折角の繊細な若者ならではの悩みや辛さを巧みに描いた作品を、自分が何歳だとしても、主人公に心を寄せて読むのが普通なんじゃないか、とも思う。
もちろん主人公たちの気持ちにも寄り添うし、同じように心を痛める。目の前にレーンという「恋人」がいて こっちを向いていれば私は「フラニー」だし 部屋に入って来た兄が長々と語るのを悲しい気持ちで聞いている間も「フラニー」であり、彼女を何とか助けたいと語り続けている兄の「ズーイー」でもある。
※私の手元にあるのは講談社文庫で、高村勝治訳「フラニー ズーイー」ですが ここに掲載させて頂きます。訳の違いで言葉が少し違うこともあるかと思いますがお許しを。
ラジオ番組に順に出てはその賢さやかわいらしさで人気を博していた7人の兄弟。スクラップや写真を部屋に並べ、どんなに両親にとって自慢で可愛い 素敵な子供たちだったかは想像できる。(中でもこの2作の主人公 下から二人は飛びぬけて容姿にすぐれ、兄は俳優に、妹は大学で演劇を専攻している。)
そんな幸せだった日々も遠ざかり、繊細な次兄は自死してしまい、もう一人の男の子も事故死で失うということがこの家族に この母に、影をささないわけがない。それでも母はそのほかの子供たちを見守り、食事を作り 笑ったりしながら日々を過ごさないとやっていけないのだ。
1作目「フラニー」は フラニーが「恋人」のレーンと週末に会い、レストランに向かうところから始まる。
美人で才女のフラニーと、そつのない好男子(のはずだが……)という誰もが羨むカップルの お洒落で楽しい週末が フラニーの不調で台無しになってしまうのだ。
その日のフラニーは、何もかもに懐疑的で否定的になってしまい 食欲もないぼろぼろの状態だ。周囲の人のくだらなさにげんなりし、レーンが読ませたがる論文(もちろん彼女の賞賛を期待しているんだろうが)になんて全く興味を持てない。ちやほやされ、劇で主役を演じることも、それを受け入れてしまう自分自身にもうんざりし 心身ともに酷く憔悴している。
フラニーの気持ちそのままに、二人のかみ合わない会話は、読者の目にレーンを何の魅力もない「俗物」に映し出すのだ。(改めて考えたら そんなに酷い奴でもない……かもしれない)
フラニーが今心の中を占めていて やっと語ろうとする本の話をレーンは全く聞こうとせず、皿の食べ物を切り分けるのに必死だし、フラニーがいよいよ気分が悪いと席を外すと、周りの目を気にして 何の問題もないカップルのように振舞っている。
そうしているうちに フラニーは気を失って倒れてしまう。
そんな 一日の短い時間を描いた話だ。
そして2作目の「ズーイー」。
これは フラニーがその後、家に帰ってきたものの引きこもって何も食べず ベッシーママを心配させる話だ。
レーンからは彼女の様子が変だったと何度も電話が入っている。家でもフラニーは部屋に籠ってベッドで一日中過ごし、折角のスープもほとんど受け付けない。
心配しないわけがないのだ。繊細な心を持った兄のシーモアを家族はすでに失っているのだから。
心を病んだ末っ子娘に何とか元気になって欲しい、自己否定なんてしないで、自分も他人も愛して欲しいのだ。世界に絶望なんてして欲しくないのだ。誰か助けて。
そうしてママは、フラニーのすぐ上の兄、俳優のズーイーに相談を持ち掛ける。
最初の舞台はバスルームの中と外。
二人は上の兄たちから早い時期から 宗教や哲学など、彼らが興味を持った色々なことについて聞かされ教えられてきた。早熟な、でも頭でっかちな子供たちでもある。シーモアを失ったことに心を痛めているのはもちろん ママだけではない。
フラニーに何か言ってあげて欲しい、他の誰かに相談すべきだろうか、頼りにする長兄とは電話がつながらない。パパなんかフラニーにミカンを食べさせることくらいしか考え付かないんだから。
ズーイーはレーンのこと悪く言うけど、心配もしてくれてるのよ、何度も電話があった。あんな「普通に感じのいい」彼氏と「普通に」幸せに過ごしていて欲しかったのに どうなっちゃったんだろう、と 「ママ」は思うのだ。(スミマセン ママの気持ちに創作入ってしまいました)
そして あの子、何だか宗教の本を大事に持ってるの、大学の図書館から借りたんだと思う、とママは言う。
それに対してズーイーは茶化したり、ふざけたり、のらりくらりとかわしたり、邪険にしたり、と 簡単にはママの相談相手になんかなってくれない。この子もまた 繊細で扱い辛い子供なのだ。そして、この「本」が図書館の本なんかじゃなく、シーモアの本だということを告げるのだ。
バスルームでの長い会話ではそんな風だったズーイーだが、その後 妹の部屋を訪ね、そして長兄のふりをしてわざわざ家の中の電話を使って話すという手段も使って 閉ざしたフラニーの心に入っていくことを試みる。(声の違和感と語り方でフラニーにはバレてしまうけれども)
宗教の絡んだ繊細で難しい会話の真の内容は 私には「解る」とは言い難いけれど、ズーイーが言葉を尽くしてフラニーに語り掛け 扉を開こうとしていることは解る。否定され馬鹿にされているように感じて最初は拒否の態度で兄にあたるフラニーも 少しずつ耳を傾けていくのだ。
そしてズーイーは『「太ったのおばさま」のために靴を磨け』といったシーモアの話を出す。ラジオに出るのに靴なんて磨かなくてもいいと言う幼いズーイーに、シーモアがそう諭したのだ。
すると フラニーも思い出して言う。シーモアは自分にも「太ったおばさまのためにおもしろくやれ」って言っていた。
それはどういう意味なのだろう。
「太ったおばさま」と聞いた時 二人はそれぞれ想像した。身体を壊しラジオを聴くだけが楽しみのような女性。今フラニーが絶望し信じることも愛することも放棄してしまいそうな「世間」、その中の誰か、それを代表する誰か。ぞんな誰とも解らぬ相手が自分を楽しみに待っている。そんな相手に向けて自分は言葉を発しているのだ。
二人の敬愛するシーモアは そんな相手のために力を抜くな、心を尽くせと言ったのだ。
そのことを思い出し、共に語ることでやっとフラニーに光が戻るのだ。
フラニーが自分のものさしで全てを測り、自分自身でさえ認めることができなくなって苦しんでいる時に ズーイーはシーモアの言葉で そんなものさしは本当じゃないんだと気づかすことができたのだ。
更に、ズーイーは言う。その誰でもあり、誰でもない「太ったおばさま」はフラニーが祈りを唱えて求めようとするキリストその人でもあるのだ、と。
やっとフラニーは心の中のわだかまりを溶かして 静かに安心して眠ることができる。
今度起きた時は ママの心を込めて作った美味しいチキンスープをしっかり飲んでね、と願って止まない。その後はきっと 笑顔だ。
ズーイー、Good Job!
以前「ナイン・ストーリーズ」を読んでここで書評を書いた。まだグラス家の事情もひとりひとりの名前も知らなかった。この本は長兄のテディが書いているという設定で グラス家の家族について説明がある。改めて 彼らの「知り合い」として、シーモアの思い出を共有する者として「ナイン・ストーリーズ」を読み返してみたいと思う。
そしてまた後に 彼らの長い会話の中の宗教観とか世界観とか(良くも悪くも)について語った部分も含め この本を「きちんと」読み返してみようと思う。もっと歳を取っていても彼ら自身の気持ちに寄り添ってね。