兎の眼

クリスマスにはハートウォーミングな物語を(2017.12月に「本が好き!」のサイトに投稿したものです。


兎の眼
  • 灰谷健次郎
  • 角川書店
  • 600円
Amazonで購入
書評


と、言っても 全然クリスマスとは関係ない物語です。
でもね、どこかにサンタさんみたいなおじさんが、純真な妖精みたいなこどもが、天使みたいな女の人が出てきます。


きっと見る目さえあえば、ゴミ処理場のある街やそこに住まう人たちにはもちろんのこと、嫌われ者の昆虫にも鑑札つけていない犬にも 素晴らしい「宝物」がたくさん隠されているのでしょう。

今のごみ処理施設やクリーンセンターはきっともっと「清潔」な外観で、携わる人の衛生にもずっと気を配られいて、臨時の職員さんとその家族がいたって、衛生的に悪い環境で住まわせていることは無い、と想像します。現状を知っているわけではないのですが。

ただ、今回この物語を読んで ごみ処理の現状はどうだろうとか、どんな職種であれ不当な扱いを受ける従業員さんたちその家族がいる場合、行政などの大人の勝手な事情で子供たちに不利益が生じる場合どういう戦いが起き、どう解決をされていくのだろうかと社会的な問題に興味を持つという方にいくのは ここでは辞めておこうと思います。実際の教育現場にいる教員の方々が読んで、時間的な制限や 障害をもったこどもを引き受けるクラスの在り方についても、現実的な見方で色々こんな風にはいかないよ、という嘆きや苦言も聞こえる気がします。

それくらい美しい ハートウォーミングな物語、ある意味ファンタジーの世界でもあると思うのです。何回 泣いたでしょう。悔しさの涙とそれを超えられたうれしさの涙と 周囲の温かさへの感謝の涙。主人公の若い女先生、小谷先生も泣き虫ですが、私もすっかり泣き虫になって読んでいました。


舞台は 大変旧式で不衛生なごみ処理場のある町。ごみ処理場内に住む子供たちの環境も悪いのですが 町全体にも灰が降り迷惑しています。だから 処理場自体の移転や近代化はおおむね歓迎なのですが、子供たちの家族の住まいまで 埋立地に移転、子供たちは転校を余儀なくされることになります。小学校までは遠いし トラックなどの危険がいっぱいです。

何より 今の学校には子供たちの大好きな先生たちが居る。それは子供たちでも指折り数えて名前を上げられる数人の先生です。(他は自分たち処理場のこどもを馬鹿にしていたり 親身になってくれない先生だっているのです。)
処理場のこどもたちの中の一人「鉄三」は小谷先生の受け持ちです。
カエルを踏みつぶし、友達や先生にもつかみかかり引っ掻く、小谷先生にはひどくショックでダメージを受ける事件だったのですが それでも「どうしてこの子はそういう行動に出たのだろう」という小谷先生の気持ちが 徐々に鉄三を知り、後にその事件の意味を教えてくれるようになります。ただ、学力のない、粗暴な少年と括ってしまわなかったことが とても大事なことだったのだと思います。

ハエ。鉄三の家に訪問を繰り返すことで知ったのは鉄三がハエを飼っていることでした。最初は「ハエは病原菌を媒介するから」と飼うことを辞めさせることしか考えなかった先生が 少しずつ「ハエ」を通して 鉄三の心に近づき、外に向かって閉ざした鉄三の気持ちを開き始めます。
処理場の子供たちは仲が良くて 鉄三が喋らなくても気持ちを汲み取るように声かけできるし、鉄三がハエや犬のキチを大事にする気持ちをよく知っています。もちろん彼らは ずっと字が書けなくてもしゃべらなくても 大事な仲間として鉄三を扱ったとは思います。でも小谷先生の 自分の時間を投げ出しての先生としての取り組みは素晴らしいことだと思うのです。
世界には色々なものごとを極める研究者がいて、嫌われ者のハエだってその研究は絶対に役に立つ。鉄三が世界に役立てたいなんて思ってやっているわけではないけれど、やっぱり役に立ったことで新聞にだって載ります。

虫の図鑑を持っているので ハエのところを見てみたい気もずっとしてはいるのですが、まだ勇気がでません。小谷先生、凄いです。

鉄三とハエの話、キチを野犬狩りから奪い返す話、資金稼ぎのための廃品回収の話、ラストの処理場移転とこどもたちの話のほかに 大事なエピソードは みなこちゃんというクラスメイトの話です。こどもの小学校でも同じようなことを聞いたことがあります。授業に集中できないこども、多動でひらひらとどこかに行ってしまうこども いわゆる周りに「めいわく」をかけるこども(その子によって「障がい」という名前があったり 個性と言われたりまちまちですが)がクラスにいて、その子と触れ合うことによって周りがどう変わっていったか。隣の席の淳一くんの変わりようと、彼のお母さんの変化が特に感動的です。もし、こどもたちに「ゆとり」を求めるならば こんな風に授業の進行を止めても誰かに寄り添ったり付き合ったりしながら いつか楽しさや喜びを共に感じて 笑えるようになる時間を与えてやることだと思うのです。

他にも 不衛生な子供に給食当番をさせるかという職員会議の話、鉄三のおじいさんの「バクじいさん」の苦い過去の話、小谷先生と一般の会社員である夫との心のすれ違っていく様子など、これは大人の読む物語だよな、と思わせます。ずっと小谷先生の目線で書かれている点もありますが。

足立先生が大好きで 飛びついて頭までよじ登っちゃう子供たちがいて、小谷先生がそんなに愛されるこの「教員ヤクザ」な先生にやきもちを焼く気持ちも解るし 商店街で父兄に呼ばれ、ドキドキしていけば、「皆先生の味方だ」と力づけてもらうシーンなど 小谷先生にどっぷり感情移入して涙してしまいました。

今の教育現場ではもっともっと 深刻な問題があったり、逆にもっと素晴らしい感動や小さな喜びや悲しみの積み重ねがあることと思います。淳一を始めとするクラスの皆の優しい変化、そして特記すべきは鉄三が「みなこちゃん当番」だった日の目の覚める思い、子供たちのそれぞれが持っている素晴らしい宝物をプレゼントされた 良いクリスマスとなりました。

メリークリスマス。


[PR]

# by nazunakotonoha | 2018-04-02 22:46 | 灰谷健次郎 | Comments(0)

いつか記憶からこぼれおちるとしても

こぼれ落ちた記憶のかけらも 時折拾って手に載せてみる。

いつか記憶からこぼれおちるとしても
  • 江國香織
  • 朝日新聞社
  • 500円
Amazonで購入
書評

 高校生の自分はどんなだったかな。女子なら皆 物語に重ねて自分を省みる。もっと普通の子で素直で、友達のことが純粋に「好き」でいただろうか。それとももっと、物事を重く、深く考えていただろうか。

 そこそこ経済的には恵まれた層の通う女子高。その一クラスの何人かの女の子たちの一話ずつ主人公の入れ替わる短編集だ。
だれもがそれぞれに「主人公」っていうのはよく言う言葉だけれど、本当にそうなんだよな、と思う。そして、親や友達に向けるおしゃべりの言葉、態度や表情でさえ、本人にとっての「ほんとう」かどうかなんて 他の人には解らない。本音を言って喧嘩もしない。相手の言葉に傷ついたとしても、それほど気にしなかったことにするか、架空の「毒の飴」を日記の中で相手に与えるだけ。そうやって自分たちの平和な世界を守っているのだ。(「飴玉」の彼女は少しだけ行動に出るが、今まで通りの平和な世界を壊すことはない)

 グループの仲間としてつるんでいても、互いに容姿や性格を褒め合っていても 誘われて断らなくても、それぞれが「自分はそれだけじゃない」と心に秘めたものがある。そしてそれが それぞれの他の誰でもない、「自分」であるプライドだ。

全てが読んでいて気持ちのいいものではない。読者が同性なら、「痛い過去の自分」を突きつけられているようであり、異性なら 女子高生にもっと夢を持たせてほしいと思うかもしれない。
だけど、上手いよね、と思うのだ。誰を「悪い」ともせず、ちょっとした「嫌な感じ」や「辛い時間」を、それこそタイトル通り「いつか記憶からこぼれ落ちる」ものとして さらりと扱うのだ。


 グループに属さない「高野さん」が 油性マジックを借りようと声を掛けるシーンが何回か繰り返される。同じ時間を描いていること、同じ人物がそれぞれの角度から見えることが解るシーンでもある。

その油性マジックに関連して 病んだ友達を支える「コータロー(これは意味を知ると酷いあだ名だと思う)」を怒らすことになるが、逆に他の女子と高野さんが違うところ 「ほんの少し好き」だと思える面に繋がっていく。歪んではいるが純粋な女の子の気持ちをあぶりだしているように思えるのだ。
 
 そして最終話に「美代」というコケティッシュな少女に翻弄される男の話がある。美代=「高野さん」だというのは ネタばれになってしまうが、勝手にイメージしていた彼女の容姿を、すっかり覆されたのだ。(よく読むとどこかに そんな彼女をにおわせる記述があったのかもしれないが)



それにしても、江國香織の作品のタイトルはどれも 魅力的だ。


[PR]

# by nazunakotonoha | 2018-03-05 10:59 | 江國香織 | Comments(0)

わたしの出会った子どもたち

灰谷健次郎というひとを改めて知る一冊。


わたしの出会った子どもたち
  • 灰谷健次郎
  • 角川書店
  • 480円
Amazonで購入
書評

 灰谷健次郎という作家について 随分間違った思い込みをしていたことが解った。
児童文学の名作を次々と産み出し、皆に賞賛と共感を持って遇せられる「教育評論家」とか「児童心理学のエキスパート」とかそんな肩書の「先生」のイメージを勝手に持っていたのだ。
「兎の眼」「太陽の子」の題名とあらすじはうっすらと知っていた。こどもの素直な気持ちを引き出した詩を紹介し、弱い者、傷ついた心に寄り添う そんな「出来上がった」人だと思っていた。

 実家の本棚にあって、自分が買った本だということは知っている。ずっと以前に何故この本を先に手にしたのだろう。最初に読んだ頃の印象が思い出せない。けれど、きっと その思い込みを打ち砕くものがここに書かれていることを 感じっとったから読んでみようと思ったのだと思う。当時だって読みたかったのは「偉い先生」の「ありがたい話」ではなかったはずだから。


 灰谷健次郎はまず、極貧の生い立ちを、またその環境でやむなくやってしまった「罪」を思い起こす。そして家族のこと、仕事求めて毎日並ぶまだ子供の自分に、声を掛けてくれたタッちゃんのこと。お兄さんを自死で失った悲しみ。自分がお兄さんの本当の苦しみを理解していなかったという後悔を隠さず書く。「おかまの」タッちゃんの明るさはどこからきたのだろう。貧しいということの辛さや虐げられた人の苦しさを、当時の自分はまだ本当に解っていなかったことに気づくのは それからずっと後のことだ。
 学校の先生時代も、数々の失敗を繰り返す。子供自身が灰谷先生の言葉に「はらがたった」と詩につづり、また別の時にも 引き受けたある授業で心ない言葉を言ってしまったことを先輩の先生から指摘される。(作家としても 作品や作品の一部分に差別的な感覚や現状を理解していない点を批判されたことも 後で調べて知った)障がい、貧困、周囲の無理解の中で、もがき、苦しみ、それでも明るく優しい子供たちに心を寄せ、こどもの内にある無限の可能性を信じるこの先生でも、まだまだ未熟だと反省する場面が多くつづられるのだ。

 そして 先生を辞めて放浪する中で、苦しい思い出を持ちながら 逞しく生きる沖縄の人々に出合い、今まで気づけなかったことを知る。沖縄で出会った人たちの明るさ、大らかさ やさしさは、決して呑気で平和で満ち足りた過去から来ているわけではないのだ。傷ついた人だからこその優しさを灰谷先生は肌で感じる。そのやさしさが彼の中にしみ込んで 自分の今までの傲慢さを省みさせるのだ。若い頃出会った人たちの本当の苦しみと悲しさを思い、それでも明るかったその人たちのやさしさと強さに気づくのだ。

 「たいようのおなら」という子供の詩集に曲をつけて 矢野顕子が歌っていたのを覚えている。楽しくて自然に微笑みが浮かぶような 子供の発想が素敵な詩は 矢野顕子の曲にマッチしていた。今でもいくつか覚えて歌えるその歌詞も灰谷健次郎が紹介した子供たちの詩なんだと、知った。(本作で紹介されていた作品の内に 覚えのある詩があったので検索した後解ったことだ。)

 こどもの持つ豊かな想像力、発想力、表現力は、「こんな風に書いてもいいんだよ」「こんなことも書いていいんだよ」という大人の誘い出す力で更に引き出されるのだろう。悪いことをしたこと、嫌な感情を持ったこと、やりきれない想いも、辛いことも、すべて受け入れて認めてくれる「先生」がいれば のびのびとした「詩」になる。そんな可能性を伸ばすのもつぶすのも周りの大人なのだということに気づかされる。良い先生に出合ったこどもたちは幸せだと思う。

 どんなに社会的に成功しても、過去の反省を忘れない、新しい気づきによって、誤りを認めれば正直に告白する。灰谷健次郎の作品の魅力はきっと、そんな人間にたいする真摯な態度から来るのだと思う。「兎の眼」「太陽の子」などの灰谷作品をちゃんと読んでみたいと思う。



[PR]

# by nazunakotonoha | 2018-02-19 21:20 | 灰谷健次郎 | Comments(0)

ことり

静かに生きるひとの物語。小父さんのことはちゃんと小鳥たちが知っていてくれた。それだけで十分だった。きっと。

ことり
  • 小川洋子
  • 朝日新聞出版
  • 626円
Amazonで購入
書評


 小父さんの死から始まって 遡って小父さんの一生をなぞり そして小父さんの死で終わる物語。
読み終えて少しの間何も考えられず、その後じわじわと胸が熱くなった。こんな読後感は初めてかもしれない。
ちょうど輪っかみたいにラストが冒頭に繋がっているために もう一度最初に戻ってみる。だけど、決して小父さんは生き返らない。

「ことりの小父さん」と幼稚園児たちが呼んだ。
自ら申し出て幼稚園の鳥小屋の掃除やエサの世話をずっと完璧にやり続けた人だ。そう言うとまるで子供に囲まれ、親しまれた、子供好きの優しい小父さんのように思えるが ただただ控えめで無口で、どちらかといえば子供が苦手な小父さんだった。

 小父さんにはお兄さんがいた。子供の時に人間の言葉を話すのをやめて、特殊な言語を話すようになった人だ。お兄さんの言葉は小父さんにはちゃんと解る。お母さんは心配し 医者に連れて行き言語学者にも頼る。だけど誰にも解らない。鳥が大好きだったお兄さんの「ポーポー語」。

 お母さんとお父さんが亡くなってから お兄さんと小父さんは二人でその家に住んでいた。小父さんはゲストハウスの管理人として働いた。お兄さんの毎日のきちんと決まった生活を守ってあげた。お兄さんの落ち着いた幸せを壊さないことが小父さんの幸せでもあった。

他の誰と繋がりたいわけでもない。ただ、崩れ落ちた「離れ」をそのままにした草木の生い茂る庭に来る、野鳥にひっそりとエサを置く。決して彼らのさえずりを邪魔しない。野鳥たちを見守って、その美しい歌を聞かせてもらえることを感謝して つつましく暮らしていたのだ。

