壁 安部公房

困った状態が長く続く物語は読んでて苦しい
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「S・カルマ氏の犯罪」 「赤い繭」(「赤い繭」「洪水」「魔法のチョーク」「事業」の4話で構成されます)、「バベルの塔の狸」。


冒頭の「朝起きたら妙なことになっている」感じから カフカの「変身」風に思っていたのですが、「です、ます」調で書かれた物語は 記憶よりずっと お伽噺のようで、アリスや宮沢賢治の中のちょっとブラックなところのある童話に通じるものを感じました。

実は「S・カルマ氏の犯罪」の途中で あまりに困った状態が長く続くので 投げだしそうになったのですが、そのまま投げ出すと主人公にも悪い気がして読み進めることにしました。若い頃はこのブラックさどうしようもない苦しさが結構好きな世界だった記憶があるのですが、歳を経ると不条理な状況や自分ではどうしようもない困難に対し、できるだけ避けたいと思うようになったのかもしれません。もちろん平和で優しくてハッピーエンドな物語ばかりを求めているわけではないのですが……。


「S・カルマ氏の犯罪」

朝起きて、奇妙なことが起きる。原因や解決方法を自分なりに探りながら それでも会社に行ったり、仕事をしようとする。この辺りはカフカの「変身」を思い出します。
ややこしいのは消えたのが「名前」。身分証明書からも名前だけが消えている。事務所の名札にある「S・カルマ」がどうやら自分の名らしい。でもピンとこない。
 主人公のデスクには、「名刺」が自分の姿で座っている。よく見るとただの名刺に見えるけれど皆には人の姿に見えるようです。名刺が自分として存在し、自分は何者か解ってもらえない。

次の事件は 胸の空虚感を何とかできないか行った病院で見た雑誌から砂丘の風景を胸の中に吸い取ってしまったこと。どうやら空虚な胸の中に見つめたものが入ってきてしまうということらしい。動物園で砂丘に惹かれたラクダを吸い取りかけ、彼は捕らえられて裁判にかけられ 罪人扱いされ追われることになります。

名刺だけでなく靴やネクタイ 部屋のあらゆる「物」が意志を持ちに反抗を始め、唯一味方かと信じたY子も、見ると 実はマネキン人形です。男のマネキンに「世界の果に関する講演と映画」を観ることを薦められ、解決の期待をもって見に行くと、突き飛ばされ画面の中に入ってしまい、自分の中にある砂丘に育つ「壁」の存在を知ります。
「成長する壁」を解明しようと解剖されかけ、中に入って調査され、やがて壁そのものに変形していくというのが「あらすじ」です。

名前を失くした人の話と、自分の身の回りの「物」たちが反乱を起こす話、胸の中に見たものを吸い込んでしまう人の話、と別々の物語なら もう少し牧歌的な童話にもなったことでしょう。名前や物や今いる場所をないがしろにしていた報いでこんな状況になり、全部元通りになって(夢だった、とか)めでたしめでたしなら子供向けの教訓話にもなります。

ただ、それらが延々と連携し 主人公はどこが悪くてどうしてこんな風になったのか解らない、解決するどころか解剖されかけ 最後は「壁」になってしまうのです。胸の中が空虚というより、読む人も苦いものがいっぱいに広がってきてかなりしんどい。そんな物語です。



「赤い繭」は「赤い繭」「洪水」「魔法のチョーク」「事業」の4話からなります。どれも短編なので、星新一の皮肉なショートショートのように思って読むとまだ胸に滓は残らないかな、と思いましたが……。

「赤い繭」では足からのびた絹糸を手繰るとどんどんほころんでいき、主人公の身を袋のように包みこんでいって、ついに彼は一個の空っぽの大きな「繭」となります。繭の中から夕陽が透ける、悲しくて綺麗な映像が残りますが、子供のポケットに入れられ、その後おもちゃ箱に。「帰る家が無い」と嘆いていた主人公の「帰った先」がこれ。なんだか可愛そうな物語です。

「洪水」は世界のいたるところで、労働者たちが液化し、やがて人類は洪水で絶滅する話。貧しい物から液化して、富める者は液体恐怖症になってなんとか生き残りたいと足掻くけれど、結局……という話です。不測の事態に色々な専門家を出してコメントさせたり解明を求める辺りに 今時のTVショーと通じる滑稽さ無力さを見る気がします。

「魔法のチョーク」は描きようによっては 一番童話的な物語。貧しい画家のアルゴン君が、壁に描くと実物になる赤いチョークを持ちます日光が当たると絵に戻ってしまうので 考えたアルゴン君は部屋に暗幕をめぐらし暗い中で描いて作ったお金を使い、好きなものを食べて暮らします。絵で描いた「扉」と「外の絵」を描けば世界が創れる、創らないと何も無い世界に居ると気づき、アダムとイヴのイヴのような初めの女性を創り出し、一緒に世界を設計しようと誘います。けれど女性は思い通りにはなりません。(性格や行動までは思い通りに創れなかったようです)
魔法で利を得、神をも恐れぬ大それたことを考えた結果、このようになってしまいましたとさ、という童話なら他にもありそうですね。


「事業」は気味の悪い話。こういう悪夢のような「研究」や「事業」は漫画やアニメにありそうだけど私は苦手です。

「バベルの塔の狸」ではいきなり奇妙な獣に「影」を奪われる人の話。面白いのは「影」だからまあ、日陰にさえいれば普通の人と同じ、と自分を納得させる主人公のまず初めの行動です。とんでもない状況になっても まずなんとか「普通」に混じろうとする。

でも、すぐに主人公は知るのです。実は影を失ったのではなく「肉体」を失った、目だけ残して透明人間になっていたのです。

「眼」や服や持っているものも他の人から見えるので、周囲を騒がせ警察に追われ逃げてます。やっと獣が再び見つかりますが その獣に「バベルの塔」へ連れて行かれます。人はみな各々このような獣「とらぬ狸」を持っているらしいです。想像の中で膨らんだ世界、想像で済ませ満足している世界ということでしょうか。(詩人の彼はそういうことを書きつける手帳をもともと持っていて「とらぬ狸」と呼んでいました)

棺に乗って時空を飛んで行った先の「バベルの塔」には、色々な過去の有名人の「とらぬ狸」がいます。エホバという人もいます。あちこち連れて行かれたり危険な目にあったりしながら 影をとられる前の時間に戻ることができて良かった、という話。

安部公房の世界がうんと未来に通じていたのか、アニメ映画が奥深くなったのか、今のアニメや漫画の作家さんたちがこういう文学に影響を受けているのか、全部あるとおもうのですが、どれも映像にしてみたくなる物語になっています。バーチャル世界と現実の間を行き来して戦う物語に通じる気がしますが よくある世界や地球の未来や大事な人を守るため、という戦う目的や理由はありません。とても個人的な「困った」話、だからこそ、弱小な自分に引き寄せて苦しくなってしまうのかもしれないと、改めて(書いている今、)思いました。


# by nazunakotonoha | 2019-02-02 21:25 | 未分類(国内の作家) | Comments(0)

チップス先生さようなら 

どんな人生もきっと感動的なのだ。

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年齢がうちの父に近いだけに余計、読んでいる間ずっと、どうしてもその姿を重ねてしまいます。時代は違うけれどね。
ゆっくりした動作、以前のようにすらすらとは喋らないけれど、味のある物言い。思い出を語る時の驚くほどの饒舌。記憶のあやふやなところと細かいところ。尽きない過去への愛着。

英国が政治的にも国際的にも移り変わる時代の流れの中、沢山の出会いと別れを経験し、辛いことも嬉しいことも懐かしい思い出にして、穏やかに思い出せる、そんな愛すべき年長者。



新米教師として他の学校で失敗したのち、チップスはブルックフィールドに22歳で採用されます。元来 生真面目で、あまり融通の利く方ではなく、保守的。その上、今度は生徒にナメられないようにと気を引き締めてかかってもいるようで、「面白い人気者の若い先生」という感じではありません。もちろん熱血先生でも無いし、生徒のために活躍する事件も特には起こりません。

ブルックフィールドは学力はそこそこの裕福な家庭の子息が集まり、一族が皆代々通うこともよくある学校です。生徒たちは伝統的な「悪戯」をしたり怒られて鞭を受けたり、百行清書の罰を受けたり、たまには退学を促されるような事件もあるようですが、いずれは社会に出て恥ずかしくないお行儀と教養を身に着け、英国に貢献する紳士たちになっていくようです。
そんな学校で、引退するまでの長い期間、チップス先生は教え子の子供、その孫も教えることになります。生徒たちもまた代々 老いていくチップス先生を「見守る」という形になります。

生真面目で堅苦しい感じのチップスに変化をもたらしたのは奥さんになったキャサリンです。この人のキャラクターとエピソードは素敵で、地味な彼の人生の色に 若さと華やかさと温かさを加えてくれます。彼女の影響で、彼は生徒たちとより親しみ、彼らの起こす問題に対しても柔軟で心のこもった対応が出来るようになり、そしてなんと授業やちょっとした演説で爆笑を取る、ジョークを挟むような柔らかい面を発揮するようになるのです。(もともと素養はあったのだと思いますが)


「ブルックフィールドと言えばチップスで、チップスと言えばブルックフィールド」
特別な出世は望まず、頼まれた仕事と今まで通りの教え方を貫き、新しい校長からはその教え方の古臭さを理由に退職を迫られますが、扉の外からそのやり取りを聞き知った生徒から 父兄にまでその噂は広がり、チップス先生は退職を免れ、現職を続けることができます。一途に真面目に 先生やってきて本当に良かったね、という心温まる事件でした。

古びたガウンを着ていても、ラテン語の発音が前時代的でも、それを押し通して教える頑固さも、今まで通りすらすらと喋れず、思ったように言い返せなくても、チップス先生をないがしろにしたり馬鹿にしたりなんて 許せない。愛され続ける老教師の姿にほっこりさせられます(まぁ、この新校長のやり方には今まで不満のある人が実は多かったというのもあるのですがね)


チップス先生は教師を引退後も一度 戦争中の人員不足に 請われて職に復帰します。戦争について生徒にコメントを求められても、嘘や自分の思っていないことは言いません。持論を振りかざしたりはしないけれど、戦地で亡くなる教え子のことを悼み、たとえ戦争で敵側だとしても親交のあった先生のために祈ります。

その後身体も限界を感じ、すっかり引退しますが、生徒や先生たちをお茶に招待したり、学校に足を運んで球技の試合を観戦し、新入生たちの顔と名前を覚えます。お茶に呼ばれた若い生徒たちは チップス先生の 何種類もの茶葉の混ぜ方のこだわりや、老人らしい仕草を後で笑いはするものの、決して本当に馬鹿にしたり嫌ったり疎んじたりはしません。うんと年の離れた教師仲間たちもチップス先生を敬愛しています。


