け付けない。
心配しないわけがないのだ。繊細な心を持った兄のシーモアを家族はすでに失っているのだから。
心を病んだ末っ子娘に何とか元気になって欲しい、自己否定なんてしないで、自分も他人も愛して欲しいのだ。世界に絶望なんてして欲しくないのだ。誰か助けて。

そうしてママは、フラニーのすぐ上の兄、俳優のズーイーに相談を持ち掛ける。
最初の舞台はバスルームの中と外。
二人は上の兄たちから早い時期から 宗教や哲学など、彼らが興味を持った色々なことについて聞かされ教えられてきた。早熟な、でも頭でっかちな子供たちでもある。シーモアを失ったことに心を痛めているのはもちろん ママだけではない。

フラニーに何か言ってあげて欲しい、他の誰かに相談すべきだろうか、頼りにする長兄とは電話がつながらない。パパなんかフラニーにミカンを食べさせることくらいしか考え付かないんだから。
ズーイーはレーンのこと悪く言うけど、心配もしてくれてるのよ、何度も電話があった。あんな「普通に感じのいい」彼氏と「普通に」幸せに過ごしていて欲しかったのに どうなっちゃったんだろう、と 「ママ」は思うのだ。(スミマセン ママの気持ちに創作入ってしまいました)
そして あの子、何だか宗教の本を大事に持ってるの、大学の図書館から借りたんだと思う、とママは言う。

それに対してズーイーは茶化したり、ふざけたり、のらりくらりとかわしたり、邪険にしたり、と 簡単にはママの相談相手になんかなってくれない。この子もまた 繊細で扱い辛い子供なのだ。そして、この「本」が図書館の本なんかじゃなく、シーモアの本だということを告げるのだ。


バスルームでの長い会話ではそんな風だったズーイーだが、その後 妹の部屋を訪ね、そして長兄のふりをしてわざわざ家の中の電話を使って話すという手段も使って 閉ざしたフラニーの心に入っていくことを試みる。(声の違和感と語り方でフラニーにはバレてしまうけれども)

宗教の絡んだ繊細で難しい会話の真の内容は 私には「解る」とは言い難いけれど、ズーイーが言葉を尽くしてフラニーに語り掛け 扉を開こうとしていることは解る。否定され馬鹿にされているように感じて最初は拒否の態度で兄にあたるフラニーも 少しずつ耳を傾けていくのだ。

そしてズーイーは『「太ったのおばさま」のために靴を磨け』といったシーモアの話を出す。ラジオに出るのに靴なんて磨かなくてもいいと言う幼いズーイーに、シーモアがそう諭したのだ。
すると フラニーも思い出して言う。シーモアは自分にも「太ったおばさまのためにおもしろくやれ」って言っていた。 

それはどういう意味なのだろう。

「太ったおばさま」と聞いた時 二人はそれぞれ想像した。身体を壊しラジオを聴くだけが楽しみのような女性。今フラニーが絶望し信じることも愛することも放棄してしまいそうな「世間」、その中の誰か、それを代表する誰か。ぞんな誰とも解らぬ相手が自分を楽しみに待っている。そんな相手に向けて自分は言葉を発しているのだ。
二人の敬愛するシーモアは そんな相手のために力を抜くな、心を尽くせと言ったのだ。
そのことを思い出し、共に語ることでやっとフラニーに光が戻るのだ。


フラニーが自分のものさしで全てを測り、自分自身でさえ認めることができなくなって苦しんでいる時に ズーイーはシーモアの言葉で そんなものさしは本当じゃないんだと気づかすことができたのだ。
更に、ズーイーは言う。その誰でもあり、誰でもない「太ったおばさま」はフラニーが祈りを唱えて求めようとするキリストその人でもあるのだ、と。

やっとフラニーは心の中のわだかまりを溶かして 静かに安心して眠ることができる。
今度起きた時は ママの心を込めて作った美味しいチキンスープをしっかり飲んでね、と願って止まない。その後はきっと 笑顔だ。

ズーイー、Good Job!


以前「ナイン・ストーリーズ」を読んでここで書評を書いた。まだグラス家の事情もひとりひとりの名前も知らなかった。この本は長兄のテディが書いているという設定で グラス家の家族について説明がある。改めて 彼らの「知り合い」として、シーモアの思い出を共有する者として「ナイン・ストーリーズ」を読み返してみたいと思う。

そしてまた後に 彼らの長い会話の中の宗教観とか世界観とか(良くも悪くも)について語った部分も含め この本を「きちんと」読み返してみようと思う。もっと歳を取っていても彼ら自身の気持ちに寄り添ってね。


# by nazunakotonoha | 2019-12-07 17:48 | サリンジャー | Comments(0)

あひる

この不安感やざわつきがどこから来るのか考える。

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本書はもちろんサスペンスでもホラーでもない、特に怪しげな人が出て来るわけでもない。勿論 ヒトの死体も出ないし殺意も悪意もないのだ。描かれている表層では。