やがてお兄さんも亡くなる。
お兄さんと生きることだけが小父さんの毎日だったから その穴は大きいのだ。

それでも やはり小父さんは淡々と日々を続けて行く。
それだけで十分だったのに、時々その日常に小さな変化を起こす人が現れては遠ざかる。小父さんは何も悪くないのに、不穏な事件の影が差す。だんだんと心配になってくるのだ。誰か新しい人が登場するたびに。小父さんのささやかな幸せが崩されませんように ひとかけらも悪意のない小父さんに災難が降りかかりませんようにと、読者は心から願うのだ。

 そして お兄さんを亡くした後でやっと巡り合えた相棒、傷を負ったメジロ。お兄さんに教えてもらった鳴きまねは メジロにしっかりと通じる。なんと幸せな時間だろう。小さなメジロがどんどん美しい歌い手になっていく様は、ほんのりと温かい温度をこの物語に与えてくれる。いつか飛び立つ日まで、そのはかない時間を小父さんが覚悟していることも解る。

小父さんは絶対に何かを独占したり 相手の自由を奪ったり 名誉や賞賛を欲しがったりはしないのだ。だから 最後に現れた「鳴き合わせ会」とやらでメジロを勝負に使う男は相いれなかった。当然だ。求愛の相手のふりをしてメジロを騙して鳴かせて、勝ち負けを付けるなんて 小父さんの、そしてお兄さんの受け容れがたいことだ。野鳥を自由にしなければいけない、小父さんはあの愛する相棒を、明日にも放つことを心に決める。

 小川洋子の作品には いつも不思議な仕事や店、本当にそんな習慣や言葉があるのだろうかと思うような様々なものが登場する。まるで夢の中で見たような掴みどころのない何か、それなのにこと細かに羅列される現実感のある小物たち。非現実、想像 創造 虚構そんなものたちが 当たり前の顔をして登場し、静かで冷たい、でもどこかに小さな光と温かいものが隠れているような そんな世界だ。そしてその冷たい薄明りで見つけたような 小さな光と温かさが読者の胸に、忘れがたい何かを与えてくれる。

 時代は移ろう。あの不穏な事件が無くてもきっと、幼稚園の門には鍵が付いただろうし、鳥小屋だっていつしか無くなってしまったのかもしれない。ゲストハウスは様変わりし、小父さんは定年を迎え、薬局の店主は世代交代し、兄弟が「ポーポー」と呼んだ飴も取り扱いが無くなった。優しい司書の女性にも不思議な虫箱の老人にも会えなくなり、園児たちは卒園し大人になっていくだろう。地味で無口で人付き合いが苦手な「ことりの小父さん」のことを 思い出す人はどれだけいるだろう。

 でも小父さん、お兄さんにとって小父さんと生きた静かな日々が、多くの小鳥たちにとって小父さんが食べ物をを用意したあの庭や 幼稚園の清潔な鳥小屋が、大事な居場所だったんだよ。メジロは小父さんに会えて幸せだったんだよ。小父さんが居たことはちゃんと意味がある。ちゃんと何かを与えてるんだ。そんな風に思うのだ。

 冒頭、ループした構造のこの物語を読み返しても「小父さんは還らない」と言ったけれど、言い直す。還らないけれど、無くなってもしまわないのだ。小父さんはずっと、ことりたちと共に居る。恥ずかしそうに、申し訳なさそうに。

[PR]

# by nazunakotonoha | 2018-02-17 21:56 | 小川 洋子 | Comments(0)

サーカスナイト

文庫版で入手。
たくさんの悲しみや大変な出来事を越えて 優しく繋がって生きる人たちの話。



サーカスナイト
  • よしもとばなな
  • 幻冬舎
Amazonで購入
書評


キャッチコピーを「たくさんの悲しみや大変な出来事を越えて 優しく繋がって生きる人たちの話」としたのだが、書いていて ああ一つ言い方が足りないな、と思った。

「優しく『生きる』人」と言う言葉を選んだけれど、この物語には大事なそのほかの人達がいる。「死んでしまった人たち」だ。けれどこれらの「死んでしまった人たち」こそ、この物語の中で大事な意味を持ち、彼らをを「生かし」、彼らのすべての時間や空間、自然の中に「生きて」いるのだ。

「物とお話ができる」不思議な力を持った主人公 さやか。この力で過去に警察と連携して事件を解決したこともある、なんて台詞もさりげなく出てくるが、そういう話ではない。(むしろそんな「力」は無くても 物語は描けたのでは?と思うのだが)
インドネシア、バリのような神秘的なものが自然に存在する場所で育ち、両親を事故で同時に失い、孤独になったさやか。そのさやかがバリの素朴で温かい人たちに守られ、やがて日本に来て神社を家とする一郎のもとにやって来る。きっと色んな「神様」がさやかを見守っていたのだと思う。

物語はそんな一郎の家にいた頃のことを後回しに(読者には謎のまま残して)、現在のさやかの生活から始まる。病気だった夫、悟をすでに亡くし、娘と二人で二世帯住宅の二階で暮らしている。階下の夫婦は亡くなった夫の両親だ。
今の生活は穏やかで幸せそうで、自立して爽やかな考え方を持つ階下の住人とはとてもいい関係を築いている。実に理想的な嫁姑の関係だと思う。娘のみちるも素直でかわいい。時に大人びたところもあるが 曲がったところのないとてもしっかりした良い子だ。子供らしさとのバランスがいい。

悟は自分の病気が重いのを知って、「良い友達」だっただけのさやかに子供を産んでほしいという 随分順序の変わったプロポーズをして一緒になった人だ。
余命が短いこと、いずれは子供が父を失うことを覚悟の上「尊敬する友達」の悟と結婚する。さやかはそういう決断ができるが人だ。けれど悟自身が そういう決断をさせるだけの素敵な人だったことや、口にはしなかったし、さやか自身は気づいていなかったけれどきっと 彼はさやかのことを本当に大好きだったのだろうと、義母が言うのは説得力がある。恋愛を口に出さなくても、順序が逆でも確かなつながりを持って家族でいた日々がそこにはあるのだ。

冒頭そんなさやかの、夫の悟を亡くしてからの日々が描かれているが、少しの寂しさはあるものの安定した幸せな感じに包まれている。
色々な辛い経験が影を落としていると言えば、義父母との心地よい関係も永遠ではないことを覚悟しているところだろうか。人やものに執着を見せない、別れを諦めている様子が解る。
そしてそこに「事件」として手紙が届く。さやかとみちる、義父母の住む家の庭に 以前の住人が何か大事なものを埋めたままにしているので掘り起こしたいという手紙だ。そして更にその差し出し主が過去さやかの恋人だった一郎だったという偶然。
さやかが「ものとお話できる」という力はそこで発揮される。一郎との連絡を待てずにさやかが掘り起こしたものは 骨のかけらで、さやかの力でその骨が幼くして亡くなった一郎の双子の兄のものだと解るのだ。

それでもこの話はホラー展開にならない。ありがちな恨み嫉み悪意といった そういうものがさやかの周りに存在しない話なのだ。死者もまた生きている彼らに優しい。色々な縁を結び、癒しをもたらすのは 亡くなった大事なひとたちなのだ。

さやかの片手が曲がって動かないわけも、さやかが一郎の家族を好きでいながら離れなくてはいけない苦しい思いをしたその原因や経緯などは なかなか明かされず 謎のまま話は進む。さやかの父母が無くなったこと、悟が亡くなったことのほかにも辛い苦しい過去があるのは解るのだが それが何かは長い間ぼかしたまま話はゆっくり進行する。

実のところその話は随分と突飛なもので、緩い日常や穏やかな家族の物語の中に違和感としか言えないバイオレンスな展開を含むのだが、だからこそ、その結果さやかが一郎の家族から離れて バリに「逃げて」行く理由となってくる。「工作員」とか「生きた殺人兵器」とかもちろん冗談での言葉で一郎も言うのだが それくらいさやかの行為が日常からかけ離れて想像を絶していたのだと思う。(読者にとっても…なのだが)

色々な紆余曲折も大事な人を失う悲しみも、この物語ではすべて心の中で穏やかな別のものに変わっているように思う。それは「終わったこと」として遠ざけられているのではなく、いつもそばにある温かな空気のように、生きている彼らの幸せを願い、優しく包み込むようなそんなものとして さやかが感じ取っているのだと解る。
さやかの想いや考えが沢山書き込まれている。この世界 この時間はたくさんの自然や過去の時間や死んでしまった大事なひとたちと繋がっているのだということを繰り返し美しい言葉で語られるのだ。それはたぶん 作者がずっと考えて来て ずっと言いたかったことばたちなのだろうと思う。あふれ出してとどめることがどうしてもできなかったかのようだ。

残念なのは それらがあまりにも冒頭から多すぎて どこをピックアップしたらいいのか 読者にも解らなくなってしまうところだろう。すさんだ世界がだんだん癒され許されて最後の場所にたどり着いて落ち着いた、という話ではなく、やはり最初から人のつながりが温かい物語として描かれているからだろうと思う。


今、傍に居ない大事な人たちを想いながら 長い時間を掛けて 少しずつ読むのにとても合った本だと思った。


[PR]

# by nazunakotonoha | 2017-12-18 17:13 | 吉本ばなな | Comments(0)

九十歳。何がめでたい

86歳の父と一緒に楽しく読めると思い購入。



九十歳。何がめでたい
  • 佐藤愛子
  • 小学館
Amazonで購入
書評


話題の本である。テレビのCMで90歳オーバーのご老人たちが「この本は面白い」と言っている。
そもそも本のTV CMも珍しい気がするけれど。
これならきっと、父も楽しく読めるだろう。嫌な話題もないだろう。読んで落ち込むこともなさそうだ。

うちの父も身体が全体的に弱り、耳が遠くなり、心臓も大事に大事にしないといけないので上り坂は避けている。
なにせ急な坂ばかりの住宅地に住んでいるので 気軽に散歩も楽しめない。坂を下りて電車に乗り、買い物をして図書館で本を借りていたのに、今度は目が疲れて本を読むのを面倒がるようになった。
眼鏡を替えたら?眼鏡型拡大鏡はどう?というものの 本人に改善したいという強い希望が無い。新聞は読んでいるので それでいいなら、と思っていた。

それにしても 読まないままの本が置きっぱなしになっているのを見るにつけ、ぜひとも先を読みたい本に出合えば また読書の楽しみも戻るかな、と気になっていた。

神戸を散歩したとき、灘中学校と甲南女子高校の話や遠藤周作やこの本の作者の佐藤愛子の話が出た。父よりもう少し年上だし、面識はもちろんないのだが近隣に住んでいたこともあるということで 彼らが絡むエピソードについては 何で読んだのか聞いたのか、よく知っていた。
佐藤愛子さん、美人で灘中生の憧れの的だったそうだ。(帯に今のお写真があるが綺麗に歳を重ねておられると思う)

内容は「お歳よりあるある」で、人によっては「よく言ってくれた」「自分も思っていた そのとおり!」と小気味良い毒舌に拍手ものなのだが、父はあまりにも自分と「同じ」すぎて 新たな感動や感心はなかったようだ。こんなに自分が日々感じたり思ったりしている普通のことを書いて「ベストセラー」なのか、と 文章を書くのがすきだった父は思ったみたいだ。すでに「作家」のひとはいいなぁ、と。

さりげなく描く、書く、さらりと楽しく読める、ということは それなりに作者の安定した技術があればこそだと思う。誰でも面白く書けるわけじゃない。

そんなことを考えながら 元気な愛子さんの存在が多くのお年寄りを励ますことを嬉しく思う。これからもどんどん元気に歳を重ねる人気現役作家さんが増えることを願っている。




[PR]

# by nazunakotonoha | 2017-12-02 20:31 | 佐藤愛子 | Comments(0)

窓の向こうのガーシュウィン

フレームに入れて残したいくらい優しくて美しい世界は、ずっと寂しくて切なくて愛おしかった。



窓の向こうのガーシュウィン
  • 宮下奈都
  • 集英社
  • 562円
Amazonで購入
書評


主人公の佐古さんは、ずっと自分を「足りない」者だと語っている。
未熟児で生まれて、親が保育器に入れてくれなかったということが始まりのようだ。

でも佐古さんは「足りない自分」をそういうものだ、と認め、諦めて生きてきた。
クラスメイトのおしゃべりも学校の授業も 先生の言葉も すべて最後まで聞き取れない。雑音が入り、意味がくみ取れない。

それは聴力や理解力や集中力といった持って生まれた、あるいは育つことのできなかった能力のせいかもしれないけれど 佐古さんはそういうことで、親を恨んだりもしない。少しずつ自分のやりかたで 周囲とできるだけ折り合うのだ。頷くこと、同意すること。本当のところは 相手の言っていることを全部理解しようということも諦めている。だからずっと「感謝すること」「幸せだって思うこと」も辞めてきたのだ。それは本人が後で気が付くことだけれど。

佐古さんは高校を出て ヘルパーの仕事を始める。勉強や学校生活は彼女には合わないし、なんとか就職できた先は倒産してしまったからもある。
短い期間で辞めさせられてしまう中、やっと続いた派遣先は「先生」のところで、そこには額装の仕事をする先生の息子と 時々訪ねてくるその息子(先生の孫)がいる。「先生」は何の先生なのかは解らない。けれど、そのきちんとした生活態度や落ち着いた物腰や話し方は「先生」と呼ぶにふさわしい。佐古さんは何故だか不思議と、先生の言葉なら受け止められて(雑音が入らずしっかり言葉が伝わってくる)、たくさんのことをそんな「先生」から受け取ることになる。
偶然だがその孫と佐古さんは同級生だ、もちろん学生時代には何の交流もなかったけれど。


温かい物語なのに 読んでいる間中ずっとどこか苦しかった。

苦しかった理由はたぶん 先生の「老い」のせいだと思う。佐古さんがこの家族にだんだん馴染み、幸せな心通わす会話やシーンが増え、佐古さんが徐々に心を開放していくのにつれ、先生の時間がどんどん「老い」を深めていくのだ。そしてそれは、人間として避けられないものなのだと、やんわりとではありながら ずしりと重く突きつけられる。
孫の隼がそれを辛いと感じ、佐古さんは佐古さんで考える。先生にとっての「今」について。先生自身にとってはそれは「悲しい」かどうかということについて。

隼は勉強も苦手で就職もできないままだ。先生のような「賢い」祖父を持っていることにコンプレックスを持って生きてきた。色弱で、父のような色彩センスの必要な額装の仕事にも向いていないと感じている。隼もまた、自分に「足りない」感じを抱え下を向いて生きてきた。
隼の父は無口な職人で 父とも息子とも少し距離がある。でもこの人が佐古さんに額装の仕事の手伝いを頼んでくれたのだ。この家庭のヘルパーとしてだけでなく額装の仕事も佐古さんの時間に大事な意味を加える。

佐古さんはすごい、佐古さんは偉い、佐古さんは賢い。そして佐古さんの額装への想いやこだわりを認めてくれる。
今まで佐古さんが聞いたこともなく、自分で思ってもみなかったことを この家族は言葉にしてくれるのだ。

「みんな違ってみんないい」というお話なのだ、と どなたかが書かれていた。本当にそうだと思う。
老人も無口な職人も、もと不良も、持って生まれた体の不具合も、「いいんだよ」と言っているようだ。色弱だという隼に、佐古さんは言う。人と違う世界が見えることは彼女にとって普通だし、それを説明する言葉を持つのは「いいね」。そういう考え方ができるのは 自分自身のものの捉え方が「みんなと違う」けれど、それをうまく説明できずにきた佐古さんだからなのだろう。「いいね」なんて隼には驚きの捉え方だったろうとは思うけれど。