散りばめられたチップス先生の、爆笑を引き起こすジョークは、残念ながら説明を読んでも、笑えませんが(説明の要る冗談やしゃれほど面白くないものは無いですね)、先生の言うことなら何でも笑おう、笑っていたい、という温かい雰囲気がいいと思います。

タイトルの「チップス先生、さようなら」はお別れの言葉です。若く明るい妻が出会った日に言い、(もちろん再会します)、きっと普段の授業の後でも生徒に言われただろうし、お茶に呼ばれた人たちもまた今度ね、有難う、楽しかったよ、という心を込めて言います。学校生活に不安を持って相談に訪れた新入生の少年も そんな気持ちで その言葉を告げるのです。


チップス先生の赤ちゃんは、あの明るく素晴らしい奥さんと同時に死んでしまった。だけど「子供がいなかった、可愛そう」という言葉に それは違うよ、と先生は答えるのです。それも亡くなるその前に。

先生の関わった幾多の子供たち、ちゃんと名前を知っている それらの大切な教え子たちは、また心を込めて言うのでしょう。
「チップス先生 さようなら」有難う、大好きですよ、また会いましょうね。

読み終えて しみじみと思い出し、深いところでふつふつと温かいものが溢れ出す、そんな物語でした。

 

# by nazunakotonoha | 2019-01-18 17:08 | 海外の作家 | Comments(0)

西の魔女が死んだ

魔女の修行という名で 人として強く正しく美しい生き方を教えてくれたひと。
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英国の女性ベス・チャトーの庭づくりの本を 季節ごとの写真のページを開いて部屋に飾っている。ワイルドに見えて実は繊細、それぞれの花の高さ、性質、花の色 枯れた時の姿まで考えて作った大好きな庭だ。
植物の形を作り替えたりはしない、自然の姿をより美しく見せる組み合わせや配置を考えてやる。それは 草花の本来の性質をきちんと見極めて 愛情を注がないとできないことだ、と思う。

そんな 別の本のことや、NHKの番組で知った日本の田舎に住まう異国から移住した女性の ハーブを育て ジャムやソースをつくる日々の姿を思わせるこの本の「おばあちゃん」の確かな存在感。



まいの「おばあちゃん」は題名にもなっている「魔女」だという。それはひいおばあちゃんの不思議な体験や おばあちゃんも持つという力で説明されて まいも信じるし、その家系の者だからきっと修行次第で自分にもそんな力がつくのかな、という希望を与える。

ほんとうは「魔女」でも そうでなくても構わないんだと思うのだ。ただ この時期のまいを力づけ 自分を肯定し前向きに生きるべく「修行」するには そういう「希望」が必要だったのだと思うのだ。

「修行」、規則正しい自然のリズムに合った生活、眠ること起きること食べること。自然に触れ、土に、草に風の匂いに気づくこと。自分で決めて行動することの大切さ。
人として何が一番大切かを「魔女」が教えてくれる。
一番 まいにとって難しく、おばあちゃんとの絆を壊してしまったのは ゲンジさんという近所の男性の存在と彼の行動に対するのまいの「思い込み」についての考え方だ。それは自分が許容できない相手を思い込み無くして見ること、消して相手の存在を否定しないこと。

でも、中学生のまいにとって それは難しいことだったのだ。折角のまいの見つけた美しい居場所に彼は 「不潔な」雑誌を読んで、まいの不登校を嗤い、聖域とも言える癒しの場所に踏み込み 勝手に掘り返す そんな存在として介入して来たからだ。
そんなまいの気持ちに おばあちゃんは無頓着を通し、彼を非難する強い言葉をまいが発した時 おばあちゃんはついにぴしゃりと彼女を打ったのだ。

本当のところは まいの思ったような人でないのかもしれないし、その通りの人なのかもしれない。物語の間に 彼の背景が解り ちょっとした交流で友情が芽生えたりするのかなと思ったが それも無く彼がどういう人なのかは解らず仕舞いなのには 少し驚いた。

おばあちゃんが亡くなって(冒頭、いや 題名からすでにおばあちゃんは亡くなっているのだけれど)二つの花のことで ゲンジさんとのほとんど初めての会話がある。おばあちゃんが傍で微笑んでいるような そんな気がするシーンだ。銀龍草(白く透明感のある、神秘的な植物 ギンリョウソウ)はおじいちゃんの好きだった植物、まいがヒメワスレナグサと呼んでいた小さな花、これを「きゅうり草」というのだと教えてくれた。(調べたら花言葉が「愛しい人へ真実の愛」なのも良いですね。)
ゲンジさんの本質は解らなかったけれど、まいのおじいちゃんとおばあちゃんのことを好きだったこと、銀龍草を届けに来てくれたことだけで、それだけで良いのではないか、それこそおばあちゃんがまいに教えたかったことではないかと思うのだ。


「おばあちゃん 大好き」「アイ ノウ」

素晴らしいやりとりだ。 包み込むやさしさ、余計な言葉は要らない、微笑みと一言で十分。この人が受け入れてくれば それでいい。自分は居ていいんだ、愛されていいんだという 肯定。おばあちゃんには何よりそれを与える力がある。大きな安心。

おばあちゃんは小説のはじめっから亡くなっていて、回想で物語は語られる。回想の中におばあちゃんとした「死んだらどうなるの?」という会話が交わされている。「死んだら全部なくなってお終いだ」とミもフタもないことを言って幼いまいにショックを与えたパパに対し、おばあちゃんは魂が身体から離れて自由になるのだと言う。魂の大事さを言いながら身体の大切さも教えてくれる。

おばあちゃんとちゃんと和解しないまま離れてしまったまいに おばあちゃんが素晴らしいメッセージを残す。曇りガラスに浮かび上がるそれは素敵で優しいプレゼントだ。
そう、全ては「アイ ノウ」だったのだと思う。


一人称で書かれているわけではないが、目線も気持ちもまいだけのもので進められている。まいの気持ちに寄り添わないと読みづらいかもしれない。
まいの不登校の背景についても、学校でのグループから自らはみ出したものの 孤高を貫くことも誰かにすり寄ることもできないという悩む姿に まいの立ち位置と辛さ、生きにくさが全部伝わったところが 変に学校生活のあれこれを描くより説得力があった。



本当を言うと 梨木ファンが世の中に多すぎて この本についてもどこを見ても絶賛ばかりだったので、却って手を出しにくかったのだ。(ずっと以前「裏庭」を中途でやめている、という実績もあった。もったいないことをしているのかもしれないと今は思う。


まいの世界はまだ途中で魔女修行も終わりではない。まだ「何でも自分で決める」だってできているかどうか分からない。おばあちゃんと離れてお父さんとお母さんと新しい土地で暮らすと決めたことはまいの考えた結果だけれども。


一編だけでもいい話だと思ったけれど、私はその後のまいの様子が解る 二編目の「渡りの一日」があって、とても良かったと思う。ここでは学校に通い、ちょっと変わった友だちと仲良くなったまいの一日が描かれている。なかなか味のある面白い友達(多分今までずっと彼女一人がクラスで浮いていたのだろうと思う)とまい。まいに「魔女修行」の成果がほの見えるのも、微笑ましくて、おばあちゃんの魂と一緒に まいを見守っているような気持ちにさせられた。

可能性はきっと無限大だ。みんな魔女にだってなれる。まいは何にだってなれる。そんな気がする。すべての人にエール。そんな物語に感謝。


# by nazunakotonoha | 2019-01-02 00:19 | 梨木 香歩 | Comments(0)

赤頭巾ちゃん気をつけて

青年の悩みは時空を超える

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1968年 東大紛争により東大入試が中止になったなんてことを知っている人は少なくなっただろう。
ゲバ棒を持ってヘルメットを被った人が 大学に居たことも想像できないかもしれない。火炎瓶が飛び機動隊ともみ合ったとか 山荘に立てこもったとか その中で死者が出たりと、物騒なことに若者が関わった時代であった…らしい。(あえて「らしい」をつける)

年齢が解っちゃうかもしれないが、私も活発に活動しているこういう人たちを知らない世代ではある。静かに居たことは居たんだけれど、宗教関係のサークルの勧誘の方がしつこく絡んできたような覚えがあります。

主人公で作者と同名の「薫くん」はまさにその時代の受験生で 東大を受験するつもりだったので、行くべき方向が見えなくなってしまって悩んでいた。悩んでいたと言っても 物語の冒頭から もう「大学に行くのをやめる」ということを自分で決めている。

愛犬が昨日死んでしまい、スキーのストックで足の指の爪を剥ぐという考えても痛々しい事態になって幼馴染の由美に電話を掛ける。約束のテニスに行けないのを伝える必要もあったのだ。もちろん「大学に行かない決意をした」ことも彼女に言いたかったのだ。

電話というのもこの時代は厄介なことに大抵は母親がまず出るという「固定電話」で 携帯が無いからもちろん「固定電話」という言い方も無かったはずだ。「電話」といえばあの「電話」なのだ。

この電話の相手は、「舌かんで死んじゃいたい」が口癖のなかなか気の強い女の子で、恋愛関係ではないものの、初潮を真っ先に告げに来たり、常に気にもなるし、いざという時は守らねばならないと薫くんは心に決めている大事な存在でもある。喧嘩と絶交を繰り返しているにも関わらず。

その日の薫くんといえば 結局テニスに行けないことを由美に言いそびれ、ゴム長靴を履いて自転車に乗ってテニスコートに行く。とにかく踏んだり蹴ったりだが 痛みに耐えかねて休診の医者に行き、なぜか裸に白衣を羽織った女医さんにドキドキの手当てを受けるという稀有な体験をする。(休診日で、医院の娘とはいえ 何故診察に出てきて裸に白衣なのかは突っ込まないでおきますが)

青春真っ盛りの青年なのだから 薫くんは興奮するし妄想する。心の中はいつも痴漢で強姦魔で凶悪犯なのだ(と本人は何度も繰り返し言う)。だけど薫くんはもちろんそんなこと実行しないし、近所のおばさんたちにも笑顔で話を合わせてしまう人だ。

こんな表面的な自分は自分じゃない。もっと狂暴で残酷なことだってできるのだ。「人当たりの良い いい子」は装った自分だ。気持ちは揺れる。

お手伝いさんの居る家に生まれ アタマのいい人たちの学校に通い、ピアノも弾き、テニスもする。要するに「いいとこのお坊ちゃん」だ。誘われたらゴーゴーパーティ(?)にも行くし、品行方正ばかりではない生活でもある。(そういうところでは裸の女の子と適当に遊ぶこともできるらしい。)だけど、そんな時は彼は何だか冷めちゃって ピアノを弾いて歌手の女の子と語り合ったりするのだ。

不良にもなれない。でもクソ真面目にもなれない。賢いと開き直ってエリートを自認することも違うと思う。学力の高いことを誤魔化してただ面白い奴と思わせて巧く立ち回るような生き方も選びきれない。学力や家庭の富裕のことはおいておいても、生き方の悩みは誰にでも繋がるのではないだろうか。


