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窓の向こうのガーシュウィン

フレームに入れて残したいくらい優しくて美しい世界は、ずっと寂しくて切なくて愛おしかった。



窓の向こうのガーシュウィン
  • 宮下奈都
  • 集英社
  • 562円
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書評


主人公の佐古さんは、ずっと自分を「足りない」者だと語っている。
未熟児で生まれて、親が保育器に入れてくれなかったということが始まりのようだ。

でも佐古さんは「足りない自分」をそういうものだ、と認め、諦めて生きてきた。
クラスメイトのおしゃべりも学校の授業も 先生の言葉も すべて最後まで聞き取れない。雑音が入り、意味がくみ取れない。

それは聴力や理解力や集中力といった持って生まれた、あるいは育つことのできなかった能力のせいかもしれないけれど 佐古さんはそういうことで、親を恨んだりもしない。少しずつ自分のやりかたで 周囲とできるだけ折り合うのだ。頷くこと、同意すること。本当のところは 相手の言っていることを全部理解しようということも諦めている。だからずっと「感謝すること」「幸せだって思うこと」も辞めてきたのだ。それは本人が後で気が付くことだけれど。

佐古さんは高校を出て ヘルパーの仕事を始める。勉強や学校生活は彼女には合わないし、なんとか就職できた先は倒産してしまったからもある。
短い期間で辞めさせられてしまう中、やっと続いた派遣先は「先生」のところで、そこには額装の仕事をする先生の息子と 時々訪ねてくるその息子(先生の孫)がいる。「先生」は何の先生なのかは解らない。けれど、そのきちんとした生活態度や落ち着いた物腰や話し方は「先生」と呼ぶにふさわしい。佐古さんは何故だか不思議と、先生の言葉なら受け止められて(雑音が入らずしっかり言葉が伝わってくる)、たくさんのことをそんな「先生」から受け取ることになる。
偶然だがその孫と佐古さんは同級生だ、もちろん学生時代には何の交流もなかったけれど。


温かい物語なのに 読んでいる間中ずっとどこか苦しかった。

苦しかった理由はたぶん 先生の「老い」のせいだと思う。佐古さんがこの家族にだんだん馴染み、幸せな心通わす会話やシーンが増え、佐古さんが徐々に心を開放していくのにつれ、先生の時間がどんどん「老い」を深めていくのだ。そしてそれは、人間として避けられないものなのだと、やんわりとではありながら ずしりと重く突きつけられる。
孫の隼がそれを辛いと感じ、佐古さんは佐古さんで考える。先生にとっての「今」について。先生自身にとってはそれは「悲しい」かどうかということについて。

隼は勉強も苦手で就職もできないままだ。先生のような「賢い」祖父を持っていることにコンプレックスを持って生きてきた。色弱で、父のような色彩センスの必要な額装の仕事にも向いていないと感じている。隼もまた、自分に「足りない」感じを抱え下を向いて生きてきた。
隼の父は無口な職人で 父とも息子とも少し距離がある。でもこの人が佐古さんに額装の仕事の手伝いを頼んでくれたのだ。この家庭のヘルパーとしてだけでなく額装の仕事も佐古さんの時間に大事な意味を加える。

佐古さんはすごい、佐古さんは偉い、佐古さんは賢い。そして佐古さんの額装への想いやこだわりを認めてくれる。
今まで佐古さんが聞いたこともなく、自分で思ってもみなかったことを この家族は言葉にしてくれるのだ。

「みんな違ってみんないい」というお話なのだ、と どなたかが書かれていた。本当にそうだと思う。
老人も無口な職人も、もと不良も、持って生まれた体の不具合も、「いいんだよ」と言っているようだ。色弱だという隼に、佐古さんは言う。人と違う世界が見えることは彼女にとって普通だし、それを説明する言葉を持つのは「いいね」。そういう考え方ができるのは 自分自身のものの捉え方が「みんなと違う」けれど、それをうまく説明できずにきた佐古さんだからなのだろう。「いいね」なんて隼には驚きの捉え方だったろうとは思うけれど。

そして 佐古さん自身が「私は私でいい」と思えることで、周りを認めたり愛したり、大事に思えたりする過程が 丁寧に丁寧に それこそ佐古さんの持つゆっくりした時間に沿って描かれる。

高齢の父を先生に重ねてしまい 私にとってはとても辛い展開でもあったけれど 「老い」は現実なのだから、余計に「今」の大事さを痛感したのだった。物語の最後まで先生が「先生」でいてくれて良かった。そして温かで穏やかな「蕗のとう」を七輪で焼いて皆で食べるシーンがくっきりと額に入れたような「美しい思い出」となったことが 凄くうれしい。




by nazunakotonoha | 2017-11-27 14:49 | 宮下奈都 | Comments(0)