そして 佐古さん自身が「私は私でいい」と思えることで、周りを認めたり愛したり、大事に思えたりする過程が 丁寧に丁寧に それこそ佐古さんの持つゆっくりした時間に沿って描かれる。

高齢の父を先生に重ねてしまい 私にとってはとても辛い展開でもあったけれど 「老い」は現実なのだから、余計に「今」の大事さを痛感したのだった。物語の最後まで先生が「先生」でいてくれて良かった。そして温かで穏やかな「蕗のとう」を七輪で焼いて皆で食べるシーンがくっきりと額に入れたような「美しい思い出」となったことが 凄くうれしい。




[PR]

# by nazunakotonoha | 2017-11-27 14:49 | 宮下奈都 | Comments(0)

こちらあみ子

いつかどこかできっと、あみ子のトランシーバーに応答が来る、と信じたい。


こちらあみ子
  • 今村夏子
  • 筑摩書房
  • 1470円
Amazonで購入
書評
「こちらあみ子」という題の意味がずっと解らなかった、私が鈍いのか。

そうだ、あみ子はトランシーバーをプレゼントされたのだ。

それは 生まれてくるはずの「弟(なぜか男の子が生まれてくると信じていた)」とのスパイごっこの遊び道具になるはずだった。けれど赤ちゃんは生まれることができず、母の心と身体を弱らせた。

あみ子のしたことで 母は更にダメージをうける。

あれは母を喜ばせ元気づける「お祝いの品」だったのに。
ちゃんと考えて 字の上手なのりくんに頼んで書いてもらった「弟の墓」の墓標。いい考えだと信じていたのに、母は泣いた。泣いて、沈んで、寝込んだままになって 結局あみ子を遠ざけてしまう原因ともなってしまうのだ。

最初から 何気ないあみ子の日常が あみ子の目線で楽し気に書き綴られているが あみ子がご機嫌でも歌っていても読者はだんだん気が付くのだ。
きっと訪れるあみ子にとって生きづらい世界。優しい人ばかりじゃない世界。

そしてまた思うのだ。あみ子のような子に「好きだー」って叫ばれる相手の困惑や、母、父、兄の抱える悩みや心配事。あみは子それでいいんだよ、いい子だねって言いたいのに、実際自分に引き寄せるとそう言えるだろうか、私が母ならば、兄ならば。


物語はたんたんと進み やたら感動をあおったり、悲惨な事実を突きつけたり、無理やり「考えること」を強要しない。誰が悪いとも言わないし、世間を批判するわけでもない。
あみ子とあみ子の周囲のできごとをとても素直に書き綴るだけだ。
それが 読者に何を突きつけるのかは相手に託しているようだ。

並大抵の作品じゃないぞ、そう思う。

そしてもう一作の「ピクニック」にしても然り。

妄想かもしれない 嘘かもしれない、と読者もうすうす思うのだ。売り出し中のお笑いタレントと恋愛中という七瀬さんの話を。
そして全てを受け入れる「優しすぎる」店の先輩たち。彼女たちにはそれが 夢でも妄想でもよかったのかもしれない。
騙されてる、とも思わない。七瀬さんのことも嫌いにはならない。

若い生意気な新人が現実を突きつけようとするけれど それも「優しい先輩」たちに阻まれるし、七瀬さんの世界は それくらいでは壊れない。そういうことではないのだ。彼女の幸せな世界を壊すことは。

ラストでその生意気な後輩も入っての「ピクニック」のシーン。仄明るい幸せな雰囲気はどこから来るのだろう、と考える。

あみ子のお母さんが得られなかった幸せがここにはある。「家族」じゃないからだ、本気で「迷惑」を掛けられることも、彼女の将来を気にする必要もないからだ。そういう説明もつくけれど それも違う。
「優しい先輩」たちにちっても 七瀬さんの居る幸せな世界が、それを認めて見守ることが 心の安定を約束するパラダイスだったのではないか。

口は悪いけれど、そうやってあみ子と自然にかかわることができる唯一のクラスメイト、あみ子には名前すら覚えてもらえない少年や 後年仲良しになった竹馬に乗ってあみ子を訪ねてくる少女の存在は同じように、物語に優しい風を運んでくれる。


読んでいる間の途切れない息苦しさは2作品とも同じだったけれど、決して重苦しくない、不思議な明るさのある読後感の作品だった。



[PR]

# by nazunakotonoha | 2017-11-11 00:36 | 今村夏子 | Comments(0)

ピンクとグレー

「ごっち」と「りばちゃん」。芸能界を駆け上がった者とくすぶったままの者。幼馴染。
引き合っただけ反発する心。
こんな最後しかなかったのだろうか、と切ない。


ピンクとグレー
  • 加藤シゲアキ
  • KADOKAWA/角川書店
  • 605円
Amazonで購入
書評


作者が今 TVをつければかなりの頻度で会えるジャニーズのアイドルグループの一員だということは ここでは問題にしないでおこうと思う。
もちろん 作者が実際そういう環境に居ることもこの作品を創り出す一要素になっているはずだけれど、ちゃんと作品として評価するのに 必要ではない気がする。

映画ではまた構成を再構築しているらしい。
主人公たちが生きる映画やドラマといった「虚構」で表現する世界と、彼らの「現実」の世界を絡め、映画を観る人まで巻き込んで 大きなどんでん返し的な仕掛けを入れてくる、という映画を作る人の意気込みも頷ける。この小説はそれだけ魅力的な「素材」でもある。
この「現実」が小説内の、というところがまた更にフクザツだ。加藤シゲアキ自身のノンフィクションでは 決して無いからだ。


小説もなかなか凝った構成にしてある。こちらはこちらで映画のようなミステリー仕立ては狙ってはいない。それでも 時間軸を行ったり来たりすることで(章の題名に年齢とその時期に関係する飲み物の名があるのが面白い。)謎を残し続きを読みたい気持ちを引っ張る原動力にもなっている。

少年時代の出会いからずっと親友だった二人の 微笑ましい様々なエピソード ごっちの姉の事故と死。高校時代 バンドを組んで歌ったオリジナルのナンバーの歌詞の意味、その本当の意味。
代理のアルバイトから始まったモデルの仕事。ずっと二人一緒だった、同等だった。同じ景色を見ていたかった。

二人いれば、同じ道を進めば いずれはやって来る葛藤。他人の評価やチャンスは二人同じようにはいかないのだ。当然生まれてくる葛藤、軋轢。

それでも 幼馴染のもう一人サリー(ずっと男の子だと思っていた。読者は軽く騙される)と再会しごっちと付き合い、二人の間の溝を埋めようと努力する。爽やかな彼女の登場する場面では 少しだけほっと気を抜ける時間でもある。ただそれが 後戻りできない辛い結末を予想させるのも確かだ。

「蓮吾(ごっちの芸名)」の 生きるのが辛くなっていく頃の気持ちは ごっちは語ることができない。
何故、は解き明かされることない謎を含んだままだ。

描かれるのは残された「りばちゃん」が様々な人の言葉や思い出や想像を紡ぎ合わせた「ノンフィクション」の出版物の文章でもあるからだ。そして くすぶっていた「りばちゃん」が芸能界で生き、「ごっち」の役を映画で演じることになる。これも「蓮吾」が望んだ筋書きなのだろうか。

そしてすべての幕切れまでのスピードは加速する。

題名に2色の色が挙げられる。目に見える「色」についての話、自分の「色」について。色が大事な意味を持たされているのは解る。映画もそこを捉えてカラーとモノクロを使い分けたようだ。さらっと読んだだけでは 作者が言いたかっただろう題名の2色の本当の意味あいが解らなかったのが残念だ。

主人公たちのニックネームの由来の「スタンドバイミー」や ごっちが父親の影響で知っている吉田拓郎の歌の一節、オリジナルの楽曲の歌詞、花の名前の意味など ちりばめられた様々なパズルのピースが 読者のイメージを膨らませる。

「読みやすくて先が気になる本を」と最近読書のスピードが落ちたので購入したこの一冊は 思った以上に内容が深くて重かったけれど、読んで良かった、と思う。

映画にはR指定してもいいようなシーンがあるそうだ。小説に全くないそういうシーンを入れられてしまったのは 観る人選んでしまうをという点でとても残念だと思う。


[PR]

# by nazunakotonoha | 2017-09-03 22:40 | 未分類(国内の作家) | Comments(0)

小川洋子ワールドにどっぷり。もう少し、前の1冊と間を空けて読めばよかった。



  • 小川洋子
  • 新潮社
  • 432円
Amazonで購入
書評

その時一気に2冊、同じ小川洋子作の「まぶた」と「海」を買ってしまったのだ。いつも行かない大きな本屋さんに並んでいたのであまりに嬉しくて。

さすがに数冊の間と期間を置いて読んだつもりだったのだけれど もう少し、もう少しだけ空けたら良かったのに、と思う。

ごく短い数編を含み、どの物語もやはり小川洋子。いつもどおり少しだけ不思議な状況や言葉、ひとや物が 日常の中に紛れ込んでいる。それらのものは 物語の中できらりと光って静かな存在感を示すのだ。

物語を特定して 最後に掲載の比較的長い「ガイド」などで考えてみると どことも特定できない異国風な場所設定を、普通に日本のどこかに置き換え、変わったデザインのシャツを作るおばさんを「シャツ屋」という風に仕事と店の名前も出さず 洋裁が得意なおばさん(時々 変わったデザインのシャツを作る程度でもいいけれど)、詩人を辞めて「題名屋」という不思議な仕事をしているという紳士については「物事や思い出にうまい『題名』を考えるのが得意な人」とだけにすれば かなり普通の、他の作家さんでも書けそうな話になりそうだ。こういった細部に少しだけ奇妙で不思議なものを差し込みつつ、まるで当たり前に存在しているか、それがないと物語が成り立たないとでもいうように描くのがこの作家さんの特徴のように思うのだ。いつもどこか居心地が悪く、少しだけ歪んでいて でも優しくて澄んでいるという 独特な印象。

掲載されているインタビューや解説を読んでいて 私の受けた印象とかなり違っていたのは「バタフライ和文タイプ事務所」。
コメディ要素とかユーモア、ノンセンスなどの言葉を使われていたのだけれど、わたしにはただ、活字のことを書いていながらエロティックにすり替えて読めるようになっている話として 悔しいほど上手くドキっとさせられてしまう。「面白い」といえば面白いんだけど それをユーモアという風には受け止められなかった。読み手を記述のトリックでドギマギさせようという意図を感じるというよりは、大真面目に医学用語ならこういう文字をタイピングすることもありなんだよな、と思ってしまったからもある。(何という文字、活字について どういう会話が交わされているかはここでは伏せますね。ぜひ読んでみてください)

こういう記述の仕方を「大人の遊び、おふざけ的なもの」として笑える余裕というものが自分に無いのでしょうかね。「活字」に対する偏執的なまでの愛というものを普通に感じてしまっていました。

今度はもう少し他の作家さんの本を間に沢山読んでから、この世界に戻って来たいと思います。未読で読みたいと思っている作品はまだまだあるんだけどなぁ。


[PR]

# by nazunakotonoha | 2017-08-30 21:32 | 小川 洋子 | Comments(0)

ちょっとした偶然やすれ違いで恋の行方は変わっていくものなのか。



  • 森鴎外
  • 新潮社
  • 340円
Amazonで購入
書評



恋、というよりほのかな思慕。初めて恋を知ったお玉からは純情な乙女のようなときめきを感じます。

それもそのはず。
相手の仕事が「高利貸し」とは知らず妾となり、女中の女の子一人をあてがわれて、ひっそりと住まう美しいお玉。最初こそ 旦那の来ることだけを待ちながら もし旦那が来た時自分が留守ではいけないと、これも近くに住居をあてがって貰った父を、訪ねることすら憚って暮らしています。

まだ あどけなさの残る頃に見初め、お玉を手に入れた旦那の末造は元来無駄遣いや遊びにお金を使う人ではないけれど、父子二人で暮らしてきたお玉のためには 惜しまず(ちょっとは惜しんでいたかな?)父親の住まいも用意するという惚れぶりです。

末造の中では 本妻や子供に手を上げたり声を荒げたりせず、今まで通りの生活をさせているだけで何の落ち度も無い、妻に疑われ責められたとて、悪いことなどしていないという気持ちの居直りがあります。妻への言い逃れ方も上手いし、やり取りの中に夫婦の性格や気持ちの食い違いがリアルに描かれます。描き方はちょっとユーモラスで重さや暗さは感じません。

そんな末造を待つだけの日々に変化が起きたのは 外を通るある大学生にお玉が惹かれるものを感じ、日々通るのを心待ちにしてしまうようになったこと。そして ある日 彼がふとお玉に挨拶をしたこと。

もちろん物語が急に動き出す、ということはありません。
それでも小さな出来事はお玉に少しずつこころや態度に変化をもたらすのです。片恋は彼女をさらに美しくする。秘密は彼女を魅惑的にする。末造は勘の鋭いたちらしいのですが その変化の原因には気づいていないようで 自分の手柄のように思っているくらいです。

末造へのうわの空の受け答えが逆に 今までのような硬さを緩め、秘密を持ったことで更に末造に丁寧に接する様子を好ましく感じるあたり 男なんて単純な生き物だとでもいうようです。ただ、お玉についても末造を手玉に取るような悪さ狡さは感じさせません。基本この物語に「悪者」は登場しないのです。(妾を囲うことや旦那が居るのに他に恋心を抱くことが「悪い」といえば そういうことになってしまいますが)

お玉と挨拶を交わすようになった学生の岡田とお玉が近づくきっかけは 鳥と蛇。鳥は末造がお玉を喜ばそうと鳥かごと共に買ったもので、軒下に吊ったその鳥かごを蛇が襲うという事件がありました。ヒーロー岡田は 隣へ手習いに来た女の子の人だかりをかき分け、蛇を退治してくれます。

これがきっかけでも、すぐに何かが起こる わけでもありません。物事はなかなかすいすいとは進まない。進まないから先が知りたくて読み手の手は止まりません。鴎外センセお上手です。

お玉は「お礼」を言うという理由ができて でもどうやって何をどういうタイミングで言えばいいのかあれこれ考えます。女中がするというのに窓を拭いたりして 恋しい岡田を待つのです。お礼の品を渡すのはどうだろう、手紙もつけたらいいかしら、でも何て書いたらいいのだろう、上手に手紙なんて書けるかしら・・と まるで告白をする前の女学生のようでもあります。

さて、末造が用事で出かけ訪ねて来ないと確認できた日、お玉は女中にも里帰りを促し、一人で彼の通りかかるのを待つのです。声をかけるチャンスは彼の行と帰りの2回。
なのに、です。

一人でいつものように通るはずの岡田は 下宿で出された鯖の味噌煮が嫌いな友人に誘われて外食に出たので 「連れ」が居ます。もちろんお玉の期待外れ。岡田はそんなこと知りません。
では 帰りは?というと今度の障害は「雁」です。まさにこの物語の題名。鳥の名です。たまたま出会ったそんなに親しくも無い友人が「連れ」に加わり 殺して食べようという提案に逃がすつもりで岡田が投げた石が当たってしまいます。獲物を隠し持って3人で歩く彼らに もちろんお玉は為す術も無く 見送るだけです。そして結局二人は何も繋がらないまま 岡田は海外留学に行ってしまう、というのがあらすじです。