傷の痛みと心の荒みがきりきりと加速していき、物語がどこに進んでいくのかふと不安になる。そんなことはないとは思いながら、薫くんが街中で暴力に走ったり、自分を痛めつけるのではないかとも思ってしまった。

もちろん薫くんは通り魔にも爆破犯にもならず、足を踏んだ小さな女の子に優しく接するのだ。(もちろん誘拐犯にもならない)
女の子が足の傷のこと心配してくれるので それこそ受験勉強の知識を駆使して壮大なファンタジーを聞かせてやり、本屋で彼女の欲しかった「赤ずきんちゃん」の物語の中で 一番心優しい温かな内容のものを選んでやる。
そして薫くんは決意する。優しく周囲を包み女の子の未来を明るく幸せにする、大きな「森」に「海」になろう。

その時の女の子の歳を考える。たくさんの薫くんたちは たくさんの女の子たちの将来を「幸せ」で包んでくれただろうか。そのために 彼らはきっとできる範囲で一生懸命やってきたのだと思う。

何だかちょっと優しい由美と今日の出来事や進学のことなんかをぽそぽそと語りながら歩く薫くんの未来も ほんのりと明るそうで ほっこりと温かな気持ちになった。



ところで文中に「ハムレット」から派生した芝居を観た話が出てくる。海外で殺される予定のハムレットに、同行した学友の二人が 何の罪も無いのに(とばっちりで)殺されるのだが、その二人を主人公にした芝居だという。薫くんは本来の悲劇の主人公 ハムレットとオフィーリア役の役者の大げさでふざけた演出(演者ではなく)に憤慨するのだ。ちょうど 少し前にハムレットを読んだところだったので その話が印象に残った。薫くんとその芝居を一緒に観て感想を語り合ってみたいと思ったのだった。


# by nazunakotonoha | 2018-12-21 12:22 | 未分類(国内の作家) | Comments(0)

夜叉ヶ池 泉鏡花


夜叉ヶ池、海神別荘、天守物語。薄い本なのにこの重厚さ、奥深さ、玉三郎さんの写真までついた豪華な一冊。
池に潜むは妖の姫。姫路城の天守には美しい女主人、海の中にも現身の人には見ることのできぬ豪奢な城が在り、美しく高貴なお方が棲んでいる。


はじめこそ全てにルビがついているのが少し邪魔に感じましたが、すぐに気にもならなくなり、もちろん雅な言い回しや古語、旧かなづかいもまた この世界に入っていくにつれしっとりと美しく目に馴染むのです。


『夜叉ヶ池』

昔々、おじいさんとおばあさんが山の中で、という様な昔話の世界かとに思って読んでおりましたところ、どうやらそうでもないのです。
時は「現代」。龍神の怒りを鎮める約束、日に三度、定刻に鐘打つのを引き継いだ男。実は田舎育ちの老人などではなく、東京に家族や友人を持つ萩原。萩原は百合という美しい村の女性と結婚し鐘を守って暮らしているのです。そこに訪ねてくるのは彼の旧友の「大学教授の山沢」。

おや、結構現実的なお話なのかと驚くのは、冒頭、池の主の姫 白雪とその眷属たち、池の生き物たちの精、妖怪 人でないものたちが登場し、生き生きと会話し跳ね回っていたからです。

けれど「人間」として登場する村人はというと、日頃はそんな鐘の約束や約束を守ることをないがしろにしていながら、今度は雨ごいのために百合さんを捉えて夜叉ヶ池の龍神の贄に差し出そうとします。勝手で残酷な生き物は まさに人間の方です。

人間が約束の鐘を突かなければ 約束を守らなくてもよい。守らなくて良ければ 村を洪水にしても良い。白雪は恋しいお方の棲む池に行きたくて仕方がない。夜叉ヶ池の姫は心清らかな美しい百合さんを贄になんて欲しくないのです。

村に溢れる水と、救われる心清き夫婦、祈り、見守る山沢の姿が圧巻のクライマックスです。


『海神別荘』

山岸涼子さんが「夜叉ヶ池」を描いたものもあるとのこと、読んでみたい気がしますが、これは私の脳内では 森川久美さんです。シェイクスピアの「十三夜」を華麗に漫画にしていました。美形がわんさと出てくるお話はいいものです。

こちらも「現代」のお話。海神の世継ぎである公子が「妻に」と求めたのは人間の美女。父親に海の財宝、収穫をたんと与えて娘を引き換えに海に捧げさせました。きらびやかな海の神殿、美しい侍女たち。
どんなに素晴らしい場所で丁重に扱われても、人間である彼女は「生きていること」を親や村の人に見せてあげたいという。親なんて財宝と引き換えに娘を差し出したのに、と言っても泣いて聞かない。
もう「ひと」ではなく、人間から見たら「蛇」の姿だと言っても信じない彼女に、だんだんといら立つ公子。
蛇身となり果てたわが姿を認め、どうぞ殺せと嘆く美女。けれども公子に刃を向けられて間近で見ると 恐ろしい兜と甲冑の中の美しいそのお顔に気づきます。いつまでも人間界に拘ってめそめそ泣くのを怒っていた公子も 殺せとまだ言いつつも微笑んだ美女に心緩みます。

姿見に見たい場所や様子が映って見えたり、真っ白な「辞書」に文字がするすると浮かぶ様は ちょっとハリーポッターみたいなところもあり、スリリングな立ち回りや軽快な言葉のやり取り、華麗な舞台装置と流麗な登場人物たちを想像できる楽しい物語でした。


『天守物語』

玉三郎さんの舞台を見に行ったのは残念ながら 姉と母でした。誘われたのに行かなかったのか記憶がありません。古いパンフレットだけが手元にあります。かなり近い時期に映画で「夜叉ヶ池」も玉三郎さんがやっておられたと記憶します。

この話は現代ではなく、封建時代のようです。、姫路城の天守閣には 富姫という妖の夫人が棲んでいます。猪苗代から亀姫が遊びに来、そのお土産は人間の生首です。他の2作には無い はっきりしたホラー展開です。「舌長姥」という眷属の姥が 滴る血を「汚穢や(ぺろぺろ)汚穢やの(ぺろぺろ)、ああ、甘味やの……」と言っては舐めるシーンはユーモラスでもありながら、なかなか鬼気迫ります。


亀姫に贈った白鷹は姫路城主のものだったと言って 命を受けた鷹匠姫川図書之助がこの妖怪の棲む天守閣にやってきます。真っすぐな性格の好男子の彼に、姫は恋心を抱きます。切腹を申し付ける城主なんかより自分と一緒に居てほしいと願う彼女の申し出を振り切って、図書之助は降りていくのですが、お土産に持たせた兜のせいで、今度は盗みの嫌疑をうけて追われます。また天守に逃げ戻る図書之助。


冒頭の花の名の侍女たちが露で野の花を「釣る」様子、二人の姫君が懐かしく語り合う様子は想像するだけでも美しいし、追われ、逃げ、隠れ、はらはらどきどきの展開もきちんと外さずにあります。ちょっと無理やりな大団円もお芝居の面白みとして受け止めてしまいましょう。

泉鏡花、美の世界。しっかり堪能させて頂きました。


# by nazunakotonoha | 2018-11-30 21:55 | 未分類(国内の作家) | Comments(0)

愛の夢とか


愛の夢とか
  • 川上未映子
  • 講談社
  • 594円
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書評


傍からは 歪んでいるように見えたって 本人にとっては正しいのだ。
乱暴な言い方かもしれないが 「とても女性作家らしい」作品だと思う。

短編集のどれも(1作は男性の語りだが)主体となる女性は若くても妊婦でも主婦でも年齢に関係なく、「おんなのこ」だ。
繊細で独りよがりで気に入った少女漫画をせりふが全部暗記できるくらい読んだ そんな時代を経て どんなに歳をとっても 心の中の「私」は少女時代とさして変わらない。そんな感じ。

けなしているのではない。私もまた そうだから。

相手のこともよく知らないふわふわとした恋もする。学生時代の彼氏との叶いそうにない再会の約束に 少しだけ期待してときめいたりもする。主人公が若いものはまだ、いい。今後 彼女たちはどんどん変わっていくだろうし この時期のこともなんとなくの思い出にして からりと笑えるのだと思う。

ピアノが趣味の年上の女性と知り合いになって 彼女の上手いとも言えない同じ曲の練習に延々付き合う若い専業主婦も、この出会いを深くは受け止めず 関わりを続けることに拘らない。
みんな期待しすぎて傷つくことを 関わりすぎて重荷になることを 意識するともなく避けて生きているようだ。

それでも自分が大切に築き上げた「家」への執着 夫には解りえない妊婦の心持 一緒にいるのにどこかかみ合わない夫婦の形。

その中で最終話「十三月怪談」は少し違っていた。
最初 読み進めているときは ほかの話と同じように 病を宣告されるまで、されてからの妻の心の揺らぎ 神経質で心配性な妻と持て余し気味でも付き合う優しい夫との 微妙な行き違いの話かと思ったのだが 妻の病状が本当に悪化して 亡くなってしまうところから様子と描き方が変わってくる。

ネタばれとなってしまうが、やがて妻の時子が亡くなった後の話となり物語の様相は一変する。
語りがその、時子自身となるのだ。
ふわふわと それこそ彼女が(そして読者の私が)少女時代読んだ少女漫画のように「死んだはずなのにどういうわけか」透明で見えない姿で夫の傍で見守る時間を持つ。

夫は悲しみ 落ち込み、長い孤独な期間を経てまた伴侶を持ち子供を持ち、そんな姿をただ部屋の中で見守り続ける。死んでしまったらもう何の力にもなれないんだなぁと感じながら。そんな「死んだひと」の心を思うと きりきりと切ない。

ここを読んでいるとき ふと時子ってこんな語り方をする人だっけ、もっと大人じゃなかったかしら、と元に戻って読み返し、なるほどと思ったことがある。
最初のあたりは時子に感情移入しながら読んでいたから気づかなかったのだが、物語は三人称で語られていたのだった。大人の「時子」と夫の「潤一」。

 そう思えば更に そうだなと思うのが 結局歳をとっても見た目が大人でも やはり中身って変わらない。心の中の気持ちを表すことばはずっと少女時代と同じなのだろう。
そんな切ない「潤ちゃん」の「見守り」も少しずつ 終わりを迎えていく。

そしてその後また ひとつの驚きと気づきがあるのだ。
今度は「その後」の潤一のことが描かれる。

結局のところ 誰にも「死後の世界」は解らない。解らないから幾多の小説や漫画に描かれるのだろう。自分が全くいない世界なんて考えることすらできないのだから。考え得るとしたらやはりそこに、その世界を見ることのできる「わたし」がどうにかして存在しないといけないから。

全ては亡くなる直前に見る「夢」なのかもしれない。それでも それで少しでも心が温かくなって幸せでいられたなら それもいいと思う。

この一冊で 恋をしたり 思い出をなぞったり 新しい命を授かる前に不安定になったり、ちょっとしたご近所との交流があったり はたまた急に暮らし向きが悪くなって家を手放すことになったり 他人の手に渡った「その家」に執着したり 一冊で様々なことを経験した気になる。