「あひる」「おばあちゃんの家」「森の兄妹」の3作 掲載。

私も子どもがそこそこ大きくなる前は、学年の違う近所の子や学校の友達が気軽に訪ねて来る家を理想に描いた。おばちゃんおばちゃん、と慕われて たまには遊びに参加して、子供がお稽古ごとで出かけていたら 戻るまで待ってていい?なんて聞かれて、いいよ、なんて答えて。よその子が我が家みたいに寛いで。預け合いとか一緒に連れて出掛けたりとかもいいな。なんてね。

でも現実では 子供はそんなに単純な天使じゃない。この家は居心地が良いとか何やっても怒られないと解ると、よその子がどんどんテリトリーを侵して来る。線引きが必要だったのだ。
そろそろ帰る時間じゃない?なんてやんわり帰ってくれと言っても「うちはまだいいの。お母さん帰って来るの遅いから」とか、しまいには「何か飲みたい」とか台所まで入ってきたり、家のものを勝手に触ったり。もちろん我が子にも合う合わないという子供の「相性」がある。

しまいにはコイツらはうちの子と遊びたいんじゃなく、エアコンが利いてて玩具がある家に入り浸りたいだけなのか、と愕然とする。できるだけ外で遊ばせたけれど、うちの子はインドア派。
チャイムと「遊ぼう」の声が母子共に嫌になった時期もあった。
そのうちちゃんと自分と気の合った友達と約束した時、約束した場所で遊ぶようになったのでほっとしたものだ。(それでも「何で(その子も混ぜて)一緒にに遊べないの?」と責めてくる子がいたが)

結局 自分たちのパーソナルスペースが侵されるのは心理的に圧迫でしかない。相手が子供たちであったとしても。よその子を招き入れるならそれなりのルールとそのルールを守らせる努力が必要なのだろうし、私がそういう器じゃなかったんだろうな、と今では思う。


さて 本題。

「あひる」の話ではあひるの「のりたま」を見に近所のこどもたちがやって来る。
主人公は看護の資格取得のための勉強中で在宅だけど、弟はグレて家を出て 今は結婚しているが疎遠。
両親は多分少し寂しかったのだろう。会話も特にない家族に 子供たちの訪問は嬉しい。新しい風が吹き 淀んでいた空気が急に動き出す。
両親は嬉々として こどもたちを迎えるために お菓子を揃え、宿題をする子に部屋を開放し、誕生会の用意までする。その日は結局子供たちは何故か来なかったのだが 夜更けに別の子がやって来る。
他人の家を訪ねる時間じゃない。家の鍵を失くしたと言ってずんずん部屋に上がって探し回り、終いには誕生会のために作った料理やケーキまで食べて帰る。少年に見覚えがあるようなないような、というところがまた 怖くもある。



子どもたちが散らかし放題だとか勝手気ままだとか、そういうことだけではなく、その賑やかな訪問があひるのストレスにもなることが後から解る。あひるはすぐに弱って病院に連れて行かれるのだ。
治って戻ってくる「のりたま」は毎度 羽の色が微妙に違っていたり、体形や目の色が違う。違和感だらけだ。
でも、誰も、指摘しないし 聞かなかった。
やがて「(最後の)のりたま」は死んでしまう。お墓に埋めてやっていると女の子が一人やって来て、その子の言葉で、やっぱり子供たちも「のりたま」が一羽だけではないことに気づいていたことが判る。



だんだん捩れが見えてくる。どうして?とはだれも言わなかったのだ。「楽しい時間」のバランスを守るための暗黙の了解。それともこどもにとって「あひる」なら皆同じなんだろうか、と首を傾げる。これがもし犬や猫だったら、と考えると気は重い。

最後に弟の夫婦に赤ちゃんが生まれ、リフォームして同居という展開がある。「赤ちゃん見せて」なんてこどもがやって来ることを想像するとまた薄ら寒い。(この弟は絶対よその子なんか家に入れないはずだけど)

心理的な圧迫感を押し出して 重々しい音楽を流しドキドキさせるような演出を施せば よくある「怖い話(奇妙な話)」として短編の映像にできるかもしれない。でも、この書き手はそんな風には書かない。なのに こんなに皆ざわざわする。きっと皆がはっきりとは意識していないけれど どこかに潜む、ほの暗い人間への不信感とか 何かを押し隠すための感情の誤魔化しとかを 身に覚えがないかと自らに突きつけ、感じさせるからだと思うのだ。


他2編も児童文学風の「こども」の話ではあるけれど、読み終えてふと考えると 何だかじわじわ怖いものがある。そして「森の兄妹」を読み終えると2編は最終的に繋がりがあることに気が付くのだ。
もう一度 それらの情景を組み合わせ見える景色を組み立ててみると その裏に何か重たい大人の事情や感情があるように感じてしまう。

これは本来関係づけてはいないかもしれないけれど、「森の兄妹」でモリオのお母さんが「もってきた」モリオがずっと読みたかった漫画本一式は 「あひる」の家の弟の部屋から勝手に持ち出さ漫画本のような経緯で「売られて」いたものなのかもしれない。「あひる」の家に夜更けにやって来たのはモリオのような事情の子供なのかもしれない。

だれもが「普通」なのが怖い。
そんな風に感じてしまう 自分が怖い。
そんな話だ。










# by nazunakotonoha | 2019-12-07 17:38 | 今村夏子 | Comments(0)