大変面白く読み進めたのですが、後半で一瞬 読書の勢いが止まります。語り手が「僕」、文体の雰囲気がころりと変わるのです。あれ、僕?僕って何?、違和感はぬぐえません。
そこでやっと思い出すのは 冒頭は「僕」(=最後に「サバの味噌煮が嫌いで岡田を外食に誘う友人」が語りてだったのです。そして、お玉の素性、妾の生活を始めるまでとその後を語るのに、章を新たにして お玉と末造を主人公にした「物語」が三人称で語られます。そこでは「僕目線」はすっかり影をひそめているし、「僕」が知るはずもなさそうな細かな状況が 実に生き生きと描きだされているのです。読者はその内容と表現の面白さと登場人物の魅力に引き込まれてしまうので、語り手だったはずの「僕」の存在すっかりを忘れてしまいます。

確かに「雁」を捉えて「帰り道」を図らずも邪魔した友人はいきなりの登場なので、更に「サバの味噌煮」の彼まで いきなり出てきた登場人物ではあまりに物語の都合上すぎるとは思います。
その上 誰かにつっこまれたから言い訳するみたいに、語り手の「僕」が何故そこまで語れるのかという説明に「岡田から聞いた話」「岡田の様子」だけでは説明がつかないからか、「のちにお玉と知り合うきっかけがあり(恋愛関係にはなっていないこともひとこと「説明」されています)聞いた話を合わせて物語にした」とされています。それでも 末造と妻の会話や妻の様子、末造の思ったこととかは聞くことはできないはずです。

この物語の構造についてきっちり考察される方もおられると思いますが 私は単純に、連載中に鴎外先生が筆が乗りすぎて最初の設定を忘れちゃったのではないかと思ってしまったのですが そんなことはないのでしょうか。熱心な読者とか編集者とかに指摘を受けて慌ててまた「僕」の語りに引きもどしたとか。で、言い訳もつけてみたけど説明しきれてない、とか、ね。


ただ、聞き語りの体を辞め、「僕」がなりを潜めた方が物語の進み具合もスムーズだし、その間に地の分で語られる「女性観」とか「人間観」とかが すんなりと読めて面白いです。普通に鴎外先生(「僕」ではなく)、人間観察が鋭いなと 感心させられます。

題名の「雁」についても あまりに巻末にいきなりの登場で 何故それが題名なのか首をかしげないではないのですが 当時の読者に共通した「雁」のイメージがあるのでしょうか。(ある、という説明をしている人もおられます)。それを知っていたらこの物語の伏線的な「意味」を題名が担っていることになりますが、今の読者に伝えるとしたら 先の会話や物語の状況の中に、何か「雁」について語る場面でも欲しいところです。まあ、それは言っても仕方無いことですね(昔書かれたんだから)

ともかく、物語の構造なんて、途中であれれ?と思ったことなんて 関係ないくらい魅力的な「物語」に仕上がっています。私は地元ではないので 土地勘は無いけれど、風情のある街をそぞろ歩いている気持ちにもなれるし、妾とか三角関係とか悲恋などという言葉をかぶせると想像できないような さわやかで明るい雰囲気の 美しい物語だと思います。


[PR]

# by nazunakotonoha | 2017-07-22 16:56 | 森 鴎外 | Comments(0)

童謡1

マザー・グースなど子供向けの「詩(童謡)」から触発された短編と 「ねむの木学園」の子供たちの絵のコラボレーション。不思議で楽しい相乗効果。



童謡〈1〉 (1982年)
  • 吉行淳之介_::_ねむの木学園の子どもたち
  • 指定なし
Amazonで購入
書評
随分前に購入した本で、1巻のみ所有。内容は忘れていた。
「ねむの木学園」のこどもたちのカラフルな絵をふんだんに掲載した本で題名が「童謡」というだけにきっと子供向けの「いいお話」だと思っていた。が、大違い。いや「悪いお話」という意味ではありません。

病気で入院した少年が思いっきり痩せ(その表現は壮絶)、退院後の転地先で逆に思いっきり太り…という内容は この本で読んだ以外にも教科書か問題文かで読んだ気がする。立った姿が鉛筆みたいだったとか 見舞いに来た友達の言葉じりに今まで気が付かなかった悪意を感じるところなど 印象深い。

女子高の先生が知り合った男娼、「女の身体でないことが悔しい」と言うミサコさん。男の人の身体の状態で男性を愛する記述には時代と関係なく身体とこころの違和感に悩まされる人の 自分の身体ながらの消し難い矛盾のようなものを感じて切なくなり、「先生」の退職に花束を渡しに来る何の屈折もなさそうな女子高生との対比が興味深かった。

失恋した友人との男子二人旅で観たサーカスの話は、演者のさりげない仕草や目線に男女の関係を見て取ったり、美しい叔母と見知らぬ紳士との怪しい関係を少年が垣間見たり どれもどんでん返しやオチを用意したり むやみに感動や教訓を狙ったりした話ではないけれど、何か心に引っかかる物語ばかりでした。

最近 作品の新旧、国を問わず 短編集を続けて読んでいるのですが それぞれに違った視点 趣があって 面白いなと思います。


昭和57年第一刷…・絵を描いた「ねむの木学園のこどもたち」は今どうしているのかな。


[PR]

# by nazunakotonoha | 2017-07-07 17:00 | 吉行淳之介 | Comments(0)

まぶた

ほんの少しの偶然で、出会った人と過ごすいくつかの時間。
歪みやずれや奇妙さはごく普通の現実と隣り合っていて、ほのかな居心地の悪さと、静かな安らぎを読者に与える。



まぶた
  • 小川洋子
  • 新潮社
  • 420円
Amazonで購入
書評

どの物語も小さな違和感を抱えている。

ファンタジーとか夢または 特定の登場人物のこころの病や歪みと捉えてしまうのは少し違う。
主人公や他の登場人物が、そういった「奇妙とも思える」出来事や、たまたま出会った相手の語る思い出話、
ささいな小道具に対して 読者と同じく少しだけ違和感を感じつつも、「受け入れる」からなのかもしれない。

そして読者もまたそういう小さな「歪み」や「奇妙さ」「不気味さ」を抱えた作者の世界に 惹かれ、
やがてはここでしか得られないような「居心地の良さ」まで感じてしまうのだ。

飛行機で隣り合わせた異国の老婦人は亡くなった日本のペンフレンドを訪ねたという。
ペンフレンドの写真は本人とは違う俳優のものだったけれど がっかりしたり怒るわけでもない彼女の挿話はほほえましい。
でも小さな老婦人に合わせて 持ち物や食べ物まで小さく見えるというその様子やカバンから出てくる沢山のものの羅列などが
微妙な非現実感を、そしてその後 彼女が異変をきたし、隣り合わせて話を聞いていたただけの関係のその男の腕で息絶えてしまう
展開は 日常的な感覚だけでは捉えきれない。

認知症の人たちのアコーディオンの音が響く狭い路地の「お料理教室」には 排水管掃除の業者がやって来る。
詰まった汚物(野菜の切れ端やタコの足といったもの)がどんどんシンクに逆流して溜まっていく。
そういったことすら 事件では無く、「当たり前」のような風景となる。

野菜売りのおばあさんにもらった不思議な植物はやがて発光し出し、訪ねて行ってもおばあさんの住んでいるはずの場所には
家も畑もない。

背泳ぎの選手の弟は狭い隙間がお気に入りだ。やがて彼は片手を上げた状態で下すことができないままになり、
水泳を諦めざるを得なくなる。その腕の「結末」。

匂いを収集する恋人は さまざまな匂いとその素となるものをビンに詰めて保管している。その匂いと素の細々とした記述。
偏執的とも感じられる収集の中に見つけたもの。

ふとしたことで知り合った少女と中年の男性はささやかな逢瀬を重ねる。彼の家のハムスターは病気で「まぶた」を
手術で切り取られ目をつぶることがない。

異国のそっくりな双子の老人は支えあって生きている。足の悪い弟の方はずっと家から出ることがない。
ナチスの迫害と家族の離散、自分を責め続けた父親 父の開業していた医院とその後 兄が開いていた花屋の思い出。

どの物語もめったに出会うことのない(全て「有り得ない」と言ってしまうことはできないと思う)出来事ばかりだけれど 
他では見られない細かな描写やアイテムが、また、空想と現実の混ざり具合や配分が 時間に置き去りにされた細い路地に
迷い込んだような小さな不安感となつかしさを感じさせる。

この短編集では「旅」(初めての場所を訪ねるというのも含め)が扱われているものが多い。日常の生活場所と、
いつも傍にいる相手から空間的にも精神的にもへだたりを持ち、旅先で見知らぬ人と出会い、過ごす。
未知の詩人の女性の住まいだった「記念館」に入り、故人が過ごした場所でその家の主の生と死を 存在と不在を
肌に感じる「詩人の卵巣」の主人公のように、読者もそれぞれの物語の中で、見知らぬ相手の生と死や、
不思議な植物や持ち物に寄り添いながら過ごすのだ。




[PR]

# by nazunakotonoha | 2017-06-17 11:46 | 小川 洋子 | Comments(2)

雨・赤毛

「永遠の」「美しい」愛だ恋だ、も 「神聖なるものへ導く」者も 冷めた目線で皮肉って。

雨・赤毛
  • サマセット・モーム
  • 新潮社
  • 380円
Amazonで購入
書評

この本に収録されている「雨」「赤毛」「ホノルル」の3つの短編は「南洋もの」というモームの作品のひとくくりに入るそうだ。

「雨」では船旅の途中で南洋の小島に足止めを食らい、そこでしばらく暮らさざるを得なくなった西洋人の二組の夫婦が中心だ。

別の文化を受け容れず、南の島の現地の人々を見下しているさまが 牧師夫妻と医師夫妻の(主に牧師夫人の)会話で浮き彫りに
なっていく。西洋人の、宣教師夫妻の振りかざす「正しさ」が会話の端々に鼻につく。
もちろん作者のこれらを見つめる冷めた視線も判るので 作品に対しての不快感は無い。お高くとまって何様だよ、ってな感じで
鼻で笑いつつ 作者が登場人物に好きにしゃべらせている、そんな感じ。

激しい雨が降り続く中 好んで滞在するわけでもない 彼らのじりじりした気持ちが物語の「嫌な感じ」に拍車をかける。
そこへもって もう一人同宿の女が問題となる。夜な夜な大きな音で音楽を掛け、男を部屋に入れてよからぬ遊びをしている様子。
牧師夫妻には許しがたい女だ。
女を更生させようと使命に燃える牧師。言うことをきかない女。

牧師は手を回して、行けば収監される恐れのある「強制送還」までにこぎつける。女が全然悔い改めないからだ。強制送還だけは
許してほしいと牧師に懇願するも頑として聞き入れない牧師。意気消沈し、派手な見た目もすっかり様変わりした女の姿に医師も 
そこまでしなくても、と 少し同情的にもなる。

牧師は心身疲れ果てやせ衰える程 必死で女の「更生」に祈りと説得の毎日を費やしてきたようだった。神の教えを信じ、
自らの「正しさ」を疑わず。

だが結末は意外に皮肉なこととなる。
どこで何が起きていたのか、どこで何が曲がっていったのか 物語は語らない。
女のひとことで想像させる結末への展開。でも その想像が本当に合っているのかは解らない。

「赤毛」も更に皮肉な話となっている。

船長が訪ねた白人は、「変わり者」で、現地で妻帯し本に囲まれて暮らしている。
でっぷりと太った白髪の船長が 彼から聞かされる話は 「レッド」と呼ばれた白人の赤毛の美男子と現地の美しい女との 
運命的で情熱的な至上の恋愛話だ。
その男女が離れ離れになった後 その美しさと悲しさに惹かれて結婚したその男は結局 「レッド」との思い出にさえ勝てず、
妻への辛い片恋をし続けているという それはまた「美しくも悲しい」話だ。そんな話の落としどころが解らないまま読んできた
私が鈍いのか すっかりラストで驚かされていまったのだ。

恋愛なんて、永遠なんて、こんなものさ、と軽く蹴っ飛ばされたみたいな感じだ。

なるほどね、歳月はいつまでも美しい者や美しい話を、そのままにはしておいてくれないということだ。


「ホノルル」

これも現地人の美女が出てくる話。冴えない船長がぞっこんなのは解るが 一緒に船に居る彼女の方もそのようだ。
そんな船長が美女をめぐり呪詛に遭い死にかけたという話を主人公が聞かされる。

西洋医学では治療しようがないその病を 現地の医者(呪術師?)が診て、呪いを解いて相手を倒す方法を女に示し 
見事彼女が船長を窮地から救い出す。なかなかスリリングでドキドキする展開だ。

2作読んだ後なので このままでは終わらないことは想像できる。そう、ちゃんとどんでん返しは用意されているのだ。

物語の筋とは 関係ないけれど中国人、フィリピン人、西洋人、現地人、日本人それぞれの様子を記述したところが面白い。

全体を通し 国籍も職業も老若男女も関係なく また見た目の美醜にも差別なく 作者の冷めたシニカルな目線は注がれる。
これって案外、作者の「人間愛」なのではないかなと思うのだ。

今度は有名な「月と六ペンス」を読んでみたいと思います。

[PR]

# by nazunakotonoha | 2017-06-17 11:37 | 海外の作家 | Comments(0)

卵の緒

このこどもたちが幸せなのは ぶれない生き方を貫く母の愛情があればこそだと思う。


卵の緒
  • 瀬尾まいこ
  • 新潮社
  • 420円
Amazonで購入
書評

不思議な本だ。
2作を読み終えて 頭を整理すると色々な問いと答えが出てくるのだ。

1作目、「卵の緒」。

簡単にあらすじを纏めてしまえば 血のつながりの無い母子が仲良く暮らしているところに、新たに母の伴侶となる男性が加わり 仲良く暮らしていく話である、となる。
加えて食事に呼ぶのをきっかけにして少年が好意を感じる不登校のクラスメイトとも 友情を深めるという話だ。

この物語には美味しいものがたくさん出て来る。働いているお母さんだが料理には手を抜かない。そしてその美味しくできたものを「好きな人にたべさせたい」。「食べさせたいと思う相手が『好きなひと』」なのだ。
何の波瀾もないといえばないのだが 育生が母から聞くこの母子関係の成り立ちや さらっと子供に告げる母の恋愛の発展具合や 3人で囲む初めての食卓や その後再婚で苗字の変わる少年の事情や そういうことって 大波乱を引き起こしてもおかしくないことなのだ。実のところ。

だけど大丈夫。息子はグレないし 母の恋人は感じが良いし 何となく仲良くなっていきそうだし、弟か妹が生まれても この「家族」は幸せに暮らせそうだ。
深刻なドラマにもなりそうな背景を軽やかに乗り越え、ほんわかした平和な温かさに満ちた物語に仕上がっている。

2作目 「7's blood]
「卵の緒」が 血のつながりなんて関係ない 相手を想い大切にする気持ちだけで繋がれる、と謳いあげるのに対し、「半分血の繋がっている」異母姉弟の話で、恋人より友人より「少しでも血の繋がりがあること」の温かさを 姉の七子の心の紆余曲折を経て感じさせている。


2作に共通するのは 小学生の少年。 

卵の緒の育生は本当に素直でしっかりした子だがものの感じ方はまだまだ子供だ。自立すべきところは自立しひとを想いやることができる子供。このマイペースで個性的でありながら一本芯の通った母に 愛情をしっかりと受け育っていることが解る。
7'S Bloodの七生は苦労人だ。そもそも「愛人の子」で今母親は服役中。虐待を受けたこともあるようで、母も寂しくなると彼に依存する。そんな環境の中 「子供だから一人じゃ生きられないから」と彼が身に付けたのは「素直で可愛い」「人懐こくて優しい」大人に人気のこども。

だがこの物語に高校生の姉 七子の目線が入る。

「卵の緒」ではそのままで良かった少年らしさがこちらでは見事に「うそくさい」と嫌われる。
それは水商売の母から教わった「大人の相手を気分よくさせる会話術」の話からも解るように 相手(主に大人)を喜ばせて気に入ってもらう「生きる術」。そういうものを身に付けざる得ない環境で育った彼に 初めて七子がもっと本来の「こども」であれと 声を荒げるのだ。

そんな一件から 一旦入ったひびが 時間を掛けて少しずつ修復され 温かな「血」の絆に変わる。相手を喜ばす「気遣い」を一蹴され、渡せないまま腐ったバースデーケーキを 結局は一緒に食べ(腐ってるんだよ!)、彼氏とのデートを切り上げ 弟とのアイスクリームを選び、真夜中のパジャマのままでの行き当たりばったり「旅行」。夜の闇と野犬への恐怖をやわらげてくれた小さな弟の手。母が 愛人の息子を一時的にでも引き取り、七子と暮らさせたのは こういう「確かな温かさ」を心の支えにするためだったのだろう。


血のつながりなんかなくっても、が1作目、半分でも繋がる血は確かな温かさを約束してくれる、というのが2作目。

「卵の緒」にももっと別な目線が加わると変わるものもあるかもしれない。もう少し育生が大きくなると 新たな人間関係で悩むこともあるかもしれない。半分血のつながった妹との温かな絆を 支えに感じることもあるだろうか。

それでも 大丈夫、と思えるのは どちらの家族の物語でも母が強く優しいことだ。常識的じゃなくても 病気でずっとは傍に居てくれることができなくても、生き方が考え方が、真っ直ぐでブレないことだ。こどもへの愛を言葉で態度できちんと伝えるところだ。
こんな 大人がそばにいれば こどもはちゃんと育つ。

母よ、愛だぞ、愛! 駆け引きじゃなく格好つけもせず、おおらかで確かな 大きな愛!