そして最後に 愛する人を置いて旅立たなければならなくなる。屈折した女性の心理が淡々と描かれてきた後での とても清らかな「愛」が深く心に残ったのだった。

# by nazunakotonoha | 2018-11-05 16:42 | 未分類(国内の作家) | Comments(0)

額田女王

神の声を聞く者だから、誰にも心は捧げられない。

額田女王
  • 井上靖
  • 新潮社
  • 820円
Amazonで購入
書評


どこで知ったのか記憶は定かではないけれど、小説内で大事なキーになる幾つかの歌はよく覚えています。

中大兄皇子と大海人皇子、二人の兄弟の皇子に愛され、「あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る」と歌い、大海人皇子も「むらさきの にほへる妹を 憎くあらば 人妻ゆゑに吾恋ひめやも」という意味深な歌を返した話は有名です。

また半島出兵に際して額田が歌った勇壮な歌や、様々な歴史上の人物の残した数々の歌は史実として記されている争いや遷都の記録に加えて、作者の豊かな想像力に膨らみを与え、登場人物の関係性や性格付けの元となっています。


 中大兄皇子に謀反の罪で殺められた有間皇子の悲劇や、十市皇女と高市皇子の結ばれなかった二人のほのかな恋愛感情も残された歌などから汲み取ったもの。定説もあれば作者独自の解釈や脚色もあると思います。何といっても残された記述の中に 人々の細やかな感情は描かれてはいないのですからね。

 額田に関しては大海人皇子との間に十市皇女を産んでいますが、前述の歌を大海人皇子と交わした蒲生野での遊猟の時点では 兄の中大兄皇子の「人妻」となっています。
では大海人皇子と額田が変わらない恋心を持ち続け、中大兄皇子は権力にものを言わし額田を奪った嫌な役割なのかというと、この小説は違います。心はもっと複雑です。

額田は神と会話し神の言葉を聞く存在で、神事に祈り、歌を詠み、また請われれば民や天皇の気持ちに成り代わって歌を詠みます。そしてそれを自らの天職とし、他の妃と寵を争い一喜一憂するような立場を拒みます。身体は与えても心は与えない。中大兄皇子にも子をもうけた大海人皇子にも、です。

ただ、この物語では額田の気持ちに中大兄皇子に対する静かに深まる愛情と尊敬が描かれていて、だから最終的なクライマックスであるあの有名な歌のやりとりについても 少し捻った解釈がなされています。

誰に伝わらなくてもいい、あの歌で自分は逆に中大兄への深い気持ちを伝えたと、大海人皇子の返歌でさえ「額田は兄のもの」と認める大海人皇子の気持ちがあらわされているのだと額田は思います。蒲生野で、大海人皇子が額田と二人でいるところを、中大兄皇子が遠巻きに見ていたのを知っていて 「誤解されたくない」と額田は思ったとしています。

宴の席でそれらの歌はただおおらかな座興の恋歌として場を明るくしたとします。が、それでも翻って額田は不安になるのです。そんな受け止め方はされないのかもしれない、と。

額田の気持ちは描かれますが 他の登場人物の心のうちは額田の想像の範疇となります。大兄、大海人の両皇子はもとより 手放して「母」としては傍にいることのなかった十市の気持ちについてもそうです。母としての額田の気持ちの揺れについては、控えめですが女性の目から見ても解る、共感できるものがあります。

史実と歌の僅かな資料から こんな壮大で人間の気持ちのこもった作品が生まれるということに感動を覚えます。この作家さんに他にも歴史大作があるというのも驚きです。

歴史の中に身を置いて古代ロマンにどっぷり浸り いい時間を過ごさせてもらいました。





# by nazunakotonoha | 2018-11-05 16:32 | 井上靖 | Comments(0)

ハムレット

ハムレットは思ったより悩んでいない。


ハムレット
  • シェイクスピア
  • 新潮社
  • 420円
Amazonで購入
書評


手元にあるのは岩波文庫なのですが、大変古い版のため登録されている岩波文庫とも翻訳が違います。
迷ったのですが、このシリーズの表紙、浅野勝美さんの石版画が美しすぎて 今度新しいのを買うならぜひこれを手に取りたいという思いも込め、こちらに書評を投稿します。

訳が違うので文章や言葉遣い等については述べないことにします。(書評中の登場人物の名前の記載については読んだ本に従っています。)登場人物がもっと別の言葉を用いたらどんな世界が開けるのか 想像しながら読むのもまた楽しいものです。

そもそも戯曲なので、もしこのまま一語一句変えず演じたとしても、役者の表現の仕方ひとつ、間の取り方ひとつ、演じる役者のキャラクターで全然違ったものになることでしょうし、演出の差異でも大きく印象は変わると思います。あらすじや台詞の意味あいだけ残して、大胆に新しい物語として創ることもあると思います。
実際 たくさんの映画や舞台でそれぞれ「別の」ハムレットが生まれているようですし、これからも「ハムレット」はどんどん進化して枝分かれしていくことと思います。そういう魅力をいつまでも持つシェイクスピアの作品の引力は すごい!と思うのです。


で、ハムレットなのですが、「悩める王子」「繊細な青年」のイメージを勝手に持っていたのですが 思ったより悩んでいない。復讐を遂げるまでに逡巡が長いという人もいるけれど、これくらいは持たせないと物語が成立しません。先王の亡霊の言うことをすぐに信じるかどうかも、まず本当に王の亡霊なのか、その言葉は本当なのか、本当は悪魔が彼を翻弄しているのかもしれない。真偽を見極めようとするのは復讐で血を見るのを恐れているからばかりではないでしょう。

狂ったふりをしながら、結構 辛辣な皮肉や正論を好きなだけ言うのは 王の傍に控える「道化」の役目とも近いものがあります。ただ「おかしなこと」「出鱈目なこと」を言っているだけでなくそこに物事の本質を含ませているのです。作家だってただ延々と 意味のない狂人の台詞を書くはずもなく、そんなものに頁を費やすことはないはずです。言葉の中に作者の人生観や世界観が十分にあらわされているのだと感じます。
それと同じに 侍従長のポローニアスが息子のレアティーズの旅立ちに贈る言葉もまた深い教訓を含んでいて 今でも十分に通用するいい言葉だと思うのです。

そんなポローニアスの言葉に感心したからというのではないのですが 「ねずみかな」というハムレットの一突きで死んでしまう彼の運命はあまりにも可哀そうに感じます。カーテンの後ろで様子を窺っていたのが誰か知っていて、その相手を殺そうという意図がハムレットになかったのならば もう少し悔いたり悩んだりしてほしいものです。だって愛しいオフェリアのお父さんなんですよ。憎き現王の味方で鬱陶しい爺さんという扱いではありいましたが。

そのうえ 狂ったふりとはいえ、オフェリアに対してのあの言いよう。「尼寺へ行け」が「俗世間に汚れず清く生きろ」という意味ならまだしも、他の解釈(「尼寺=売春宿」の方ならとんでもないことです。どちらにせよ、あれだけ愛を語り 言い寄ったはずなのに彼女に何のフォローもありません。心を病んで花の名前を沢山語り、はかなく溺死してしまう彼女には何の罪もなかったはずです。

ハムレットは自分が仕組んだお芝居への王の反応で、「自分は毒殺された」という亡霊の言葉を真実と確信し、復讐を心に誓うわけではありますが、ハムレットにとって 父王の死に加え、叔父に当たる現王に母を取られたのがまず一番の傷であり、王位にすぐに就けなかったことも少なからず不満だったようです。父の死からまだ日が浅いのに、とか義理の姉弟なのにというのは、その傷や不満を彼自身にとって更に正当にする理由となっています。

冒頭、叔父である王が、ハムレットの鬱々と喪に服する姿や自分に馴染まないことについて 諭したりなだめたりする様子は兄を毒殺したということが事実であるならば酷い欺瞞だし、その上「狂った」ハムレットが今後どんな恐ろしいことをしでかすか解らないので、と国外へ送って騙して殺そうとか、その予定が狂うとまたレアティーズの恨みや悲しみを利用して毒を塗った剣や毒の入った杯で亡き者にしようとか 保身のために手段を選びません。

ハムレットもハムレットで、そんな悪玉である王と相対するのはともかくとして、先にオフィリアの父を刺しただけに留まらず、まだ人を殺めます。国外へ同行した二人の学友も王の命で見張り役であったことや彼を殺すべくしたためた「親書」を持っていたことを理由に ハムレットは「親書」を書き替えて 二人を殺されるように仕向けています。そして剣の試合をしたレアティーズも、結果、命を落とすことになります。

「悲劇」というのは「救いのない物語」ということなのでしょうか。非のない人も含めて大勢が(物語の主要人物のほとんどが)死んでしまう、という話のことなのでしょうか。思い違いやすれ違いの不運、利害の不一致や奸計、怒りや恨み、人間の悪意が結果としてもたらすものばかりではなく 自分たちの意志ではどうしようもない運命というものが物語に描かれます。「ハムレット」は「悲劇」ではありますが、そういった運命に翻弄される人間の姿は「悲劇」にも「喜劇」にも描き得るということをこの偉大な作家はよく知っているのだと思うのです。


# by nazunakotonoha | 2018-09-28 18:51 | 海外の作家 | Comments(0)

美女と野獣

アニメ、ミュージカル、ミュージカル映画、何かと話題の「美女と野獣」の原点は……。



美女と野獣
  • ボーモン夫人
  • 角川書店
  • 540円
Amazonで購入
書評



ボーモン夫人というのがこの作品の作者の名前ですが、他にももう一つ以前に書かれたヴィルヌーブという人の版というのもあるようです。大筋は同じなのですが、先のヴィルヌーブ版の方が長く詳細な設定があるとのこと。

ボーモン夫人は良き婦女子の教育のために物語を綴ってきた人で、こどものためにより簡潔に解りやすく物語をまとめています。書かれた時代はフランス革命以前、フランス人のボーモン夫人はすでに「無能で放蕩放題」のボーモンと別れ、再婚の後イギリスに渡った後のことです。(「無能で放蕩放題」っていうのは夫人がどこかでそう言ったのでしょうか。でも作家名は「ボーモン夫人」……、この辺りが気になるところです)


この短編童話集全部、最初から最後まで一貫して伝えたいことは同じ。
「つつましく、驕ることなく、人には思いやりを持って」「見た目がいくら良くても中身を磨かねば本当の愛や幸せはつかめない」「持って生まれたものが良くても 周囲の育て方でわがままや癇癪持ち、思いやりのない人間になる」「真に誠実な友を持て」などなど。こんな教訓を含んだお話がしっかり詰まって15話。(ちょっと食傷気味でもありますが。)


