人気ブログランキング | 話題のタグを見る

天国はまだ遠く

久しぶりの瀬尾まいこ。急にこのやわらかい雰囲気に浸りたくなって。

天国はまだ遠く_c0106758_13295643.jpg










随分前に読んだこの物語を急に再読したくなったのは何故だろう。

この主人公の千鶴みたいに 仕事や恋で悩んでいるというわけじゃない。
色んなことに真面目に悩んで疲弊してしまうにはもう図太くなりすぎた気がする。

千鶴の今までの経過がさほど詳しく描かれていないので 彼女の事情が自殺を決めるほどのことに思えないのも、そういう繊細さを失ってしまったからかもしれない。

それでも この物語の始まりは彼女の自殺決行の決意の旅立ちから始まるのだ。


話が前後するが、この話で気が付いたのは メールでは気持ちってそんな簡単に伝わらないってこと。こんな風に決意したことを彼女は恋人に(もう前の親密さは無くなっていたものの)メールをし、もちろん本人も読者もここでは「私は死ぬつもりです」と伝えたつもりでいた。
それが、だ。全然そんな風には伝わっていなかったことが後で解る。
「さよなら」はただの恋愛関係の解消と思われ、「死ぬ」心配はちっともされていなかったのだ。

中途半端な睡眠薬での自殺は 当然のように失敗に終わる。ぐっすり眠ったことでリセットできたところもあり、田舎の民宿暮らしで日々癒されていく彼女。

捜索願なんて出されちゃたまらないし、「心配しないで、生きてます」ということだけ知らせたくて書き送った「手紙」。なんだか解らないまま、遠路はるばる様子を見に来てくれた元カレ。
こんな再会でも 恋愛関係の復活みたいな感動話にはならなかったけれど それでも相手の人としての良さを確認できたこと、メールでは全然伝わっていなかったことを確認できたことは、結構いいことだったのだと思う。


1ケ月彼女が居たのは、自然しかない田舎の、宿泊客のほとんど無い、営業しているのかも不安な「民宿 たむら」。オーナーは何もかも大雑把でマイペースな男性 田村さん。この人里離れた宿に スウェットに、はだし、ぼざぼざ頭の格好を構わない田村さんと一つ屋根に下で二人きり。(民宿で、たったひとりの客なんだから当たり前だという田村さんの言葉には納得で、「それなら大きなホテルの方が同じ建物の中に男女入り乱れて……(不健全?)」という田村さんの返しには笑った)
でも大丈夫 これもまた全然恋愛展開にはならないのだ。「人間愛」的なほのかな情は芽生えたみたいだけれども。


千鶴と田村さんのキャラがとても自然でいい。千鶴の性格は本人が思うよりきっとおおらかで強く、自由なのだ。今までの暮らしの中で、気を使いすぎて、言いたいことも言えなくて苦しんできたのは、自分の本来の姿を抑え込んで来たからなのだろう。

そんな自分の素直な姿を 千鶴はここで取り戻す。田村さんは気を遣わせない。素直でちょっと失礼なくらい言いたいことをポンポン言えるようになっていく千鶴の様子を面白がって 煽っているようにも見える。器が大きいのだ。田舎の自然みたいに。


1ケ月の千鶴の田舎暮らしの様子は特に変わったことはない……と、思ったけれど、私は 揺れる舟で釣りをしたことも 船酔いで海に吐いたこともないし、鶏を目の前で締めるのを見たこともない。鶏小屋の掃除もしたことないし、おかずも要らない程甘くておいしいお米を食べたこともない。誘われたって知らない田舎の人がのたくさん集まる会合に付いてはいかないだろう。
満天の星空を見上げて 酔っぱらって地面に寝っ転がって 恋人でもない男の人と讃美歌と吉幾三を歌うなんて どんな感じなんだろうと思うのだ。
何にもない日々なんてないのだ。なんにも素敵なことを感じられないのはきっと自分の気持ちの問題だ。そんな風に思うのだ。


散歩以外特にすることがない、という千鶴の様子を見て、何が趣味だった、好きだったのか聞かれて 千鶴は絵を描くのが好きだったことを思い出す。絵の勉強をして絵を描く仕事につきたかったこと。そしてスケッチに出かけていく。