それが この1冊から私が受け取ったメッセージだ。
 

[PR]

# by nazunakotonoha | 2016-12-03 20:44 | 瀬尾まいこ | Comments(0)

夏の庭

その夏、おじいさんの庭で得たものは 思いやる気持ち、ほのかな将来の夢、そして「あの世の知り合い」。



夏の庭―The Friends
  • 湯本香樹実
  • 新潮社
  • 420円
Amazonで購入
書評

久々に読むことで 色々思うことがある。忘れていた部分は どうして忘れていたのかとか。あちこちで見る「あらすじ」にも出てこない部分は 物語にとってさして重要ではないのかとか。

映画も観た(これもうろ覚え)ので、印象に残った井戸や蝶が映画だけのものだったことや 登場人物と人間関係、エピソードの変更は 映画監督にとってどんな意図があるんだろうかとか。読んでいる時は夢中で 引き込まれ、すっかり小学6年生男子の気持ちだったけれど、読み終えてそんなことを考えたりする。


身近で親しくしているひとの「死」に初めて接するのは この頃の子供では何歳くらいが多いのだろう。この物語の少年3人の内ひとり 山下くんがお祖母ちゃんのお葬式に行ってきたことから話は始まる。生きている間ほぼ会ってもいないということもあり、その山下くんでさえ「死」について、いや「大切なひとりの人を失うということ」が解らない。そんなことがきっかけで 3人は近所の老人を見はって「死ぬのを見届けよう」「死体というものを見てみよう」ということになる。

へたくそな「探偵ごっこ」はやがて 本人にばれるのだが、その経緯が何ともほほえましい。
おじいさんに近づく動機がとんでもないから余計に、少年たちの気持ちの変化が 心の成長が目覚ましいのだ。
そして おじいさんも変わっていく。子供たちが見ていることに気づき、気になり、すぐに受け容れるわけでもないけれど 関わりを持っていく。ひとりきりの生活に きちんとしたリズムが生まれ、自分の衣食住を立てなおして行く。溜まったゴミを片付けようとした 少年たちを一旦拒否するものの、洗濯ものを干すために庭に紐を張るのを手伝わす。
やがて 老人と少年たちの心は繋がっていくのだ。3人はちゃんとひとりひとりとして、「おじいさん」はただの「年寄り」からひとりの大事な友人に。


荒れた庭の雑草をとり 皆で種を撒いた。コスモスの種だ。スイカを食べた、切る前に包丁を砥いだ。もう果物の剥き方だって解る。
家を修繕した。ペンキだって奇麗に塗れる。
台風の日は 相手の心配をした。誰かと誰かの家の無事を真剣に案じることなんて今まであったろうか。
戦争の話を聞いた。そこに居る相手が心に深い苦しい思いをしたことを知った。戦争は教科書に載っている昔だけの話ではなくなった。大事な相手を今も傷つけているのだ。

実はおじいさんには 戦後戻ったことも知らせずにそのまま会わないでいる奥さんがいる。その話を聞いた三人は珍しい苗字を手掛かりに 奥さん探しを始める。(電話帳に多くの人が番号を載せる時代だからできるのだけれど)。

奥さんを探せておじいさんに会わせられたのか、結局おじいさんと会ったのは誰かというところが 本と映画の違うところだが、私はこの本での少年たちの彼らなりの悪あがきと それに関わってくれた女性(おばあさんではあるが 奥さんとは別人)、彼らの失敗と反省と得たもの、おじいさんの静かな優しさと寂しさ、厳しさが伝わるエピソードだと思う。物語的に「解決」や「感動の再会」ではないにしても。

細かい部分は忘れていたのだが、三人の家庭環境による寂しさや屈折。「死」や「怖れ」についてのそれぞれの幼いなりに思ってきたこと。山下くんがプールでおぼれかけ「死」に近づいたこと、

そしてサッカーの合宿での妙に長い「怪談話」。
怪談話をしたのはサッカーのコーチのおばあさんなのだけれど、そういう「お年寄り」についても少し 見方が変わったこと。友達を守るために卑怯な相手とは喧嘩も辞さないということ。少年たちの一夏での成長は それ以前の様々な幼い経験や感じ方を描くことで よりくっきりとするのだろう。

映画のような「救い」やファンタジー的、象徴的な美しいシーンは無いけれど それでも十分 少年たちの成長と得たものは伝わるし、おじいさん自身も彼らと出会って沢山のものをその心に残したことが 読み手の私にも嬉しくて 本を閉じてもきっと 思い出す度に胸の奥から温かくなれる。


ひとはいつか死ぬ。子供だってずっと子供ではいられない。だけど誰かと繋がってその心に何かを残せたら そのひとの人生は無かったことにはならないのだ。

せっかくみんなで奇麗に直した家も無くなり、コスモスの咲いた庭も駐車場になってしまったけれど、君たちは絶対忘れないよね、おじいさんと過ごした時間とこの庭のこと。

そんな風に私も忘れられない季節を、大事な場所を持っていたい。そして その場所からまた、次に来る誰かに何かを残したいと思うのだ。何か 凄くおじいさんと3人に「有難う」を言いたい、そんな物語だ。

[PR]

# by nazunakotonoha | 2016-09-18 08:04 | 湯本香樹実 | Comments(0)

サド侯爵夫人・わが友ヒットラー

女性だけの「サド侯爵夫人」、男性だけの「わが友ヒットラー」。舞台装置の転換も、小道具もほ
とんど使わず 語りが全て。登場人物のバトルでもあり、作者と役者とのガチバトルでもある。


サド侯爵夫人・わが友ヒットラー
  • 三島由紀夫
  • 新潮社
  • 420円
Amazonで購入
書評


サド侯爵夫人

サド侯爵夫人のルネ、その母モントルイユ夫人、妹アンヌ、、訪問客サン・フォン伯爵夫人、シミアーヌ男爵夫人、家政婦のシャルロットが 3幕で入替わりはするが、全ての登場人物だ。

「サド」と言えばもう どういう趣味嗜好の人なのかはみなさんご存知だろう。
史実をもとに、家族以外を創作の人物で作り上げた世界だが、作者の脳内だけで 作者とは時代も国も違う女性たちの心理、裏表の顔を創り上げ、表に投げ出される「ことば」のみで見せていく。その実に鮮やかなこと。

サド本人は逃亡、投獄などで3幕とも登場しない。その罪状、所業については女性たちの言葉からそれと知れるのだ。

「貞淑な」妻のルネは、そんな夫の趣味嗜好 罪までも受け容れるかのようで、家柄や体面、常識を重んじる母は そのためなら他人を使い、肉親を騙しもする。

奔放なサン・フォン夫人はサド侯爵に親しみさえ覚え、その言葉に耳をふさいで神に救いを求める「敬虔な」シミアーヌ男爵夫人は、サド侯爵の幼馴染として彼の行為に「良心」を探してみたりする。耳を塞ぎながら結構ちゃんと聞いている彼女の行為は「良識的」をきどった 実はゴシップ好きの現代にもいる女性のようでもある。(3幕では彼女はすでにちゃんとした修道女になっているのだが)

妹のアンヌは自由で その残酷な素直さで、姉の夫と逃亡を共にし不実なことをさらりとやってのけ 姉の前でもそれを隠さず恥じることもない。

ともかく3幕ずっと 壮大なる口喧嘩だ。そして全てが体面する相手に投げる言葉となっている。
(「心の声」的な独白はおそらく無かったと思う)

怖ろしく長いセリフが延々と続き、どんなにか役者泣かせだろうと思うのだが、「YouTube」で公開されている舞台(新妻聖子主演)は衣装も一見の価値があり、全て驚くほど見事に演じ切られていた。
他にも男性だけで演じられた舞台や、蒼井優の主演のものも機会があれば観たいと思う。


年老いてくたびれた姿でやっと解放され、戻って来たサド侯爵は 驚くほどあっさりと見捨てられる。舞台には一度も登場しないままその輝きは消えうせる。侯爵夫人ルネは 侯爵と会おうともせず、修道女になる決意を固めるのだ。
ルネにとってサド侯爵が「獄中の夫」であることが そんな夫を献身的に支えるという自分自身を愛するために、必要だったのかもしれない。

ルネが大事にしてきた「献身」や「貞淑」を、獄中で書きあげた著書の中でだたひたすら不幸に陥れたことだけが この結末を引き起こしたわけではないかもしれない。




わが友ヒットラー

ヒットラーを親友として信じ、「粛清」されてしまった軍人の話。というのはちょっとまとめすぎかもしれないけれど。
単純な筋肉バカ 友情を熱く語る軍人のレームを 結局のところその「親友」ヒットラーが切り捨てた事件の話。


男性ばかりの作品で 内容も難しい。舞台は華やかさには欠けるし 冒頭がヒットラーの演説と政治経済絡みの客人の会話を交互に聞かせる演出だが サド侯爵について語る貴婦人方の会話に比べとっつきは悪い。

単にヒットラーよりサドを語るご婦人の会話に 私が魅かれてしまったせいなのだが もっと歴史的な経緯を解っていたら よりこの戯曲も面白く読めたことと思う。



[PR]

# by nazunakotonoha | 2016-09-06 20:06 | 三島由紀夫 | Comments(0)

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年

ひとつの謎の真相を追って旧友を訪ねて歩く。そんな形なので 読みだすと止められない。
謎だらけで終る。これは無い、と思いながら「何故」「誰が」を考えて長く引きずってしまう。


色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年
  • 村上春樹
  • 文藝春秋
  • 1785円
Amazonで購入
書評
謎の多い話だ。

主人公は多崎つくる(「作」という字を彼の父は選んでつけている。)。
彼は高校時代男子3人女子2人のグループにいたのだが、彼だけ東京の大学に進学先を選び 慣れ親しんだ名古屋から離れた。
どんなに距離が離れてもこの5人の関係を大事に思っていたのに、20歳のある日 急に彼だけ4人から付き合いを拒絶される、理由は全く解らない。
電話をしても出てもらえず、電話に出る彼らの家族からも不在ばかりを言い渡され、やっと話せたひとりからは「理由は解るはず」と言われ 絶縁されるのだ。
確かに悩むだろう。自殺を考えるほど追い詰められ、病んでしまったとしても仕方ない気もする。こんな状況では。
「何でなのかちゃんと説明しろ、何も思い当たることはない」とその場で頑張れればいいのだが、自信の無さとプライド より傷つきたくないという気持ちに阻まれてそれ以上何も言えない。

「色をもたない多崎つくる」。
色というのは単純にグループの4人に「赤、青、白、黒」の色が姓についているということ、そしてそれをニックネームにしていて、つくるだけが同じでないこと。
苗字なんてその人のせいじゃないし それに色がついてるとかついてないとかで個性があるとか無いとかいうことはないのだけれど、彼は思ってしまったわけだ。
皆には「色」がある。それぞれが誇れる特技や特徴がある。僕には何もない。本当はそんなことなかったのに。


多くの未解決な物事について「推理小説」として読み解くアプローチもあるという。

推理小説だとすれば、「シロ」を犯した真犯人や何の手がかりも残さず彼女を殺し得た人物、そしてつくるの今の恋人が笑顔で接していた50代(?)の男性は誰でどういう関係なのか、姿を消した友人灰田、灰田の話に出てきた不思議な「緑川」、灰田とのあの「夢」は本当に「夢」なのか。推理小説として読み解くならば、読者の知り得ない人物がいきなり「犯人」では困る。なので、グループの内部や僅かに記述のある親兄弟の中で「犯人」探しをするようだ。全ての細部にもヒントが隠されているはずだ。

私の読みでは足りないかもしれないので、まちがいもあるとは思うが自分なりに これならという説明をしてみたいと思う。以下勝手に作ったサイドストーリーまがいなので、信用はしないで読み流してほしい。
私は推理小説風な解決は求めていないので 誰も知らない人物が「レイプ犯」、「殺人犯」であっても一向に構わない。
シロの死が「自殺」で遺書が謎を解く筋なら 陳腐かもしれないが読者はすっきりしたのにと思うが 解っていて作者があえてしなかったのだろうから 仕方ない。
友人3名の話に嘘はないとする。言い切れていないことがあったとしても。

でなければ クロとフィンランドまで行っての邂逅で得た癒しと許しの感動が全てダメになる、それは避けたいのだ。(ハグした時の「乳房の感触云々」は余計な気がするが)クロが「つくる」の個性を肯定し、つくるは「空っぽ」なんかじゃない、もし「空の器」が彼だとしてもと その可能性について言ってくれる言葉はかぎりなく優しい。
 
だから、繊細で潔癖すぎていどんどん病んでいったのは「ユズ=シロ」だ、という所で私はまとめたい。
クロのつくるへの恋愛感情や他の男子の気持ち、もしかしたら美少女ゆえに 高校時代から「知らないところで」告白されたり接近されたりしたかもしれない。卒業してからも、心を病んでしまってからでも寄ってくる者はいたはずだ。
産婦人科医の父が堕胎を手助けすることを嫌悪し、性的なものに激しい拒否反応を覚え、恋愛を差し挟まない5人の関係を頑ななまでに愛して守りたかったのではないか。もしかしたらクロがつくるに告白すると言い出す前に、あるいは誰かが恋愛をもちこむ前に それを阻止したかったのではないか。

知り合いかあるいは通りすがりの男に襲われたことを 咄嗟に「つくるに無理やり襲われた」とクロに告げたのうはクロをつくるから遠ざけたい気持ちから出たのかもしれない。実際東京につくるにそれを言うために会いに行こうとして起こった話だったのかもしれない。
つくるを傷つけることや5人の関係が崩壊することまで考えが及ばなかったのか、それとも全てを壊してしまいたかったのか。