「美女と野獣」に関しては実にシンプルなお話なのですが 最近の映画にはなかったベルの兄弟姉妹の存在がありました。お姉さんが二人いて、お父さんのお土産は何が良いかという問いかけに高価なものを望みますが、、ベルは「薔薇を一輪」というのです。お姉さんたちは見栄を張り贅沢を好み、嫉妬し、意地悪をする人間の象徴としてベルと対比されます。もちろん最後には その報いとして罰も受けることになっています。3人のお兄さんというのは物語に実際には登場しません。居てもいなくてもいいなんて何か可哀そうな存在ではあります。(居なくても物語は成立します。)

他のお話14話についても軽く触れておきます。
婦女子向け教訓話とはいえ、王様 王子様といった男性が主人公の物語もたくさんあります。仙女も多く登場し、生まれる前や生まれてすぐの赤ん坊に贈り物という形で魔法を掛けます。中には その子に悪いことばかり起きるとか醜い容姿で生まれるといった、一見酷い贈り物もあるのですが、それは必ずしも悪い結果を引き起こすためでもありません。不遇な彼らは耐えること、乗り越えることを知り 多くを望まず自分の置かれた状況を理解し、受け容れます。決して高慢にならず、身分、立場、外見にとらわれず公平で親切な人に育つのです。それに対して「何でも望みが叶う」ように魔法をかけて貰った子供、美しく生まれた子供はわがままに育ち、結果的には幸せになれません。時には良い資質を持ちながらも乳母や召使、家庭教師などが権力者に気に入られるため、または教育について不熱心なため、いい加減な育て方をされ、ダメな大人に育っていくのです。

本を読み、賢い人たちと機知にとんだ会話を楽しめるようになり、思いやりを持って 見かけにばかりとらわれず相手の内面を見る。相手に内面で判断してもらえるように自分を磨きなさいとボーモン夫人は語り掛けるのです。


たまに醜い上に意地悪な仙女が登場します。間違った考えのまま死んでしまう人も 罰を受けて許されないままの人もいます。仙女の単なる気まぐれで酷い運命をたどる人だっていたように思います。 あれれ、これはボーモンさん的にOKなのかな、と思ってしまいます。(大抵は「自分の欠点を知り 真摯に直そうと努力し続ければ欠点は克服できて良い人間になれ、良い結果が訪れるとされています)まあ、たまにそういう存在でもなければ結果の解る教訓話ばかりで退屈なのですがね。

「美女と野獣」を映画にして、耽美な物語に昇華させたのはコクトーだといいます。劇団四季と最近の映画は観たことがあるのでそれぞれの改変具合を比較しつつ、観るのも面白いと思います。(「つるのおんがえし」「鶴女房」「夕鶴」の違いのような感じかと勝手に理解しています)

この角川文庫ではオリジナルの石版画の挿絵が使われています。カバー装画は「東逸子」さんとなっています。絵本なども多く手掛けておられる画家さんで、検索したら目にしたことのある絵本もありました。とても美しい表紙です。必見。

# by nazunakotonoha | 2018-09-28 18:49 | 海外の作家 | Comments(0)

薄墨の桜

生命尽きようとしている桜の大樹。それを救おうとする着物デザイナーと老木の根元の水田の持ち主の老女の対立。そして老女の言いなりに生きる楚々とした養女の芳乃。現実世界と交錯する華麗な「ものがたり」の世界。


薄墨の桜
  • 宇野千代
  • 集英社
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書評

岐阜県の根尾谷にある樹齢1500年と言われる「薄墨桜」。
実はうちの父がこの「薄墨桜」の写真を撮って引き延ばしてフレームに入れたものを この本と共に貸してくれたのがこの読書のきっかけだ。パネルを部屋に飾りながらの読書はなかなか味わい深いものだった。(父と母が夫婦で行った思い出の写真だということも含め)

写真の中のその桜は、周りを取り囲む沢山の支えの木に守られながら 大きく枝を広げ薄いピンクの花を見事に咲かせている。それは支えてやらないと倒れてしまう か弱い老木ではない。沢山の支えの木に寄り添われ、歴史の重みを知り、長い年月の中で自身の命運も天に任せて立つ毅然とした巨木だ。この樹の前ではたかだか長くても100年程度の人間の命などとてもちっぽけに思えてしまう。

この物語の作者 宇野千代は物語の語り手と同じ着物のデザイナーでもあり、実際に枯死の危機に瀕していたこの巨木を救おうと力を尽くしたそうだ。また さらりと本名で登場する知事や作家仲間もいて、どこまでがフィクションなのか、と不思議な気持ちにもさせられる。
この樹を見て来た父は 先に作品を読んでから行ったそうで、老女の豪邸の壁も、水田のあった形跡もなく、観光客の多さにもかなりイメージを覆されたとのこと。


物語は桜の根元の水田の持ち主で、戦後を逞しく成り上がった老女「マダム」の姿と、その周囲のできごとを着物作家の「吉野一枝先生」の視点で描き出す。この老マダムはなかなかの饒舌なモンスターだが、対比して養女の芳乃は作中ほとんど台詞はなく、先生の心に直接語り掛けるように描かれる。もちろんそれは先生の想像の中にすぎないが、その楚々としたたたずまいや小さな表情の変化、しぐさから彼女の想いを汲む形となる。養母に逆らえず意のままに動かされている薄幸の芳乃の恋を先生が応援したくなるのは、薄墨桜の保護をあからさまに邪魔する「マダム」への反発も関係ないとはいえない。誰に悪役と思われることも全く厭わない「マダム」のヒールっぷりは却って潔く、読者にとっては憎み切れない登場人物となっている。


政略結婚に利用されかかる芳乃が、マダムから逃れて恋人と逃げる企てをし、そんな恋人たちに肩入れし、手を貸すまでに腹をくくった先生の心理が、巧みに描かれていて、どうなることかと目が離せない。その結果として起こる悲劇の描写は、格調高い伝統的な「ものがたり」として、この作品を締めくくっている。

語り言葉で綴られる文章がとても美しい。



もう一編の「八重山の雪」は日本人女性のとの恋のため脱走したイギリス兵の話。二人を認め、産まれた子を可愛がり、匿うお父さんと親類家族が皆優しい。女性自身の語りとして方言で描かれているのが味わい深い。

# by nazunakotonoha | 2018-08-22 07:58 | 未分類(国内の作家) | Comments(0)

おめでとう

たんたんと生きていく。しばらくは「怒っている」ことに決めたりして。



おめでとう
  • 川上弘美
  • 新潮社
  • 420円
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書評

日本語の表現で豊かだなぁと思うのは、同じ単語、形容詞でも、ひらがな、カタカナ、漢字、どれで書くかを選ぶことができることだと思う。それを自由自在に操れるのがこの作家さんだ。

表記だけではない。擬音やオノマトペ、タコを噛むのが「むつむつと」であるのもそうだし、「逢瀬」や「接吻」「性交を行った」、なんて古風だったり堅苦しかったりする言い方を選ぶこのセンス。「こちんとくる」もよかったなぁ。

いい大人の女性が心中で悶々とする様子。「こう思っていると思われたくない」と思っていると「思われたくない」と「思っていると思われたくない」……今の自分の気持ちを、再会した、もと恋人に深読みされたくないとう気持ちの表現し方の可笑しみ。
多くの主人公が怒る、泣く、叫ぶなどのはげしくストレートな感情がすぐには出なくなったのは、年齢のせいか、元からの性格か。さて、今から自分はこのもやんとした気持ちをどうしようなどと考えたりするのだ。(使われていた「なんとしょう」という表現がとてもいい。)

初めて読んだこの作家さんの「龍宮」は不思議な物語が多かったように思う。同じ雰囲気では幽霊のモモイさんの出てくる「どうにもこうにも」や木のうろに住み着き、徐々に異形の姿に変化する「運命の恋人」がある。夢のようなファンタジーのような不可思議な設定と、その状況の中でもあたりまえのようにごくごく普通の「心配」をし、次第にこの事態に慣れて 納得する主人公。そういえばカフカの「変身」でも変身した主人公がまず心配したのは「仕事に行けない」ことだったので 似た感じではあるかもしれない。

恋愛を扱った数編では「センセイの鞄」と同じに 決して熱くならない静かな心の行き交いが描かれている。「ふたり」は女性同士の元恋人であったり不倫であったり、元の鞘に収まるかもしれない別れたカップルだったりする。ダメな恋を終わらせて友人に聞いてもらっているというものもある。うまくいっている「今」のあるカップルでも 終わった恋の話でも 同じように「終わりの予感」と「相手への消えない想い」が同時に存在し、さらさらと流れる水のように、静かに降る雪のように、暖かな空気のように二人の間に、周りに、在り続けるのだ。

感情の起伏がはっきりしているタイプの読者さんには解りづらいかも知れないが、キャッチコピーにも出した、「怒ることにしよう」と決めて、「怒る」というのは、私には凄く良く解る。付き合っていた人に、「別れてくれ」と言われたその「くれ」という言葉のチョイスに、酷くこだわってしまうのも解ってしまう。「別れたい」「別れてください」ではなく、「別れてくれ」。命令調で懇願調で親愛的、「複雑怪奇」な意味合いを持つこの言葉使いが嫌だったのだ、と、友人と話す内に結論づけるのも面白かった。

タマヨさん、ショウコさん、ミヤコさん、トキタさんに田島さん、主人公はもう一人の登場人物と話すことによって 自分のなんとなく、の気持ちの落ち着かなさの原因や行先を見つけていく。どの物語でも語り相手というのは自分を見つめなおす鏡のようでもある。

表題作の「おめでとう」は少し変わった短編だ。終末の世界で独りぼっちで生きる女性と、時々会うことができる「あなた」。詩のような形式とひたひたと続く寂しさと静けさ。そこにある「愛」「大事なひとがどこかに(「ずっとそばに」ではなく)居る」ことの大切さ 温かみ。全て理解できたというわけでもないのに、心にずんと刺さり、悲しさと静かな幸福感を残して消えない作品だと思う。

解説は俳人の池田澄子さんという方なのだが、この解説が絶品。解説も併せておすすめの一冊です。

もう一度読み直してみたいと思わせてくださったYasuhiroさん、三太郎さんに感謝です。


# by nazunakotonoha | 2018-08-18 08:51 | 川上弘美 | Comments(0)

ナイン・ストーリーズ

ちゃんと語るにはもう少しサリンジャーを知ってから。



ナイン・ストーリーズ
  • サリンジャー
  • 新潮社
  • 460円
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書評


実は「ライ麦畑」を読んでいない。橋本紡の「九つの、物語」のレビューを書いた。けど、あんまり内容を覚えていない。いきなりのサリンジャー体験の短編集はハードルが高かった、気がした。

クスリと笑えるオチがあるものやブラックユーモア的な短編を想像したら全く違う。さらりと読むと「それだけ?」のような描き方の話であり、でも深く考えると 病んだ人は死と隣り合わせてに居て、普通に生活しているような人たちも奥に深い闇や絶望を抱えている。