だけど、何という展開なんだろう。千鶴の絵は上手じゃないのだ。

これには驚かされた。普通、絵を描いて 絵が好きだったことを確認して、帰るにしろ居続けるにしろ「絵を描いて生きていく」という話になるのかと思ったのだ。
だけど実際は違う。上手くないことを自分でも確認するし、彼女の絵はやっぱり田村さんが見てもそうらしい。

それでも 千鶴はここから出発することを決めるのだ。居続けるのではなく、ただ帰るのでもなく。捨てようとした自分自身を見直してきっちり抱きしめて。

誰もが皆 こんな風に1ケ月民宿で暮らせば癒されて前向きになれますよ、という話ではないと思う。きっとタイミングや自分の心の状態や出会う相手や そんな色々な要素がかみ合って、前に向く力に変わるのだ。ここではこの田舎の自然と体験と「田村さん」だったけれど。


2008年に映画になっていると聞く。誰がこの雰囲気に合うかなと想像しながら読んだけれど、この映画では加藤ローサと、「チュートリアル」の徳井サンだったらしい(笑)

# by nazunakotonoha | 2020-05-01 13:20 | 瀬尾まいこ | Comments(0)

怪人二十面相 (少年探偵)

童心に戻って楽しく読了。読者へ向けてちょくちょく差し挟まれる文章が「語り聞かせ」の雰囲気で楽しめます。イマドキの子供向けの注釈が時代の変遷を実感。
怪人二十面相 (少年探偵)_c0106758_20573028.jpg













江戸川乱歩、初読みです。

本が好きな母なのに 息子は本を読んでくれず、中学、高校の感想文の提出はほぼ内容はそのまま同じ「ホームレス中学生」で、しかも母の誘導でやっと書き上げたもの。もっと細部を指摘したかったけれど、本人がこれで良し、とした状態で提出。

とまあ、こういう息子に興味を持てそうな本を、と色々試した中の1冊です。結局 彼が読んだのかも不明。

私の父の時代の少年たちが心躍らせ 読みふけったものだというだけに、レトロな舞台と語り口、それを楽しみとして読みました。


最初の章では明智探偵は海外に行っていて不在。明智探偵の弟子、助手として、代理の小林少年が活躍します。読者の少年たちには ぐっと感情移入して読むことができます。二十面相に狙われるお屋敷の息子である少年も 自身が庭に仕掛けた罠で 二十面相を困らせるのに一役買っています。後日、彼の発案で小林少年をリーダーに少年探偵団が結成されるところまでが この本で読めます。


小林少年の探偵の七つ道具もさり気なく紹介されるあたり、読者の「真似したい」気持ちを掻き立てるのでしょうね。きっと色々な玩具の探偵グッズを欲しがったり、それに見立てたモノで遊んだりしたことと思います。

すでに少年少女ではない読者にしたら、段々と作者の(二十面相の)手口が解ってきて、次の事件あたりでは新たな登場人物を疑ってみたり、これは相手を騙すためのあえての〇〇だろうとか 先に色々状況を読み、それが解った上で、名探偵と顔を変え変装した大泥棒との騙し合い、緊迫した場面にぐいぐいと引き込まれるわけです。

これは「実は」を解った上で読むのも 騙されたままで読むのも きっと面白いはずで、そういうところが上手いなぁと思うのです。年少の素直な読者たちでも きっとマニアックに読み漁っているうちに 推理の名手になって、怪人の変装や探偵の仕掛けた罠などもちゃんとわかりつつ楽しむようになるのだと思います。


素直に騙されてドンデン返しで驚くのも良し、推理を働かせて状況を掴みながらハラハラするのも良し、掴み切れず、ああ、やられた、と悔しがるのもまた 良しというところでしょうか。


本編とは別に、今時の子供向けに注が添えられていて、お金の価値なんかは勿論のことですが、「赤帽」とか「ルンペン」とかの説明や「その頃は電話のある家は少なかった」なんていうのを欄外の注釈で読むと 時代が変わっても読み継がれるには 「そのまんま」という訳にもいかないものだなぁと思います。

作者が時折顔を覗かせて、読者に語り掛けるのもまた、「語り聞かせ」(父に言わせれば「講談」みたい)に耳を傾けているような気持ちになり、楽しい読書の時間でした。


# by nazunakotonoha | 2020-03-21 18:44 | 未分類(国内の作家) | Comments(0)

三銃士〈下〉

悪女?妖女?ミレディの見せ場がたっぷり。主役を奪う勢いは作者の愛を感じます。
三銃士〈下〉_c0106758_20562261.jpg













下巻では、英仏の国の間で戦いが始まります。それと同時進行でミレディという謎の美女がダルタニアンの命を狙い、何度も仕掛けてきます。ダルタニアンと三人の銃士も彼女を追います。