そしてシロの闇は更に深まり流産を経て死へと自分を押しやって行く。形跡を残さないように自ら仕組んだ嘱託殺人かもしれない。では誰に?
けれど 一人のひとの人生がいかに閉じているとはいえ、死ぬまで関わった相手がこの数人だけというのも現実的ではない気がする。(小説上ではありえるけれど)

つくるの恋人の沙羅が自然に微笑みかけていた男性について、彼女の言う「3日待って」の意味は気になるところだけれど(確かにシロの姉と同じ年齢ではあるけれど)、あまり深読みする気にはなれなかった。沙羅という女性との出会いと関わりには何の裏も無く、最後の「疑惑」についてはつくるが一人の女性をちゃんと求めたいと、自分に向き合いどんな障害があっても弱い自分をさらけ出しカッコ悪くても恥ずかしくても相手に気持ちをぶつける、そのきっかけだと そんな風に思うのだ。(にしても 最後の最後で思わせぶりな書き方ではある)


最終章は要るのか、灰田の存在と緑川のエピソード、6本目の指の話も 色々思うところがあるのだが、どうももう一度読み返さないと解らないことが多い。
謎や伏線をあえて回収せず放り出した作者の意図は「納得するまで読んで」「色々考えろ」ということなのかもしれない。


いつものように 凝った比喩やお洒落な背景、音楽、車、リッチな環境。カッコ良すぎてよく解らない会話、そして あからさまでミもフタもない性的描写。ここをクリアしないとこの作家さんは読めないのだな、と改め思う。
こうやってその辺を省略してあらすじを纏めてみると確かに深く心に残り、また悔しくも「やられた」感がひしひしとしてくるのだ。


[PR]

# by nazunakotonoha | 2016-08-28 22:05 | 村上春樹 | Comments(0)

ハーフ

ぺットだって大事な家族ね と保育園の先生も後で認めてくれた。けど、それは全然違うんだ。ヨウコは宮田祐治の「妻」、真治の「母」だ。少なくともそう、教えられて真治は育ったのだ。
短くてすぐに読めます。いや短いせいじゃない。ぐいぐい引っ張る勢いと先を心配させる展開があるせいですね。

父子家庭の真治はお父さんに「ヨウコがお前のお母さんだ」と(比喩でも何でもない調子で)言われて育ってきた。ヨウコは茶色の毛の雑種のメス犬だ。

大人があえて教えなくても、サンタさんはいない、と子供がいつしか知るように それでも共有する「ファンタジー」として否定せずにいるのと同じように、いや、もっと切迫した想いで、真治は「ヨウコ」を「お母さん」にしたままでもう6年生になった。

もうすぐ中学生。「この犬は妻」(しつこいが、「比喩」ではない)と言ってはばからないお父さん。生まれてから 一度もお母さんに会ったことがないとはいえ、お父さんの気持ちを理解して認めるほど真治は「大人」でもなく、まともに受けて信じるほど「子供」でもない。
もう解っているんだ。解っているけれど、今の2人と一匹の「家族」の平和を壊したくない。否定して、真実を教えろと迫って、幸せな結果になるとも思えない。

お父さんが本当に壊れているのかも よく解らないのだ。真治も冷静な読者でさえも。

ただ、散歩で会う愛犬家たちの犬に対する「家族扱い」と、明らかに違うことは真治が一番よく知っていて、どこで一線を越えた言動が お父さんを「頭のおかしな人」にしてしまうかを 常に心配していることで、読者も解るのだ。お父さんのぎりぎりの不安定さ。危うさ、もろさ。
お父さんのいとこの良子おばさんの心配、意地悪なクラスメイトのからかい。そしてヨウコが行方不明になった時のあまりの取りみだし方。



普通の家族なら、いや普通の「父子家庭」なら、こんな悩みはなかった。
真治の気持ちの屈折はリアルで、痛いほど伝わって来る。
心配してくれるおばさんへの「子供らしさ」を装った対応も、お父さんへの気遣いも、学校での嫌がらせに負けまいとする姿も、強くて悩みのなさそうな女子「三浦」への反発も。


ヨウコの「家出」事件で、お父さんの心の不安定具合が露わになり、真治の本音が吐き出され、またそれで悩む。三浦さんが家族の支えともなる関わりを持つことになるのだが、真治は彼女の良さや彼女の優しさが解るにはまだまだ子供だったし 自分の家の悩み以外には想いをはせる余裕も心の幅もなかったということなんだろう。
 
そして良子おばさんが知る「真実」と向き合う決意。もう「子供らしさ」を装ったりしない。真治の大人への出発でもあり、新たにおばさんという助けになる大人とちゃんと向き合って付き合えるきっかけでもあるだろう。


やっとヨウコは見つかるのだが、その後は悲しい。動物の寿命は短いのだ。決別のときはやってくる。そしてその時が、本当の意味での「ヨウコさん」とお父さんの別れであり、切ないけれど「現実の父子家庭」のスタートなのだ。

強くならねば、と思う。
親は自分の悲しみも迷いも自分で受け止め、更に子供の悲しみも支えて、心の穴を埋めていかねばならないのだ。ただ、親だけがそうやって空回りして頑張らなくても こども自身もそのはかり知れない素晴らしい力と優しさで親の至らなさを非力なところを認めて助けてくれる。相手への愛情と信頼さえ伝われば きっと何とかやっていける、そうも思えるのだ。

一見子供向きのようでなかなか深くて手ごわい「家族」の物語だ。 


草野たきさんの「透きとおった糸をのばして」もダメなところも愛おしい「大人」を、若い目線で見る作品。大すきな作品です。


[PR]

# by nazunakotonoha | 2016-08-13 21:38 | 草野たき | Comments(0)

人質の朗読会

異国の山中の小屋で囚われの身となった人たちが順に語る人生のささやかな一コマ。誰にでもありそうで、そのひとにしか無い思い出の時間。



人質の朗読会
  • 小川洋子
  • 中央公論新社
  • 596円
Amazonで購入
書評


異国の地、理不尽な暴力のために囚われの身となる日本人たちという設定が まず突飛な「物語」でもなくなってしまった現在、この話のレビューが簡単には書きづらく 書き出しで悩んでしまっていた。
こういう状況下、人質となったごく普通の旅行者たちが自身のささやかな思い出話を1つずつ 披露する。その内容を、仕掛けられた盗聴の録音テープから 後に他の人たちと読者が知る、ということになる。

手に汗にぎる救出劇やテロリストとのやりとりを含む事件の解決に向けての人間ドラマを小説にする作家もいるだろう。政治や思想を掘り下げて問題提起する社会派の物語を読みたい読者もいるだろう。けれど 小川洋子のこの作品はそうではない。「朗読会」の記述の前に 救出が叶わず、これらのひとたちが すでに亡くなってしまったことを知らされる。知った上で、その後の章ではたんたんと彼らが語る思い出話を「聞く」ことになる。

明日があるかどうか解らない囚われの身の状況で、本当にそんなことが行われるか、ということはここでは問題にしない。暴力や死への恐怖を紛らわすためか 意外と平穏な、だがいつ終わるとも解らない長い時間への不安を紛らわすためなのか、確かにこういうことがかつて行われた記録も無いだろうと思う。だが絶対あり得ない荒唐無稽な絵空事だと言いきってしまえるだろうか。

 世代も性別も仕事も違うそれぞれが きちんとした文脈で同じクオリティで 同じくらいの「ささやかさ」を持った思い出話ができるとは思えない。けれどここではそれも問題としないでほしい。語り口(文体)にはさほど個性を付けず、キャラクターを強く打ち出していないのもちゃんと解った上でのことだろう。
どの話もとっておきの感動話とかではない。家族や友人のことではなくほんのわずかな期間ふれあったと言っていいのかも解らないくらいの関わりの相手との儚い思い出話なのだ。
共通しているのは きっと、この人がここで語らなければ、誰も知らない、そんな話であることだ。

小川作品に流れる静けさと「いつか見た夢」のようなかすかな奇妙さ、わずかな歪みの部分がどの話にもある。
その製菓会社の作るビスケットの種類の羅列の中には 腔腸動物や内臓系があり、公民館の談話室で行われていた集会は「危機言語を救う会」で、他にも「溶鉱炉を愛でる会」や「空想動物写生同好会」で、片目のお爺さんが道端で売っているぬいぐるみは ムカデ、回虫、ヒドラもある、という。いつも色んな人の「死んだお婆さん」に似ていると言われてきたひとの話も不思議だし、隣人が台所を借りに来るのも 死者のためのスーツを買う葬儀屋さんも、そういう事態がたまたまあったとか 地域の風習があるとかいうことが絶対にないともいえないけれど 何となく不思議な空気と一抹の不安と落ち着かなさを 読者に与えるのだ。

冒頭からこの語り手たちが助からず、もうどこにもいないのだ、と解っているだけに この語られなければ忘れ去られてしまうような人や時間が、掛け替えの無い大切できらめくものに思えてくる。自分にもこんな思い出話が無いだろうかと、ゆっくりとした静かな時間の中で探してみたくなるのだ。

[PR]

# by nazunakotonoha | 2016-08-07 23:27 | 小川 洋子 | Comments(0)

Teen Age

10代の女の子たちのさりげない日常。すっかり過ぎてしまった私にも 少しだけ先に進んだ人にも ちゃんと心に響く7編の短編。作家陣も豪華です

Teen Age
  • 角田光代_::_瀬尾まいこ_::_藤野千夜_::_椰月美智子_::_野中ともそ_::_島本理生_::_川上弘美
  • 双葉社
  • 580円
Amazonで購入
書評

10代を主人公にした短編を書く、というテーマを与えられたら どんなものを考えるだろう。

中学、高校がほぼ大半を占めるその時期だから、中学生、高校生の恋、友情、クラブ活動、反抗期、おとなへのステップへの不安や期待、そんな感じだろうか。

角田光代 瀬尾まいこ 藤野千夜  椰月美智子 野中ともそ 島本 理生 川上 弘美
7名の女性作家によるアンゾロジー。


角田光代「神さまのタクシー」

昔の人なら地元の名門、今は問題児や勉強のできない女の子の島流し的な場所でもある寮のある女子高。主人公と超真面目なルームメイト。憧れの「不良」の先輩が退学を余儀なくされ学校を去る日がやって来る。校則を破るなんてとんでもないという感じのハミちゃんを無理やりにでも連れて 主人公が先輩の見送りに行くシーンの疾走感はドキドキする程素敵です。


瀬尾まいこ「狐フェスティバル」

地域の子供たちが主役の伝統行事。クールな転校生の女子を 頭数欲しさに勧誘する「僕」。
田舎への移住者となんとなくかみ合わない地元民の話は 子供だけのことではなさそうだが、物語は中学生の少年目線で語られる。淡い恋までもいかないけれど とっつきの悪い転校生と少しずつ距離を縮めていく感じが微笑ましい。

藤野千夜「春休みの乱」
不思議な能力のあるという友達の小清水さん。知らない男子からラブレター(?)を貰った主人公。何が起こるというわけでもないのに面白い、思いだすと「変わった友達」だったなぁと懐かしく思う、そんな一編。

椰月美智子「イモリのしっぽ」
ホルマリン漬けに惹かれて生物部に入った幸野さんと後輩の矢守君。進展しそうでそうでもないふわっとした関係。生物オタクっぽい会話がずれてたり噛み合ってたり。喧騒から遠い二人っきりの生物室でちょっとだけいい雰囲気の会話。こういう青春もいいな、としみじみ。


野中ともそ「ハバナとピアノ、光の尾」
他とは少し色の違う一編。舞台はハバナ。主人公は現地の男の子。かつての恋人を探しているという日本人の女の子の手助けをするわけだが どうも彼女の言動や思い出と時間軸が合わないという不思議。
これといった種明かしもないがすれ違っただけの相手に一生懸命になる これもラストのスピード感や緊迫感とその後の余韻がとてもいい。
最初は日本のいまどきの普通の女の子の話でないことに違和感があって 馴染めない話のように思ったが、ずんずん引き込まれていった。いい話だなと思う。


島本 理生「Inside]
島本理生さんらしい話だなと思った。付き合っている相手と、好きだけどまだ触れたくない気持ち。開ききっていない心。揺れる高校生の女の子。彼氏は限りなく優しい。なかなかよく出来た心の広い男の子なんだな、この子。

川上 弘美「一実ちゃんのこと」
これもまた川上弘美さんならではの一編。予備校で知り合って友達になった「一実ちゃん」。なんとお父さんが作ったクローンだという。更にクローンの姉妹(?)がまだいるという突飛な彼女の発言で主人公の「あたし」は少し混乱するけれど、そこはなんとなく受け容れていく「あたし」。
クローンとして彼女は 考えたひとつの「大きな計画」を実行する。まあ そんなに世間を騒がすことにはならないが。


というわけで 7人7様の「10代」のお話。
色々あったようで何にもなかったようで でも懐かしくこそばゆい それぞれの思い出。
自分はどうだったかなぁなんて思いながら 豪華作家陣の作品を読み比べていくのも楽しい。


[PR]

# by nazunakotonoha | 2016-08-07 23:14 | アンソロジー | Comments(0)

最果てアーケード

どこかにある窪みには 「終ってしまった時間」はないのかもしれない。


最果てアーケード
  • 小川洋子
  • 講談社
  • 540円
Amazonで購入
書評



かつて大火事で焼けた小さな商店街。
にせもののステンドグラスが嵌った短いアーケード。小さな中庭。
レモネードを貰える図書室。
火事のあともとに戻ったというけれど そこにあることを全く気付かずにとおりすぎる人もいるくらいひっそりとそこにあり、本当にそこをめざして来る人と たまたま紛れ込んだ人だけがやって来る。

周囲が時代に合わせて様変わりして 近代的になり奇麗で大きなものが立ち並んだせいなのかもしれないけれど、何だかそれだけの場所では無いような気がするのだ。

「窪み」という表現も出てくる。まさに「この世の窪み」。
ノブさんの店のドアノブのいっぱいの壁の中 ライオンのドアノブを開け その先にもある ほんの小さな窪みのように、身をひそめ泣くことも、一時「この世界のひと」でなくなることもできる。


そこにある店はどれも風変わりだ。亡くなった人が持っていたような古着から切り取ったレースを売る「レース屋」さん、剥製などの目を作って売る「義眼屋」さん、レース屋さんに取り次いで貰えるのはひっそりと営む「遺髪レース」作家さん。一種類のドーナツを作り続ける「輪っか屋」さん、誰かが誰かに送った古い絵葉書も扱う紙の店。引き取りはしないというのに遺品の勲章を持ちこまれては断れない 勲章の店。図書室で一緒に過ごしたRちゃんは病気で亡くなってしまい、その代わりにRちゃんのお父さんが通って来る。Rちゃんが読みたかった「百科事典」の最後の項目まで全て書き写していくのだ。

どの店も(ドーナツ屋さんは別としても) 過去の時間、亡くなった人との仲介をするような 深い「死」の気配を親しく持っている。自然に過去の時間と「死」と繋がっているようだ。

本の中で時間軸も行き来し、犬のペペの老いや火事の前後へ続く記述をちゃんと追って 時系列に並べれば この不思議な感じは解き明かされるのかもしれない。


漫画の原作として書かれたという情報と、絵柄を見ると 困惑してしまう。
冴え冴えとした、それでもどこかほの温かい酒井駒子さんの表紙のイメージを 私は持って読んでいたので。