奇妙な話を真顔でする大人とそれに普通に応じるこども、想像のボーイフレンドの場所を空けて眠るちょっと変わった女の子と母親とその友人の会話、生と死、存在について語る「天才少年」と大人の会話、作家という男と合唱団に居た少し大人びた女の子との会話 数えてみれば ほとんどの話に 大人と子供の会話が重要な要素となっている。そしてそのどちらかの一人のどこか風変わりな、でも本人にとってはとても「筋の通った」考えが会話によって引き出されtる。会話の相手は大方冷静だが 相手を馬鹿にしたり理解不能だと思ったりもしない。ただその会話によって 病んだ魂が救われるということもないのだ。この突き放した感じは何だろう、と思う。

個人的に気に入ったのは この中の想像のボーイフレンドのいる女の子のネーミングセンスで 一人目は「ジミー・ジメリーノ」二人目は「ミッキー・ミケラーノ」。(あんまり筋に関係なくて、特記することではないのかもしれませんが)私はこの妄想癖のある女の子、とても好きです。

たぶんサリンジャーに深く傾倒している人、かつてどっぷりハマった人がいるだろうし、研究対象にしておられる人も多いと思う。人となりの予備知識もなく、代表作も未読なので、とりあえずぼんやりした感想しか持てなかったのだが、これから少しずつ 知っていきたい作家さんだと思ったのだった。

少女漫画の作家さんたちにも 随分影響を与えているようだしね。




# by nazunakotonoha | 2018-08-18 08:48 | 海外の作家 | Comments(0)

木洩れ日に泳ぐ魚

映画にしたらどうなるだろう、舞台では?と考えながら読んだ。文字でこそ表せる緊迫感と、「目線」を選べる小説ならではの技巧的な選択、物語の魅力が巧くマッチした作品。


木洩れ日に泳ぐ魚
  • 恩田陸
  • 文藝春秋
  • 620円
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書評

「こんなことが在るわけがない」と、趣味の創作サークルのお題バトルで「辛口批評」を頂いたことがある。電車の隣り合った席に座った男女が身の上話をした上、思い出の歌を(小声で)歌ったりした話だ。実は離れ離れの兄妹だったとか、そういう話ではなかったんだけれどもね。その時は「小説なんだし」「そんなこともある…かもしれないじゃない」とひとり心で言い返したものだった。

ありえそうもない偶然を突きつけられて こんなのナシだよな、と思いながらもそこはスルーしてでも先に読み進めたい小説、というのはきっと物凄く文章に力があるんだと思う。惹き付ける力 引き寄せる力。

読みかけで すぐにここの皆さんの書評を読み漁ってしまうクセがあるのだけれど、今回最初に開いたのが たけぞうさんので良かった。ありがとうございます。
「ネタバレに極端に弱い」ので レビューや解説は読まないことを薦めてくださっていたので。ふむ。
で、読了したので書評を書きます。ネタバレしないように書く自信がないのでご注意ください。



舞台は荷物を片付けて後は明日の朝出ていくだけの部屋。登場人物は男女二人。明日には二人は別れることになっている。二人の最後の気まずい宴。

語り手は 一章ごとに入れ替わる。彼と彼女 ヒロとアキ。それぞれの心理描写、それぞれしか知りえないことが 読者に少しずつ解るという手法は特に珍しいものではないけれど、こういう謎を次々引きずって先に読み進めさせる物語には合っていると思う。

さっきの章で彼が思っていることから 読者がこうだと思ったら、次の彼女の章では逆の話になっている。何故?がどんどん数珠繋ぎ。読者、読むのをやめることができません状態。

相手が殺人の犯人かと思っていたけれど そうではなさそうだ、とお互いが疑いを晴らすのは割と簡単で、事故だとしたらそれでおしまいかと思うと そうでもない。二人の関係がただの 関係の終わった恋人かと思って読み始めたら もっと複雑で そうだと思っていたら少しずつ それだけでもなさそうだと感じてくる。そもそも読者にとってはまず 同じ場面に居合わせているはずの二人なのに、相手が殺人犯っじゃないかとそれぞれが思う、という状況がどうやったら生まれてくるのかが気になって読み進めさせられるわけだ。

映画にしたら構成を変えて 普通のミステリーにしてしまったり、「何年前」とか文字が出て過去の状況を映像で出してしまったりするのだろうか。それだとこの物語の一番の面白さが抜け落ちてしまわないだろうか。だからといって会話と独白だけで映画を成り立たせるのも難しそうだし。舞台装置の転換無しの二人芝居とかではどうだろうなど、想像するのは楽しい。(個人的趣味)


障害があるからこそ想いが深く、悩みが生まれる。嫉妬が芽生える。障害が無いと知ったら…という女性の心理描写がなかなか鋭い。




# by nazunakotonoha | 2018-08-04 13:18 | 恩田 陸 | Comments(0)

きみはいい子

闇を抱える人は多いのだろうな、と心は重くなる。けれども 人と人がちゃんと個々に知り合えば また違った温かな関係も生まれることも信じさせてくれる。希望が残る短編には涙。

([な]9-1)きみはいい子
  • 中脇初枝
  • ポプラ社
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書評
同じ町に住む人たちの5編の短編集。

私は先生になりたいという子に会うと ただただ偉いな、頼もしいな、と思う。

ニュースでは日々、「いじめ」にかかわる痛ましい事件が後を絶たず、問題を抱えた子 問題を抱えた親、家族、先生自身、モンスターとなって相手ばかりを責める人たち、他人の痛みに無感動になってしまった子供たち……そんな世界をリアルに見る仕事に 自分が身を置く自信が全くないからだ。

だから「先生になりたい」と言うこの子はきっと いい学生生活やいい先生に出会ったことがあるんだろうな、もし学校で悲しい経験をしたことがあって、それでも「先生になりたい」というならば、きっとその子なりの同じ思いをしている子供を助けたいとか、間違った現状に声を上げたいという覚悟や強い意志があったり、温かな希望を持てる何かを経験したのだろう、と思うのだ。

どの短編にも家庭に問題を抱えた子供や、かつて悲しい子供時代を送ってきた大人が出てくる。先生の活躍で仲直りしたり反省したりするという結末は特にない。虐待をした母親は歳をとってすべてを忘れて少女時代の幸せな「こども」に戻ってしまうし、暴力から救い出さないといけない子供はまだ、ドアの向こうにいる。学級を崩壊させ、仲間外れをした「強い立場」のこどもたちはそのままだけど、新米の先生の経験が積み重なり、先生自身のものの見方が少し変化して、こどもたちを個々に大事に思えるようになれば、きっと何か変化があると そう 信じていくしかないのだ。みんな誰かの「大事なこども」なのだから。

希望のある物語、良かったね、で泣ける話が好きな私だが そういった問題を無理やりに「良い話」で終わらせられてもなぁ、という気持ちもある。「サンタさんの来ない家」の神田さんは自分を「いい子」だと言ってくれる先生がいたことで少しは自分を肯定できるようになったかもしれない。だがこどもを大切にして愛を伝えることのできない彼の親は変われるだろうか。

「べっぴんさん」の公園のママたちはにこにこしているのに、あやねちゃんママは隠れて虐待をやめられない。ほかのママの微笑みだって信じることができない。彼女も過去を抱えているのだ。
「辛かったね」と抱きしめてくれる人を得て 彼女も変わることができるのだろうか。


「うそつき」と「こんにちは、さようなら」には 発育が遅かったり、「障碍」を理由に皆と一緒にできない子供たちが出てくる。親の知らないところで 彼らは誰かと接し誰かに認められ、訪問を喜んでもらえる。それを知ったひろや君のお母さんの涙で 私の涙腺は崩壊した。話をする相手も家族もいなくなり、老いを感じ、うっかり万引きしてしまった「あきこさん」にとってひろや君の「障碍」なんて何の問題もない。何てうれしい毎日のあいさつと 訪問だったことだろう。それが「万引き未遂のおばあさん」と「万引きに目を光らせる店員さん」を、個々のひととして繋いでくれたのだ。私には そのシーンが本当に嬉しかったのだ。なんだかね、もう「老い」が自分に近いからかもしれない。まだまだ、ひとりぼっちではないけれど。

最終話「うばすて」は「老い」を自分のことに引き寄せたまま読むと相当辛い。相手を傷つけ続けたのに本人は何にも覚えていないって、罪だなぁと思う。置き去りにすることを想像しながら手を繋ぎ、自分を傷つけるような言葉を相手の思い出の中に一つでも与えたかった「かよちゃん」の気持ちも痛いほど伝わる。子供の時 ただ微笑み返して欲しかった、手を繋いで欲しかった それだけだったのに。傷つける人もそれなりの理由がある。その人にも深い傷があるのだ、と全編で言い、でも傷つけられた人の思いも絶対に消えないのだ、と訴える。傷を癒すのが当人たちの和解や反省ではなく、また別の傷を持った人だというのが悲しいけれど、温かくもある。

1編目、若い先生の視点で描かれた学級崩壊した1年生と翌年の担任の4年生のクラスを描くのに、問題の掘り下げ方がやや浅いかなと(生意気にも)思ったけれど、そんなに何でも感動的に解決するわけじゃない これからも問題はずっと続くのだ、というメッセージでもあるのかもしれない。周囲の理解と見守りと 手を差し伸べる人が増えることで 悲しい想いをする子供が救われますように、と祈る気持ちになった。大人だって、先生だって一人の悩みを持ったにんげんなんだよ、解ってね、っていう物語を子供たちに読んで 考えてほしいと思うけれど、「相手の立場に立った思いやり」を先に覚えなければいけないのは やっぱり大人の方なんだろうな。

# by nazunakotonoha | 2018-07-31 21:50 | 未分類(国内の作家) | Comments(0)

トム・ソーヤーの冒険

なんとなく「ハックルベリー・フィンの冒険」の方が好きだったことだけ覚えていた。


トム・ソーヤーの冒険
  • マークトウェイン
  • 新潮社
  • 637円
Amazonで購入
書評

いつ読んだのか解らない程以前の本を再読。

物語冒頭でのトムの悪ガキぶりといえば つまみ食いや、ちょっとしたイタズラ。サザエさんちのカツオくんかと思うような(いやいやトムの方が先ですね)巧みに人の心理を利用してずる賢くさえある「罰のペンキ塗り」のサボりっぷりや学校での栄誉の賞の頂き方。

そんな描写に絡めて その当時の男の子たちのポケットに入れた「宝物」が何だったかが解り 面白いです。今でも男の子は蛇や虫の抜け殻とか落とし物の何かの部品とか大事にするのかな。のら猫の死骸なんかを平気で遊び(本人たちは真剣なことかもしれませんが)に使うとか、不衛生なものを大事に持ち歩いたりはできないと思うけれど。気味悪いのや変な趣味のストラップとかキーホルダーは集めたがるかもしれませんね。