そもそもの因縁の原因は ダルタニアンがミレディ(既婚者)の書いたワルド伯への恋文を横どりして なりすましの返信をした上、暗闇の中 ワルド伯になりすましたまま想いをとげたこと。(子供向けの本では削除されているのでしょうか)

この物語の中でなく舞台が現代で、ダルタニアンでもないただの若者だったら もうこれはアウトです。ミレディの恋心が真っすぐなものなのかは はなはだ疑問ですが(この人も相当なワルなので)それにしても このダルタニアンの行為は酷い。
しかも 彼に想いをよせる純粋な娘、ミレディの侍女のケティをその想いに気づいたら更にいいように使うわけで。

ダルタニアンはもともと拉致されたコンスタンスという恋人(これもまた既婚者)を探していたはずです。彼らが守る王妃様側にとっては敵である枢機卿リシュリューに ミレディーが加担していることも承知の上。どうなっちゃったのでしょう。ダルタニアンのミレディーへの行動はコンスタンス救出とは繋がっていかないのです。ただ、あの魅惑的な女性をものにしたいというだけの感じ。無理めな女性ほど手を出したくなるって男ごころでしょうか。

そんなダルタニアンの無道ぶりから始まりながらですが 物語は面白く人物たちはあいかわらず魅力的で読み手の興味を逸らしません。

見せ場のひとつは敵の砦での三銃士とダルタニアンの食事シーン。賭けのため、といいながら危険な場所にわざわざ移動して命がけで密談をします。敵の目を欺くために先に倒した敵の死体をダミーに使ったり 改めて考えてしまうとなかなか恐ろしいことをやっています。戦争もあり敵対する相手もいて、名誉のための決闘で相手を殺してしまうことも躊躇ない時代 そこを呑み込んでいかないと 物語は楽しめないということでしょうね。

ミレディの見せ場は囚われの身になってから。この美貌と悪知恵と状況を察知する能力と演技力で数々の男を騙し、いいように動かし 利用してきたその集大成です。
見張り番はただの色仕掛けでは動じないような青年。何故か。ただの忠誠心か。
その頑なさに 彼を清教徒だと見抜いた後はさっさと宗旨替えして、虐げられた清教徒の女性を演じて見せます。讃美歌を歌い、死にたいと訴え気をひくと、読者のハラハラをよそに、しっかり青年は騙されていくのです。そして長い長い作り話の身の上話はお見事としか言いようのない出来栄えです。
青年の表情を読み、じらしながら感情移入させて押しも押されぬ味方につける。何という技!
敵ながらあっぱれ、としか言いようがありません。


大団円でのダルタニアンの出世は期待通りですが、ミレディの「処刑」って、こんなのでいいの?っていう経過で行われてしまいます。枢機卿の許可証があったとしても、です。これも時代なんでしょうかね。
明らかに作者ごひいきの「稀代の悪女」、もっと生き延びて欲しかったです。他の女性たちも哀れ。


「貴族は嘘をつかない(=平民なら嘘をつく)」と貴族出身の主人公達が自身の言葉の真実をそれだけで証明(?)したり 悪女ミレディのことでさえ、作者が「女のかよわい力では」とか「男なら〇〇するところだが」とか(身体の)か弱さを強調するあたり こういうのも時代だなぁと思います。今だったらその辺の男より力強い女性はいっぱいいるし。

でも面白かったです。続編の20年後の話も読んでみたいです。




# by nazunakotonoha | 2020-03-21 18:42 | アレクサンドル・デュマ | Comments(0)

三銃士〈上〉

王室への忠誠と、自分の誇りと恋に命がけ。三銃士とダルタニアンの冒険物語。

三銃士〈上〉_c0106758_21051525.jpg












上下巻、通して読んでからのレビューの予定だったのですが、長いんです。上下巻!
話はトントン進み、面白いのですがなにしろ長いので 一旦上巻読了後の感想です。

子供向きに短くしたものや アニメ、人形劇、大幅に物語を変えた映画や、「その後」の物語が映画になったものなど 色々あり、実際いくつか見た覚えがありました。
でも 初心に帰って原作を読むのもまた良いもので、新たな発見もあります。