さらっと読んで いくつか疑問が残る。漫画でははっきり描かれる「ネタバレ」を知ると更に あれ?と思う。
もう一度 読んで 書評の続きを書きたい。

「かつて居たひと」の気配を濃く残すものや場所について、今 私もちょうど考えたり感じたりしている。確かに それはこの商店街で扱われる様々なものと同じく とても「地続き」で深いぬくもりを持っている。

考えみると、物語の中では、全ての時間は同じように「今」になり、息を止めることもないのかもしれない。語り手の「私」や登場人物の「現在」がいつで、何歳であっても 語られているエピソードの「現在」こそ 読み手にとっては「今」なのだ。だから、再読して時間軸を確認し、「読み解いて」もみたいが、それでも だれのどの時間も(全ての遺品や古い品の使われていただろう時間も)「過ぎ去った昔」ではなく、静かに流れる「今」なのだ、と思う。





[PR]

# by nazunakotonoha | 2016-07-06 07:56 | 小川 洋子 | Comments(0)

ネバーランド

冷静に読もうと思ったが やっぱり「好き」が勝りました。はい。

ネバーランド
  • 恩田陸
  • 集英社
  • 540円
Amazonで購入
書評
地方の私立男子高校の冬休み、実家に帰らないで寮で過ごす高校生3人。そして加わる自宅生だけど これもまた風変わりな家庭環境の一人。

繊細で知的。読み手の脳内では皆 それぞれのタイプの美形キャラ。
クリスマス、大みそか、正月を 他の誰もいない古びた寮で過ごし、家に帰らないというだけで、なにやら皆、訳ありなのは想像が付く。

美国は両親が海外赴任中。ピュアで少年っぽさがあり、いじられキャラ。女子に人気で爽やかな外見だ。
誰にでも公平で優しい、冷静なメガネキャラの光浩のめったに出さないけれどふとした時に見せる 暗い影を、美国は気が付いている。
豪快で明るいスポーツマンキャラの寛司は 親が離婚調停中という事情を抱えていて 大人への不信感を持っている。裏表のないタイプ。

その3人で 踏み込みすぎない微妙なバランスの共同生活が始まるはずだった。
そこへ介入したのが天才肌でハイテンションな統(おさむ)。
落ち着きが無く、どこか人を食ったようなふざけた感じの彼を光浩は嫌っている感じもある。

そんな統が自分の母の死について自分が関わっている、と告白を始めたことから彼らの微妙な「プライバシーに踏み込まない優しさ」の距離感が崩れ始める。

酒の勢いや酔いの中で(高校生だけど)またはカードゲームの罰ゲームという名目で、彼らはそれぞれの心に秘めてきた澱を少しずつ吐き出していく。それぞれがショッキングな秘密やトラウマや一般的とは言えない家庭の事情を抱えているのだ。

BL的だと言われる。
確かに男子高校生を美しく知的に描き、4人の中では恋愛感情は描かれないものの、死んでしまった病弱なクラスメイトが美国のことを想っていたというエピソードが挟まれる。

作者ももっとクールに「トーマの心臓」が書きたかったが、ほのぼのしたものになってしまった、と あとがきで述べている。萩尾望都の「トーマ」の世界にどっぷりハマった世代なら、書き出しから彼らの世界を重ねて読むだろう。(私もそうだし)。今、世に出回っている (肉体的にも)「想いが叶う」関係でなく、もっと切なくて淡くて届かない想いに 少女たちは男女間の恋愛には無い美しいものを見て胸をキュンキュンさせてきた。
だから4人は触れ合うことなく テニスの後並んで寝そべったり、一緒に土手を走ったり、そういう場面がこれでもかと出てくると キュン、とさせられつつ、萌狙いにいちいち嵌められた感も否めない。悔しいんだけど。

初めて読んだのは何年も前なので、今度はもっと冷静に読んで文句のひとつも書くつもりだった。
テニスのシーンやゲームのシーン、買い物のシーンなどは 人気アニメの引き延ばし、回数稼ぎのための「オリジナル脚本の回」に似た印象もある。確かにそれぞれのキャラがはっきり出るエピソードにはなっているのだが。

そんなことはさて置き、やはりどう見ても女子目線の美化しすぎな「男子高校生」ものだが、それが解った上での夢の世界、時折行ってみたくなる「ネバーランド」なのだと思う。


[PR]

# by nazunakotonoha | 2016-07-04 11:29 | 恩田 陸 | Comments(0)

焼けたトタン屋根の猫

家族内の愛憎劇といってもドロドロというよりカラカラ。ひりひりと焼けつくトタン屋根で「猫」たちはいらいらと落ち着かない。

やけたトタン屋根の猫
  • テネシーウィリアムズ
  • 新潮社
  • 460円
Amazonで購入
書評

高校生の自分がこれをどう読んでいたのか忘れたが、「ガラスの動物園」と共に実家の本棚にあり、好きな作家だったという記憶がある。久しぶりに再読。やっぱり面白かった。



ちょっと意外だったのは「焼けたトタン屋根の猫」という題名そのもがかなり早いところで何回も台詞に出てくること(勝手に台詞に出るとしても、最後あたりだと思っていたので)、ト書きが詳細で舞台化に対し相当な指定があること、なかなか「あからさまな」(訳者のあとがきでは「卑猥な」という言葉が使われていたが)表現がなされていること。
そしてちょっと違和感があったのは 屋敷の主を「おじいちゃん」、その妻が「おばあちゃん」と訳され、その二男子供のいないブリックやその妻、本人同士が「おじいちゃん」「おばあちゃん」と呼び合っていることだ。(原作、映画では「big daddy」「big mama」だ)
 

「おじいちゃん」は実は、がんで余命が僅かなのだが 検査結果を周囲が誤魔化して皆でお誕生祝いに集まっている。おばあちゃんと本人は真実を知らない。

「おじいちゃん」は二男ブリックを昔から偏愛していて 長男グーパーは息子扱いもされていない。親子関係はとっくに破たんしている。
それも解った上でグーパーは妻と子供をぞろぞろ連れてきて、お祝いにつぎつぎと芸をさせる。夫婦してむなしい努力である。遺産狙いは間違いない。
そして父(おじいちゃん)に広大な土地や事業を譲りたいと思われている当のブリックはアル中で、夫婦関係は全くうまくいっていない。彼がアル中状態になった理由は妻のマギーとの会話、父子の会話からだんだん解ってくる。

かみ合わない父と息子の会話(幾多の経験をして理解もあり お前を愛しているという父、会話なんて成立したこともないといい頑なに親愛の情を受け容れない息子)老夫婦の共有できない気持ち(夫は妻を嫌っている、といい、妻はそれを全く呑み込めない)、兄弟の埋まらない溝(兄夫婦は弟夫婦を観察し盗み聞きし夫婦関係や弟の過去や現状に悪態をつく)
死んでしまったブリックの「親友」への想い。周囲の「理解」と「誤解」。
ブリックの言う、溢れる「欺瞞」。

各部屋がベランダを通じて行き来できる屋敷の構造のため、時折、それぞれの自分たちだけしか知らせない、知り得ないはずの会話中に他の人が顔をのぞかせる。話の中断と不穏な雰囲気。
完全に秘密にできないそれぞれの関係。


部屋の外からの声やベランダを照らす花火の輝き。騒々しさと華やかさと それに反する人間たちの冷たさと異常な熱さ。

当時の当地の「同性愛」への世間からの目がどうであったのか解らないが ブリックの激しい否定と嫌悪、否定しているにも関わらず父親が理解をほのめかすこと、その「親友」を追い詰めたのは妻のマギーなのか、それとも最後に拒否し無視したブリック自身なのか。アル中になり妻を疎んじ、誰にも心を開かないブリックの闇は深い。

「子供ができた」と先に宣言し、アルコールを手の内に、嘘から真実をつくりあげようとするマギー。真実を知らされ、実際に痛みと共に死が迫る「おじいちゃん」。
お互いを傷つけあうやりとりと駆け引き、「焼けたトタン屋根の上の」急展開も凄まじい。

なんだか嫌な感じになりそうな話ではあるが あけすけな会話と解りやすい人物像がドロドロというより悲しいくらいカラリとしていて、こういうのってお国柄もあるのかなと思う。
何より どんな酷いことばかり言い合っていても、本人たちは憎み合っていても、読み手(観客)には登場人物の身勝手も見栄も嘘も 案外愛しい愚かさに思えるところが この人の作品の良さであると思うのだ。


[PR]

# by nazunakotonoha | 2016-07-03 07:30 | テネシー・ウィリアムズ | Comments(0)

少女七竈と七人の可愛そうな大人

「可愛そう」なのは ほんとうの愛を得られないまま旅人になった「母」と、不本意にも美しく生まれたその子供、そして男たちのせいで不幸せな妻たち、それとも?

少女七竈と七人の可愛そうな大人
  • 桜庭一樹
  • 角川書店
  • 1470円
Amazonで購入
書評
父が図書館で借りてきた本には時々 あれ?というのがある。新聞の書評欄や広告で気になった本を次々借りているそうなので、たまに思っていたのと違うことがあるそうだ。今回は どうも父には文体が(内容ではなく)合わなかったらしい。15ページくらいで挫折したようだ。ちょうど読みたいと思っていたので拝借。
「父」に借りたというのもあって、内容が語り合えない程過激なものだったらちょっと困る。大丈夫かな、予備知識のないままページをめくる。

「辻斬りのように」7人の男と寝ようと思った教師の女性の章から始まるが 父が挫折したのはこの突拍子のない女性の決意とその後の行動を非難してのことではなさそうだ。物語の主人公として理解できるとか共感できるか、そういうことは別として。

この女の人の話でずっと続くのかな、それとも「少女七竈」というキャラクターが「7人の大人の男」を可愛そうなことにするのかな、と思ったのだがそういうわけではなかった。更に言うと このトンデモない女教師は早々に一章で自ら「語り」を退く。
その後は 父がどの「男」かはっきりしないまま とてつもなく美しく育った娘「七竈」、犬、幼馴染のこれまた美しい少年の母など 語り手を替えながら綴られる物語だ。
一章の女性の話でも文章内に性的な過激な描写があるわけではないので 苦手な方も心配ない。ただ、淡々と描かれる景色や空気の中 花の香りや月の様子に何故かどきどきさせられるのだ。


「七竈の木というのは七度かまどに入れてもなお燃えない」「燃えた後は良い炭となる」というのが母が同僚の既婚の男性教師から聞いた話で それがまずは全てのきっかけのようだ。
平凡な容姿を持った普通の人生を歩んでいた女教師が「狂い」だすのだ。

その嵐のような「辻斬り」の日々の結果 女の子が生まれ「七竈」と名付けられる。
少女は誰もが見つめてしまう程の「かんばせ」を持った美少女に育つのだが ずっと後にこの男の先生に「七竈の実」について語られる場面がある。
七竈の赤い実は苦くて鳥も食べないので そのまま残り 雪を被り やがて朽ちていくという。美しいままひとりで朽ちる「七竈」。それは少女のやがての決意に繋がっていく。誰もが知り合いや親戚のようなこの狭い狭い世界でただ朽ちるのは嫌だと。

美しい少女「七竈」と少年「雪風」が静かな電車オタクであるのが面白い。冷たく硬質な電車の模型に頬を寄せ、門外漢には暗号のように聞こえる車両の記号を語り、わざわざサングラスでその「かんばせ」を隠して二人模型の店に行くのだ。
「がたたん」「ごととん」と秘密の合言葉のように静かに言い続ける二人。「幼馴染」なだけのはずなのにその飛びぬけて美しい容姿は「血」の繋がりを認めざる得ない。
母が「寝た」男の中に その狭い地域では知る人も多い美しい男が居た。(今はその美しさも褪せて、妻を後悔させるだけのただの「馬鹿な」男なのだが)それが少年「雪風」の父親なのだ。

雪風目当てで七竈に近づく後輩の女の子もまた良い。七竈の古風な話し方や 風変わりな反応に、だんだん七竈自体に興味を感じ、結果「美しいふたり」を見ていたい、七竈に離れて行って欲しくないとまで言う。
七竈の「無関心」「無感動」にとれるその淡々とした態度は、その美しすぎる「かんばせ」のせいで他人から離れてじろじろ見られることに飽いてしまったこと、母の存在への渇望とその生き方への拒絶の間で揺れてきた寂しいこどもだということから来るのだろう。雪風だけが心を開く相手であった彼女に遠慮なく近づいてくるこの「後輩」の存在は彼女にとって嬉しいものであったのだろう。七竈の閉じた世界が少しこじ開けられた そんな気がする。


母親の「ふしだら」から始まるこの物語だが 最後にもう一度その衝動の理由が明かされる。だからといって娘の七竈の人生の意味が変わるわけではないけれど、そんな母の(迷惑な)行為さえ、いずれは一人の女性の生き方として七竈はそれも受け容れていくのだと思う。帰ってきた母とからかいぎみに相手をする七竈は幸せそうだ。

妻に「馬鹿」よわばりされる雪風の父を始め その他の男たちについては特に深く記述が無い。「可愛そう」なというのは書くに値しないほど「可愛そう」っていうことなのかしら、なんて思ってしまうのだ。




[PR]

# by nazunakotonoha | 2016-06-27 21:10 | 桜庭 一樹 | Comments(0)

ちょうちんそで

「架空の妹」と思い出をお喋りしながら暮らす。それで幸せかと問われたら難しい。

(2015.6月 「本が好き」サイトに投稿したものを転載しています)



ちょうちんそで
  • 江國香織
  • 新潮社
  • 529円
Amazonで購入
書評

最近 母が入院し、父がプチ一人暮らしになった。姉が両親それぞれの様子を見に、頻繁に帰省するようになり、姉妹の会話が増えた。
姉妹、一人暮らし、高齢者 ちょうどそんなキーワードがちらほらするので余計 印象深い物語であったと思う。 

冒頭から「架空の妹」という言葉が出てくる。その「架空の妹」と暮らす雛子さんは、高齢者向け介護付きマンションに住んでいる。が、「高齢者」という歳でもない。50代、ここではまだまだ「若いひと」だ。
あまりに何度も繰り返し「架空の妹」と記載されるので、もうそこは「飴子」さんでいいのでは?と思う。もう読者も十分解ったし。だが飴子さんがどうして「架空」なのか、実際に「居た」のか今はもう生きていないのか、なぜ「架空」なのか すぐには解らない。
雛子さんは常に(他人が介入してこない時はずっと)「架空の妹=飴子」と会話している。思い出話を語り、笑い、一緒に音楽を聴く。
飴子の方が性格がさっぱりしていて あけすけに物を言い、若々しく伸びやかで正直だ。隣の住人の男性が一人暮らしの雛子を気遣い、訪ねて来る時も 相手に聞こえないように(もちろん聞こえはしないのだが )毒づいたりもする。
「飴子」は消息を断ってはいるが実在する本当の妹だ、ということは読み進めていくうちだんだんと解ってくるのだが、雛子の一部であり「そうありたい」もうひとつの人格でもあるのだろう。


一人ぼっちで部屋にいると、独り言が増える。思い出のいっぱいある誰かと「会話」して暮らすことも それほど変なことでもない気がするし、そのことで寂しさを紛らせられ、笑顔にもなれるなら それもまたありなんじゃないかな、と思う。周囲に「少し頭がおかしいのかもしれない」と思われるかもしれないけれど。

雛子さんの話の章のほか、隣の夫婦の話があり、また誰?と思うほどいきなりに赤ちゃんのいる夫婦、その弟と恋人の亜美の話があり、そしてもうひとつ、海外暮らす少女と大好きな日本人学校の先生の話がある。
皆 そういう風に繋がるんだ、といずれは解るのだが、少しずつ、遠くまで延びた糸をたぐるように緩やかなネタばらしが紡がれる。