お行儀良く、マナーを守り道徳的で信心深い そんな、地域の奥さん達が皆同様に子供に施す「ちゃんとした躾」をしてくれるポリー叔母さんへのちょっとした抵抗。でも、叔母さんの愛情の深さは本物だし、トムもそれは受け取っている。だからこそ、安心してのびのびと悪ガキでいられるのだと思います。

少年たちの「ごっこ遊び」、「海賊ごっこ」のプチ家出、幼い恋心。好きな女の子の気を引くために周りでうろちょろ目立とうとしたり やきもち焼いたり、わざと無視したり そんな田舎町の牧歌的な物語が進みます。(海賊ごっこの顛末は結構大事になり みんなに迷惑を掛けましたが)

内容が本格的にスリリングになるのはその後で、ハックと二人で殺人現場を目撃してしまうところからです。罪に問われ死刑にもなろうかという人が実は冤罪だということを 証言できるのはトムとハックだけ。でもその罪を擦り付けて逃げているのが凶悪な男。二人は恐怖と真実を黙っていることの罪悪感の板挟みになります。

そして真相を暴露してトムが一躍ヒーローになり、事件は解決するものの、やはり逃亡中の真犯人に恨まれていることは間違いない。ドキドキは続きます。
ただ、そんな事態が続いているのに、そこはトム。危険な遊びや「冒険」をやめることはありません。

今度はハックを誘って「宝探し」を始めます。こういうときのトムの「知識」はロビンフッドや海賊などの物語。宝物は山賊や泥棒がこんなところに隠すものだ、こういう場合出てくる相手側の女性は美人で、捉えた側の自分達を好きになるんだとか 戦うときはこんな風にやり合うものだとか、「そういうものなんだ』というトムと「そんなものなのか」と納得して従うハックのやり取りが微笑ましいです。

「お宝」は思いがけず本当にあることが解りますが、相手がとても危険です。それでも二人はまだ懲りることなく、これを奪うべくあれこれ画策します。そんな中、更にトムにもハックにもそれぞれに別の危険な状況が訪れ それぞれに勇気と知恵をもって苦境から脱出します。

お宝も手にしたし、狙われる恐怖もなくなったし、トムは好きな女の子を守れて 相手の親からも称賛と信頼を勝ち得たし、ハックも暖かいベッドと毎日の食事を貰える家のこどもになれました。
ただ これで すべてめでたしめでたしにならないのがトムとハックの物語の良いところで、「安定」や「(行儀のよい)世間に受け容れられること」は、彼らの好む「自由」や「冒険」の世界とは真逆なんだなと ニヤリとさせられたのでした。

これを読んでいると「ロビンフッドにトムソーヤ みんなぼくらのなかまだぞ」という日本語の歌詞のついた「ともだち讃歌」を思い出します。小学校の時「学習発表会」でクラスで歌いました。勉強ができる子や優等生以外の「声の大きい子、度胸のある子 元気な子」に 合いの手の掛け声を分担させるイキなはからいをしたのは 地味で真面目な新卒の先生でした。

YouTubeの動画で歌うこどもたちは かなり「優等生」っぽさが漂っております。
なかなか今の日本のこどもではこんなに伸び伸びとした冒険をしたり 愛される「悪ガキ」でいることは難しいだろうと思います。

# by nazunakotonoha | 2018-06-22 21:54 | 海外の作家 | Comments(0)

チュベローズで待ってる AGE22、AGE32

AGE22、AGE32 2冊からなる加藤シゲアキ 意欲作。


チュベローズで待ってる AGE22
  • 加藤シゲアキ
  • 扶桑社
Amazonで購入
書評

作者がジャニーズのNEWSというグループのアイドルだということは 先に触れた方がいいのかどうか こういう時はいつも迷う。
「本が好き!」ではこれはまだ書評がないし、一般ブログにはNEWSファンだという人のレビューが目につく。

私はスリルやサスペンス、殺人や企業での陰謀とか社会派的なものなど、そういう内容の小説はあまり読んでいないので これに近いジャンルを読み込んでいる読者が 構成や文章にどんな意見をもたれるのかは解らない。NEWSファンの家族が購入した本なので珍しいジャンルだけど読んでみた、というスタンスだ。(「ピンクとグレー」は自分で購入して読んだのだけど)
だから、なのかもしれないけれど、とても面白く先を楽しみに読み進めることができた。

AGE22 では就職に失敗してホストで家計を支えようとする「光太」(源氏名は「光也」)の、のし上がる様が描かれる。ちょうど今 TVドラマでホストが主人公のものを観ているので、情景や人間模様が想像しやすくて助かった。世話になったNo1ホスト雫と、友達になれた新人ホストの亜夢の絡んだある「事件」、その後の顛末、就職の面接で自分を落とした面接官が客として訪れ、金づるとして利用しているつもりの彼女と少しずつ心を通わせていく様子、彼女の「指導」で再度の就活に成功するまで、そして驚きの彼女の自殺までが描かれる。

AGE32では 計画通りにゲームの製作会社に入社後頭角を現し、会社で一目置かれる存在になった光太が、不穏な連続失踪事件が報道される中 妹の行方を探す日々と 人気ゲームのいきなりの健康被害報道がおそらくは誰かの陰謀であるとして相手を突きとめ追いつめる流れ、そしてそれが解決して結末かと思ったら、AGE22で自殺した美津子の死の真相を追い、左遷の真相や元恋人との隠された真実まで 怒涛の展開が繰り広げられる。

実のところAGE32を読み始めたところで AGE22の一冊は本当に一冊必要だったのかな、という感じがぬぐえなかった。もちろんホストの物語としての一冊は面白かったけれど、AGE32の物語の中で、過去の話を入れ込むとか 回想の形で簡潔に終わらせることもできたのではないかとも思ったのだ。
ラストに向かって短いページでの急展開 予測もできなかった人物の登場とネタばらしをもう少し 推理可能な 予測のつく形で少しずつ見せてくれた方が 読者には優しかったのではないかとも思うのだ。(後で考えれば 伏線になる記述はあったにはあったんだけど)

芸能人の書いた本だし、と侮られたくない、軽妙な読みやすさやライトノベル的な文章表現を使わないという作者の意気込みが 1冊目の冒頭から感じられ、骨太な作品を綴っていこうとする作者の気持ちが伝わった作品でもありました。

なかなかアダルトで色っぽいシーンも挿し挟まれるあたり 昨今アイドルのイメージの縛りも緩くなって 様々な個性が求められ、許容されるようになってきたのだなぁと思ったのでした。


# by nazunakotonoha | 2018-06-22 13:03 | 未分類(国内の作家) | Comments(0)

戦争で死ねなかったお父さんのために (1979年)

どんな出来事も劇的な展開が必要とされるのだ。




戦争で死ねなかったお父さんのために (1979年)
  • つかこうへい
  • 新潮社
Amazonで購入
書評

「郵便屋さんちょっと」「初級革命講座 飛龍伝」「熱海殺人事件」「出発」「戦争で死ねなかったお父さんのために」の6作が収録された つかこうへいの戯曲集。

どれも 3人から6人程度の少ない登場人物で、それぞれ同じ場所で繰り広げられる会話劇だ。

「飛龍伝」に関しては旬の女優さんを主演に再演を重ねているようだ、というのは最近のTVで見かけた話題だが、どうも雰囲気が違う。この「初級革命講座 飛龍伝」とは登場人物も扱う角度も別の物語になっていることに納得した。どの作品もどんどん内容を変化させて再演を繰り返しているようだ。
演劇は「生もの」(イキモノでもありナマモノでもある)だなぁと思う。

会話は連想ゲームのようにつながり、ひねくれ、行きつ戻りつし 急に想像の世界へぶっ飛んでいき、時にサディスティックないたぶり合いに、時に演歌調、昭和歌謡風に 目まぐるしく変化しながら進行していく。そして だんだんと人間関係や背景や事件の本質が見えてくるのだ。

「郵便屋さんちょっと」では郵便局でストライキをする局長と局員たちが、「初級革命講座 飛龍伝」では学園紛争で勇敢に戦った過去を持ち 今は挫折したといいつつ息子の嫁と平穏な生活をしている男と 元機動隊員が、「熱海殺人事件」では刑事や巡査部長たちが実は犯人ではないかもしれない男を囲み、「出発」では「家出したお父さん」とその家族が、「戦争で死ねなかったお父さんのために」では戦時中に手違いで赤紙が届かず 今頃届けられた男を警察署長と郵便局長たちが、それぞれ事態を更に「劇的」にするべく演出を施していく。

殺人事件も父の一時の不在も挫折した人生もこの世界では皆「理想の展開」を無理やりにでも創り出そうとやっきになる。事実なんてこの際どうでもいい。マスコミに報道された時 視聴者が納得する筋書きや盛り上がりが求められるように 普通の生活で、誰からの見栄えや感想を気にするはずもないことでも 彼らは皆 自分たちの求める「筋書き」へと演出を 時に団結し、時にそれぞれ自分勝手に施していくのだ。

一見 荒唐無稽で 無茶ぶり満載で お芝居なればこそ、と思いがちだが、実際に引き寄せて考えると 多かれ少なかれこういう「演出」ってあちこちに存在しているのではないだろうか。大衆に求められる「犯人像」とか 自分に都合のいい相手との関係性とか より見栄えのするよう捻じ曲げられる現実とか。

舞台で役者が演じる演劇という空間で 一般の人々(の役の役者)が「日常」の中で「演出」をし「演技」を する。本人たちが大真面目で大げさであればあるほど 見る者にとっては滑稽で馬鹿々々しい。コミカルな会話に引き込まれながら 人間の中に潜む傲慢さやエゴイズムを感じ取る。

デモだ、ストだ、学園紛争だ、なんて題材は今はもうずっと昔の物語で 大学生がヘルメットを被って政治を叫んだり 警棒で殴られ火炎瓶が飛ぶなんて 若い人たちに受けるだろうかと思ったのだが 内容を変化させながらも再演を続ける「飛龍伝」のことを思うと 今の自分に身近なテーマではなくても心を引きつけて止まない「物語」というものの「力」をしみじみと感じるのだ。

# by nazunakotonoha | 2018-06-22 08:07 | つか こうへい | Comments(0)

ジーキル博士とハイド氏

「善と悪」人間の二面性に 踏み込みすぎた博士の話

ジーキル博士とハイド氏
  • ロバート・ルイススティーヴンスン
  • 光文社
  • 560円
Amazonで購入
書評


何の予備知識もなく全く白紙の状態で読み始めたなら 推理小説的な謎解きの興味で読んだかもしれません。まず 素直に筋を追ってみることにします。

善良で人徳のあるジーキル博士の、友人で弁護士のアタスンはいとこのエンフィールドから恐ろしい人物の話を聞かされます。たまたまぶつかった少女を踏みつける悪鬼のような男の話です。どんなにその人物が嫌な印象を与える外見だったかを聞き、アタスン自身も彼を目撃し、印象を同じくします。

それが「ハイド」と呼ばれる男で、その男に、博士が自分の財産を譲る遺言状を書いて自分に託していることに アタスンは納得がいきません。どういう関係なのか、あんな身の毛のよだつ形相の男に友人は「恩義」を感じてでもいるのか。脅されているに違いない。そう思う訳です。