国や時代背景でものの考え方常識の違いなどもあって、今の善悪の物差しだけで見てしまうと、必ずしも主人公たちでさえ「いいひと」と言い切れないものがあります。決闘での殺人や不倫なんて誰も咎めないのがいい例です。そこに文句を言い出したら この物語は読めません。

その辺りは作者も心得ているようで 当時の読者に向けても、この時代はこういうものなんですよ、という注釈を時折 顔を覗かせて説明します。

登場する女性はほぼ皆既婚ですが 銃士たちとの恋の妨げにはなりません。伯爵夫人、男爵夫人なんていう人たちは大にして、このように恋を楽しんでいたのでしょうね。恋人にお金の援助や高価な贈り物を無心するなんてことも 男性たちにとって全然恥じゃない。武人がお洒落な服装で立派な馬に乗りたがるのは当然な感覚で、それをお金持ちの恋人の援助に頼ってOkな世界です。

もともと貴族の生まれといっても 現状お金持ちとは限らない。貴族もピンキリ、その上賭け事のせいで財布がスッカラカンという状態もありがちで、そうなれば誰か知り合いを頼って食事にありつきに行くというのもあるようです。それでも 皆「従者」は必須。田舎から出てきたばかりの若いダルタニアンも まず従者を持つのです。

物語にも少し触れておきます。

田舎出のダルタニアンが銃士にあこがれて貧相な馬に乗ってやって来るところから始まります。
貧相な馬だと解っていても、誇りだけは高い若者は馬鹿にされたら黙って引き下がりません。決闘だ、復讐だ、というのがこの物語に何度も出て来るシチュエーションです。



その後、今度はいきなり一日の内に別々にダルタニアンと決闘する予定となった三人が やがて仲間となっていく、アトス、ポルトス、アラミスの三人です。ちょうと三人とダルタニアンが決闘の場に集まった時に 別の敵と戦わざるを得なくなります。結果、三銃士プラスダルタニアンでタッグを組んで敵を倒し、その時の働きで腕と真っすぐで好ましい性格を認められ、仲間となっていきます。


寡黙で過去に何か秘密がありそうだけど、一番大人で頼りになるアトス、見栄っ張りだけど憎めない少し軽めのポルトス、僧職になるなると言いながら一番恋愛に気持ちを左右される美形のアラミス。三人の個性の描き方もまた秀逸で、これが一番のこの物語の吸引力なのだと思います。イケメンぞろいだという、ここも重要。

物語の上巻のメインとなる事件は、王妃様の恋愛絡みの行動で、国と国の戦争まで引き起こしかねない状況の中、王様に発覚する期限までに イギリス人の伯爵、熱心な王妃の求愛者の手に渡された「贈り物」を王妃様の手に戻し、何事も無かったようにすること。その品を取り戻すためにダルタニアンが三銃士とその従者たちと海を渡ります。極秘の任務なので三人にもその目的を秘密にしたままなのですが 三人は彼を信頼してついて行き、危険な目にあいながらもダルタニアンを支えます。いつの間に そんなにもダルタニアンは強くなり、信頼に値する男に成長したのでしょうね。
上巻ではまだ、田舎出で、恋に不慣れで純粋で素朴な青年だったダルタニアンは、下巻では更にオトナの階段を上って 恋に復讐に、女泣かせの手まで使う男になっていくようです。

漫画で読むなら誰の絵かなと想像すると、私には青池保子センセイのコミカルなタッチと渋い魅力の少佐のや伯爵の顔がが浮かびます。

# by nazunakotonoha | 2020-03-02 23:52 | アレクサンドル・デュマ | Comments(0)

茗荷谷の猫

幕末から昭和の高度成長期までの各時代を描く9編。武士の時代から戦争を経て変わっていくものがあり、変わらないものもある。東京の各地にスポットを当て、その地で生きた「誰か」の生き様の片鱗に寄り添ってみる。

茗荷谷の猫_c0106758_21010889.jpg













ソメイヨシノという桜を誰かが「作った」なんて、知らなかった。

「染井の桜」の主人公はその桜を研究と交配を重ねて作り上げ、自分の手柄ともせず名も残さずに逝ったひと。そしてその生きざまの陰に寡黙な妻の姿がある。「武士の妻」から「植木職人の妻」に身分が変わり、生活が変わった後、彼女は何を考えていたのだろう。それはこの短編では語られない。