「飴子さん」は今「架空の姉」と一緒に生きてはいないのかもしれない。でもけして姉と過ごした幼い頃のことを忘れたわけではないし、嫌って連絡を断っているわけでもないようだ。それを感じて心底ほっとした。連絡を取らないのは深い信頼があるからかもしれない。


「架空の」同居人は一人暮らしの自分を傷つけないし、喧嘩して自分を置いて出ていくこともない。その点では雛子さんのような生き方は「幸せ」でもあるだろう。

ここの住人たちは皆優しい。自分にとっての常識とかちょっとした好奇心とか他人への様々な違和感を持ちながらも、決して高齢者同士 踏み入り過ぎず、傷付け合うことはない。
隣人の男性にも誰にも言えない「過去」があるのだが それさえ、あったのかなかったのか「架空の」思い出のように思えるのだ。

救急車が来て 誰かが運ばれていく。最近見かけなくなったな、と思うとその部屋が「空き部屋」になり補修と清掃の後 新たな「高齢者」の住人が入る。
夫婦だったり 一人暮らしだったりする その人たちはそれぞれどのように日々を生きていくのだろう

「小人を見たことがある」雛子さん、「小人を見たことがある」海外に住む少女、その少女に温かい友情で応える小島先生は年齢を感じさせない親しみを感じる素敵な女性だ。
健康でまっすぐな大学生の誠の優しさ、恋人の亜美の若さと自身への正直さ。
自分たちを捨てた母を許せない兄、正直のトラウマ。未来に何の不安も無いような生まれたての赤ん坊。そして雛子さんのマンションの住人たち。

雛子さんだけが暗く不幸に描かれているわけでもない。逆にまるでそこが絵本の世界のように明るく美しく不思議に心に残る。

物語は「えっ?終わり?」という風にプツンと終わる。これからの雛子さんの生活に変化が訪れるのか やっぱり壊されることなくそのままなのか それは解らない。でも、こうやってひととひとは切れず繋がっていて、その中で雛子さんは自分なりの幸せな生き方を選んで(それが他人に変に見えようとも)生きていくのだろうと思う。

姉と私、ゲーム機なんて無い時代、色んな遊び、色んなお喋りをしたことを思い出す。あの時、笑ったよねぇ、覚えてる?あの「ごっこ遊び」の始まりのお決まりのセリフ、こうだったよね、と話してみたい気がするが、今が充実している姉に「何?そんなことあった?」と聞かれるのがちょっと怖くて なかなか言い出せないでいる。


[PR]

# by nazunakotonoha | 2016-06-26 07:49 | 江國香織 | Comments(0)

うたかた サンクチュアリ

実家の本棚にあった古い本。少し黄色いページがきらきらとして。


うたかた/サンクチュアリ
  • 吉本ばなな
  • 新潮社
  • 380円
Amazonで購入
書評
いつ読んだのか、すっかり忘れていた。若いころ買って読んだのだろう、ページはもう黄色い。


比較的最近に「キッチン」「みずうみ」を読みなおしレビューも書いたので、この「ばななさんらしい感じ」にすっかり懐かしさのようなものを感じたのだった。

黄色いページから溢れる言葉は相変わらずみずみずしくて、どこを取っても「金太郎飴」のようで(ちょっと違うか。)きらきら輝いている。

「うたかた」では 「人魚」という(変わった)名前の女の子と少し年上の嵐、「サンクチュアリ」では智明と少し年上の馨が登場します。どちらも語り手となる主人公の一人称で語られるので 「地の文」からそれぞれの個性的な比喩や言い表し方が溢れ出してくるのだ。
だからといってどの登場人物も 周囲から浮き上がった突飛な思考や感じ方のひと、という風に描かれているわけではない。というか、作者の持つ景色やものごとを表現する「言葉」はそれが「普通」で、「普通に」紡ぎだすとそんな風に、きらめく言葉のオンパレードとなるのだろう。

「うたかた」での「淋しさ」についての表現は「ふと目覚めてしまった夜明けに、窓いちめんに映るあの青のようなものだ。」といい、「サンクチュアリ」での「イチョウの木を見上げて見る青空」のような心のありようとか、そうやって文にされたら ああ、そうだよね、と納得する。

「兄弟ではないかと疑いつつ恋に落ちる(?)若い男女」とか「不倫相手を自殺で亡くした男と未亡人の運命的な出会い」なんて、あらすじだけを説明すると何だか昼ドラか昔の少女漫画みたいでもあるが、例えば「うたかた」の主人公「人魚」の「どこにでもいそうにない」環境や生い立ちと、それを重くも暗くもしない語り口、のほほんとした性格はそれらと確実に異なるし、「サンクチュアリ」でも全くドロドロしたものや薄暗さを感じさせない まっすぐで清潔な人物造形と会話の美しさは この作者ならではだと思う。


「付箋をつけたら付箋だらけになる」と書いた以前のレビュー同様、付箋こそつけなかったが、煌めく文章にどっぷりはまって読了したのだった。

[PR]

# by nazunakotonoha | 2016-06-11 21:17 | 吉本ばなな | Comments(0)

サロメ

純粋で残酷な幼さもまた それはそれで更に怖ろしい。

サロメ
  • ワイルド
  • 岩波書店
  • 378円
Amazonで購入
書評


漫画や昔話、そのほかの本に出てくる幼く可愛らしいお姫様も「~じゃ」「~だぞよ」なんて語尾で話すものがある。私はこの福田恆存訳サロメしか読んだことがないので 「なのだよ」「だよ」というサロメの話し方がさほど「少女らしくない」と思ったことも無かった。(16歳だと改めて聞くとそんなにまだこどもだったのかも思うけれど)

ビアズレーの挿絵は独特の雰囲気があって好きなのだけれど、描かれている女性(サロメ)は 現代日本の「可愛い」文化の中で捉えたらおよそ「美少女」の枠に入るものではない。

けれど、そんなことも置いておいて、この薄い本の内容の濃さ、耳に残る台詞、印象深さは圧倒的だ。

サロメの台詞。預言者の声、肌、髪などを順に褒めては拒まれ、拒まれてはけなし、また別の部位を褒め、の繰り返し、そしてまたサロメの要望を別のものに変えようとするヘロデ王と「ヨカナーンの首を」と、譲らないサロメとのやりとり。

月の様子を差し挟むことで 醸し出される美しさと怪しさ。

もともとは聖書の記述でヘロディアの娘(王女)が踊りの褒美に聖者ヨハネの首を所望し、ヨハネが処刑された下りがあるという。短い記述で、ヨハネの処刑は王妃であり母のヘロディアの言うとおりにしたまでのこととなっている。
そこに少女の「恋心」を絡めて物語を再構築したワイルドの発想が凄いと思うのだ。

誰をも魅了する美しい少女の姫、義理の父である王から汚れた大人の目で愛でられることは彼女には何の罪もない。夫の目を娘のサロメから離そうとするヘロディアの台詞は 子供を守る母のものでもあり、若い娘に嫉妬する女のものでもある。

その関係性の中に入ってくるのが王と王妃の婚姻を否定する聖者。(王妃はもとヘロデの兄嫁であり 律法で許されていない)。だが王は聖者に畏怖を感じ、捕えたもののどうすることもできないでいる。声に耳を傾けてさえいるのだ。王妃は自分を悪く言うヨカナーンを疎ましく思い、同じように思ってくれない王に対しいらだちを隠せない。

だが、ヨカナーンの首を欲したのは この物語ではサロメ自身だ。はっきりと、高らかに。
ヘロデのどんな他の褒美の申し出にもなびかない。欲しいのはヨカナーン。
ヨカナーン、ではあるのだが ヨカナーンの「皿に載せた首」なのだ。

叶わない恋、傷ついたプライド。支配欲、独占欲。
ひたすら恋する純粋な少女だと思えば一層 その変容が怖いのだ。
生首にキスする図をおぞましいと思いそれを狂気と呼ぶか それでも「純愛」というのか。

比較的短い台詞のやりとりで、ぐいぐい読者(観客)を惹きつけ 怒涛のラストまで連れて行く。ワイルドの傑作だと思う。

新訳が光文社から出ていると聞く。探したがまだ手にしていない。
野田秀樹が現代風アレンジを加え、多部未華子がサロメを演じる舞台もあるそうだ。
いまどきの言葉をはつらつとして語る「新しいサロメ」も気になるので、他の訳と読み比べたり、色々な舞台も観てみたいと思う。

[PR]

# by nazunakotonoha | 2016-06-07 23:02 | 海外の作家 | Comments(0)

きょうはなんのひ

きょうはなんのひ しらないの?しらなきゃ かいだん3だんめ。
みんな一度はやってみたくなる 手作り宝探し。
嬉しくなって 楽しくなって 大事にしたい素敵な絵本。


きょうはなんのひ?
  • 瀬田貞二
  • 福音館書店
  • 1260円
Amazonで購入
書評


まみこちゃんの 手作り宝探しに
おかあさんは(おとうさんも巻きこんで)おうちの中 あっちへこっちへ。

いやあ、これ 一度はやってみたくなりますよね。
お母さんでも 子供でも。

おうちの中の 色んなところに
次へ次へと隠された 小さな手紙

次の場所はヒントしか書かれていません。
そのヒントのまた オシャレなこと。
いいセンス、まみこちゃん!!

そして色々家の中を回るうち 
大好きな絵本を見直したり ピアノをおさらいしてみたり
金魚も眺めてみたし

そうそう 気が付きそうで気が付きにくいところ ほら、って
ちょっと 頭の体操。

お父さんにも電話して


さて 今日は一体何の日だから
まみこちゃんがこんなに張り切って 素敵な仕掛けをしたのか
最後に タネあかし。


ちょっと 懐かしい感じのする 家の造り、間取りやインテリア
小物などの描きこみを よくよく眺めるのも 楽しいです。

おかあさんと一体になって まみこちゃんの計画に
どきどき わくわく。

そして お母さんとお父さんが 楽しんで喜んでくれるかな って
まみこちゃんの目線で うきうき そわそわ。

絶対 楽しい絵本です。


[PR]

# by nazunakotonoha | 2016-06-03 09:52 | 絵本の感想 | Comments(0)

エヴリシング・フロウズ

学校内の仲間、学校外の仲間、そして家族。一人で見つけた楽しみ。
どこかがどんなに息苦しくても きっとまだ居場所はあり、振り向けば見守ってくれる相手もいるのだ。


エヴリシング・フロウズ
  • 津村記久子
  • 文藝春秋
  • 1728円
Amazonで購入
書評

図書館通いの父は 新聞の新刊案内や書評を見て気になったものを切り抜いている。
そういう本はたいてい人気で貸し出し中で順番待ちだそうだ。
それでもどんどん切り抜きは溜まるので、どれでもいいから今あるのを借して、と次々出すそうだ。

本人いわくこの本をカウンターに出した時、ちょっと怪訝な顔をされたという。確かに読み始めてみたらいまどきの中学生の話で なかなか何も起こらず、良く解らなくて10ページで挫折したそうだ。
何で切り抜いたのか思いだしてみると 仕事をしていた時縁のあった土地「大阪の大正区」の話と、どこかで紹介されていたからで、それだけを期待してもう少し読もうとしたが さっぱり地名も出てこない。冒頭の簡単な地図は見る人が見たら 確かに「大正区」なんだそうだ。

どちらかと言えば私の好きそな本だということで 返却まで期間もあるので借りて読むことにした。作者、作品については予備知識は全くなかった。

スクールカーストという言葉を出した作品も最近多いが、言葉は出さずとも 今も昔も中高生にはそれぞれの「持ち場」があり、何とはなしにそれぞれがその「位置」を意識していたように思う。
ただ、その「位置」を自分自身がどう受け止めるかが大事で、私の頃は、だからといって他の「居場所」にいる人をどうこう言うことはなかった、ように思う。
 

私は主人公のヒロシや増田さんのように絵が好きな生徒だった。今から思えばかなり「痛い」奴だが、スケッチブックに「作品」(イラストや漫画)を持ち歩いていた。けれども誰にも文句を言われなかったし、「浮いている」とも感じなかった。遠い昔のことだけれどね。

この物語で彼らも「絵が好き」「絵が上手い」けれど誰にも文句は言われない。(他人の課題を代わってやって、表彰されても口に出さないからかもしれないが。)
好きなことを好きにやっていればいい、それなら「カースト下位」(こんな言葉はこの物語では出てこないし、好きでもないがあえて使います)でも それなりに楽しく学校生活を過ごせる。
ただヒロシが増田さんの絵のうまさと周りを気にしない様に 敗北感を感じ、絵なんか興味ないふりをして自分をごまかすことも 何となく解る自分がいる。
事件の発端となる「カースト上位」のヤツこそ 姑息な手を使い、他人を傷つけでもしないと 自分の居場所を守れない 可哀そうなヤツなのだ。可哀そうと言うにもやり方が酷過ぎる気がするが。


ヒロシが「名前が近い」という理由でつるむことになったヤザワはどこに位置しようと、誰がどう思おうと気にしない。転居の理由も謎だし、充実していそうなプライベートの時間も何をしているのか不明。でも ヒロシは思うのだ。そんなことを知らなくたって 知っていることは沢山ある。喋ってないことも沢山あるけど、ヤザワの言葉を沢山知っている。
そうだろう。友達同士だって何を話し、何を話さなくてもいいかなんて それぞれだ。
カースト上位の彼らが知っていないと落ち着かないことなんて 他の仲間たちにとってはどうでもいいことなのかもしれないのだ。
そんなヤザワが嘘の噂を流され とんでもなく酷い目にあう。これは犯罪の域だと思う。
それでも相変わらず彼はたんたんとかわすのだ。
よわい、地味、格好良くない、要領悪い。
そんな立ち位置でもかまわない。友達のために自分がやるべきと 決めたこををするヒロシはすごくカッコいいし、周りがどう思おうと何をされようと飄々としているヤザワも素敵だ。


事件が一段落した後起こるのは 文化祭の展示準備と大土居さんの家の中の問題だ。
ヒロシが密かに好きだった娘とソフト部でバッテリーを組む強打者の大土居さんは 後半までいい風には描かれず、ヒロシを襲った謎の通り魔でもある。
謎をひっぱったまま 男女のグループは出来上がり 大土居さんの家で作業が始まる。

校外の友人 自分だけの趣味、学校の人は誰も知らない休日の行動、そんなことがさらりと描かれていて、それこそが息詰まる学校生活の中で自分を保ち自分を支える大事なものなのだ、と感じさせる。

大土居さんだけは家庭こそが息苦しく大変な空間だったのだが、そういう時こその「仲間」の存在が癒しとなり助けとなるのだなと しみじみ感じた。
また、もうすっかり離れてしまった「父」の葬儀で出会った半分だけ血の繋がった弟の存在。ふと「似ている」ことに気づき一瞬だけ涙したヒロシの気持ちを思うと 何だか辛く、一緒に泣きそうになる。こうやって皆 歩いていくんだな、と思うと別れていくのが切ないながらも逞しく頼もしく思え、心からのエールを贈りたくなる。 


ブリューゲルの画集を好んだり チケットがあるからといって友達と美術展にいったり、澁澤龍彦を読む中学生にはお目にかかったことが無い。
探せば実は密かに居たのかもしれない。自分だけが本当は「皆と一緒」じゃない、と思っていた、そういう時期、素敵な個性に出会えなかった(気付けなかった)ことが少し残念だ。


[PR]

# by nazunakotonoha | 2016-06-03 09:40 | 未分類(国内の作家) | Comments(0)