他の人にはわからない世界を揺るがすこともない、自分だけの「夢」や「こだわり」を持って生きるひとたちを主人公としたこの連作では、ソメイヨシノの咲き誇る風景や、庭のある小さな家やそこに来る猫や 置き忘れた本などがバトンのようにそれぞれの物語に引き継がれていく。気づかないほどそっと密やかに。

確かに今立っている場所にだって過去があり、アスファルトの道の下には武士や町人が歩いた土が、戦争の時代の悲しみが 復興のざわめきが 埋まっているのだと思う。埋もれてしまっても、ふと誰かにその気配が伝わったり、どこかでつながっていたりするのだろう。
そんな風に目立たぬものを、消えてしまったものを 慈しむ気持ちにさせる小説だと思うのだ。




短編それぞれの主人公はこんな風だ。

「染井の桜」ではソメイヨシノを生んだ欲の無い植木職人、
「黒焼道和」では撒くだけでひとを幸せな気持ちにする黒焼(生き物を焼いて粉にした「薬」)を追い求め、どんどん世間からずれていく若者(ホラー展開にはなりません。念のため)

表題作の「茗荷谷の猫」では 夫の理解も得て、ただ好きな絵を描いているだけなのに 夫に失踪されてしまう主婦、彼女の居た庭付きの小さな家がその後の物語に引き継がれる。

「仲之町の大入道」は、下宿の主人に借金取りを押し付けられ、作家の先生の家に渋々通う職工。作家の先生には古今東西 周りは振り回されるものなのだろうなと、主人公には悪いけど微笑ましく読む。

「隠れる」では、遺産を得たのを機に、仕事もせず、人とも交流せず生きたいと家を買って引きこもりを決め込んだのに、なぜか世間の方から追い詰めるように関わってくる男の皮肉な話。
映画制作を夢みつつ戦地に送られる青年の話では、映画館の支配人が前出の短編の登場人物。
ちょっとめんどくさい「庄助さん」と呼ばれる青年の夢が戦争で閉ざされる。本を閉じた後この青年が懐かしく、どんどん好きになるのは何故だろう。そしてここには描かれていない同時代を生きた幾多の青年たちの失われた命を想い切ない。

戦後の話では そんな戦争を生き延びた 靴磨きや闇市で逞しく生きる青年たちの話。ひとを簡単に信じて尊敬するような気の良い青年にも、クールで陰りのある青年にもそれぞれ辛い過去がある。彼らがその後どう生きた、どこで高度成長を担ったのかは記録に残らない。そんな人の方が多いのだ。きっと。

「手のひら」は嫁いで都会に慣れた娘が主人公。田舎での娘時代、自慢だった母の上京で感じた新たな感情の揺れ。母と娘、両方の気持ちが解って痛い。

「スペインタイルの家」では他の一篇で戦後を生き抜いた「彼」の「その後」。
憧れを持って見つめるある他人の家の話だが、気づかぬところで誰かが自分の方を温かい気持ちで見ているのかもしれないと、逆に羨ましく感じていることもあるかもしれないと そんなことも考える。あなただってちゃんと幸せではないですか、と。


どの作品のどこを一部切り取っても、夢や憧れや羨望 後悔や諦念、はっきり言葉にできないもどかしさや切なさを 飾らず語り過ぎずそれでも十二分に読み手の心に伝えて来る。

だからこそなのだろうか、他の読者さんたちの書いた感想をあちこちで読んでいると涙腺が刺激される。

いい物語ってこういうものなんだろうなと思う。
説明的な言葉なんていらない、ヒーローも大事件も要らない。普通の地味な人の生きざまでもこんな風に心を寄せて書いたものであれば その語り過ぎない言葉が読み手の心に染み透る。ちゃんとその人の居た意味を感じその人やその時代を生きた、まだ描かれてない人たちを愛おしむことができるのだ。

初読みの作家さんで、全く予想外の時代背景や内容だったけれど、良いものに出会えたと大満足の一冊でした。

内田百閒が顔を覗かせたり、中原中也のことばが気に入ったフレーズとして誰かの口から出たり、乱歩の一作品を読みふける人がいたり、そこからまた作家たちの生きた時代のことや、読書が誰かに与えるもののイメージが広がるのも楽しい。



# by nazunakotonoha | 2020-03-02 23:46 | 木内昇 | Comments(0)