ハイドの悪行はとどまるところを知らず、ついに何の罪もない紳士を死に至らしめるのです。そして、ハイドは姿を消して現れない。悪人はどこに行ってしまったのでしょう。

愛すべき人物ジーキル博士が今度は屋敷に閉じこもって出て来なくなります。友人として当然心配します。屋敷の使用人たちも心配しているようです。

博士と研究上の行き違いか見解の相違かが原因で付き合いを断っている医師ラニョンのところに 奇妙な依頼があります。ジーキル博士からの手紙です。そして その依頼を遂行した医師はひどくショックを受け、すっかり弱ってその後 亡くなってしまうのです。


博士は引きこもったまま出て来ませんが、部屋にいるのが博士ではなくハイドではないか、忠実な召使とアタスンは協力して部屋に乗り込み、そこで見たのは…。

その後が タネ明かし。ラニョンからの手紙と 博士の遺書で すべてが解ります。


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極端に善い人と悪い人が出てくる話だったような気もしましたが それではあまりにもお伽噺的だし、そういえば善と悪の二面性、二重人格的な行動から 事件が起き、何らかの悲劇的な終末を迎える話だったかな、くらいには思っていました。

真っ白な状態ではなくても、事情の分からない博士の友人が語り手のため、非人間的で残忍なハイド氏の存在を知ったところから 謎を解き明かすまで、彼と共にジーキル博士の安否を心配し事件の真相を想像しながら 読み進めることができました。

以下 ネタバレを含まないと書けませんので 読んでからにされる方はここまででやめた方がいいかもしれません。


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ハイドと呼ばれるその男は大変嫌な印象を与える外見を持っています。その残忍な行動を知らずとも、顔を見ただけで不快なものを誰もが感じる、という具合です。全身からにじみ出ているような、それが何なのか。
古い本なので、今なら「差別的」だと言われるんじゃないのかな、という表現が気になりました。新訳や他の本ではどのように表現されているのでしょうか。

ジーキル博士が「善」の塊で ハイド氏が「悪」の権化だ、という訳ではないところがこの物語の大事な点だと思います。ジーキル博士は 善悪併せ持つ「普通の人間」なんですよね。でも、善きひと、尊敬されるひとであろうとしすぎると 人は苦しいもの。「本当の自分」とのギャップを感じるのでしょう。彼は自分の「悪」を開放することを望むのです。

彼の背徳の研究は密かに成功し 完成したある薬を飲むと何の罪悪感も持たずに悪を行える「ハイド氏」となって街を歩くことができます。少女を踏みつける事件は友人のいとこに目撃され、そのほかにもあえて明かされないものの、様々な悪徳の快楽を得ていたようではあります。その間の解放感、爽快感を博士は覚えているのです。外見が期せずして変わってしまうこと(悪い印象が表情や顔つきに出る、というだけでなく 身長も皮膚の色や体毛の濃さも変わるようです)で、博士にとっては自分でありながら自分ではない。もちろん「ハイド氏」にとっても外見が「博士」に戻ることは 裁きの手から逃れる格好の逃げ場となるのです。

そんな事情など、だれも知りません。博士は自分の財産や屋敷を「ハイド氏」でも使えるように、また「ハイド氏」としても存在できるように家を用意したり、忠実な博士の召使たちに対しても「ハイド氏」が屋敷に自由に出入りできるよう色々言い含めます。

ハイド氏が行きつくところ「殺人」という罪を犯してしまったのは 読者にも想像できたことでしたが、それよりも博士が恐ろしく思ったのは 自分でその「変身」が制御できなくなってきたこと。目覚めたらハイド氏になってしまっていたことで、もういつハイド氏のままになってしまうか解らない。ハイド氏の姿のままになれば 殺人鬼として捕えられてしまう。

古い物語でありながら ただの怪奇小説には留まらず、現代にも通ずる人間の心の問題に踏み込んでいて、とても考えさせられてしまいます。博士の苦悩が、ハイド氏となって殺人などの「罪を犯した」ことになかなか至らない、そんな「人間らしさ」を描いているのが 怖いのです。


# by nazunakotonoha | 2018-05-19 10:23 | 海外の作家 | Comments(0)

濹東綺譚

結局は 結ばなかった女性との思い出が後を引き。

〓東(ぼくとう)綺譚
  • 永井荷風
  • 岩波書店
  • 483円
Amazonで購入
書評

美しい恋の思い出は男子の胸にずっと切なく残るのだ、というのは 古今東西の文学や最近TV放送のあったアニメ映画でもあり。荷風先生の名作と誉れ高いこの作品にこんなキャッチコピーですみません。
「結ばれ」なかった、ではなく、「結ばない」。本人が諦めて断ち切ってしまっているのだ。たいていの場合。でも、その割には気持ちはいつまでも引きずっていて、ついつい美しい思い出にしてしまうのよね。男子は。


「失踪」という作品を描きながら 若い娼婦お雪のところへ通う作家の「わたし=大江匡」。
名の知れた作家らしく、色街通いなどを報道されないよう身をやつし、報道、出版関係者や知り合いに会わないようこの街の人に混じるようにしてお雪のところに足を向ける。(かつてカフェ通いを報道されたことがあるらしい)

出会いは突然の雨。傘に入れてといきなり入ってきた その女性がお雪だ。中年作家の「わたし」とお雪は親しい間柄になる。このシチュエーションはできすぎだと指摘される前に、本当にそうだったんだもん、という大江の、そして作者の言い訳が微笑ましくもある。
 家で創作をするにも隣家のラジオがうるさいというのもあり、ぶらぶらと散歩する大江。そして偶然出会ったお雪と、彼女の住む界隈がいたく気に入って通うのだ。上階で客を取るお雪の邪魔にならないように客の来ない時間を一緒に過ごし、そっとその場を去る。「仕事」とは別に世間話をしたり、留守番をしてやったりと、「なじみの客」とも違う、特別な関係とお雪も認めているようだ。

「わたし」はお雪に本当の素性を話さない。自分は名の売れた作家だと言ってしまうと 彼女との今の関係が崩れると思っている。そして商売を捨てて妻となった女は豹変してしまうのだという。お雪は彼が借金返済に追われた危なげな商売をする男だと思っているようだが、日がたつ内に情が深くなっていき、いずれ一緒になって欲しいという気持ちを示すのだ。

大江は、「作品の取材のため」お雪のところに通う。女には怪しい商売の男のように見せたままでいる。そして 一度だけ着物を買うお金を与えて そろそろ消えようと思っているのだ。十分に未練もあるし、執筆中の小説「失踪」の主人公のように妻子持ちで家出の身というわけでもないのに。

風情のある挿絵と共に、街のざわめきや華やぎ、ちょっとうらぶれた感じ、下駄の音、煩く飛び回る蚊の羽音まで聞こえて来そうな筆致。降り出す雨や蒸し暑さ、季節の移ろいや月の空、この小説が愛され続けているのは こんな細かな描写の美しさ故だろう。そしてなによりお雪さんの人となりが、現代の女性読者にも受け容れられるような 賢明さやさばさばした感じを与えるからだと思う。

物語の最後について「再会」や「その後の彼ら」を書くことで感傷や感動を煽らないというのは潔くて良いと思う。また、そこはそう書きませんよ、ということを敢えて「書いて」いる点も面白いと思う。

古き良き時代、活気があって猥雑で得体のしれない人間がうろうろしても普通に受け容れる界隈。土地勘のある人ならもっとタイムトリップした感じで楽しめたのかもしれない。


# by nazunakotonoha | 2018-04-27 09:29 | 未分類(国内の作家) | Comments(0)

兎の眼

クリスマスにはハートウォーミングな物語を(2017.12月に「本が好き!」のサイトに投稿したものです。


兎の眼
  • 灰谷健次郎
  • 角川書店
  • 600円
Amazonで購入
書評


と、言っても 全然クリスマスとは関係ない物語です。
でもね、どこかにサンタさんみたいなおじさんが、純真な妖精みたいなこどもが、天使みたいな女の人が出てきます。


きっと見る目さえあえば、ゴミ処理場のある街やそこに住まう人たちにはもちろんのこと、嫌われ者の昆虫にも鑑札つけていない犬にも 素晴らしい「宝物」がたくさん隠されているのでしょう。

今のごみ処理施設やクリーンセンターはきっともっと「清潔」な外観で、携わる人の衛生にもずっと気を配られいて、臨時の職員さんとその家族がいたって、衛生的に悪い環境で住まわせていることは無い、と想像します。現状を知っているわけではないのですが。

ただ、今回この物語を読んで ごみ処理の現状はどうだろうとか、どんな職種であれ不当な扱いを受ける従業員さんたちその家族がいる場合、行政などの大人の勝手な事情で子供たちに不利益が生じる場合どういう戦いが起き、どう解決をされていくのだろうかと社会的な問題に興味を持つという方にいくのは ここでは辞めておこうと思います。実際の教育現場にいる教員の方々が読んで、時間的な制限や 障害をもったこどもを引き受けるクラスの在り方についても、現実的な見方で色々こんな風にはいかないよ、という嘆きや苦言も聞こえる気がします。

それくらい美しい ハートウォーミングな物語、ある意味ファンタジーの世界でもあると思うのです。何回 泣いたでしょう。悔しさの涙とそれを超えられたうれしさの涙と 周囲の温かさへの感謝の涙。主人公の若い女先生、小谷先生も泣き虫ですが、私もすっかり泣き虫になって読んでいました。


舞台は 大変旧式で不衛生なごみ処理場のある町。ごみ処理場内に住む子供たちの環境も悪いのですが 町全体にも灰が降り迷惑しています。だから 処理場自体の移転や近代化はおおむね歓迎なのですが、子供たちの家族の住まいまで 埋立地に移転、子供たちは転校を余儀なくされることになります。小学校までは遠いし トラックなどの危険がいっぱいです。

何より 今の学校には子供たちの大好きな先生たちが居る。それは子供たちでも指折り数えて名前を上げられる数人の先生です。(他は自分たち処理場のこどもを馬鹿にしていたり 親身になってくれない先生だっているのです。)
処理場のこどもたちの中の一人「鉄三」は小谷先生の受け持ちです。
カエルを踏みつぶし、友達や先生にもつかみかかり引っ掻く、小谷先生にはひどくショックでダメージを受ける事件だったのですが それでも「どうしてこの子はそういう行動に出たのだろう」という小谷先生の気持ちが 徐々に鉄三を知り、後にその事件の意味を教えてくれるようになります。ただ、学力のない、粗暴な少年と括ってしまわなかったことが とても大事なことだったのだと思います。

ハエ。鉄三の家に訪問を繰り返すことで知ったのは鉄三がハエを飼っていることでした。最初は「ハエは病原菌を媒介するから」と飼うことを辞めさせることしか考えなかった先生が 少しずつ「ハエ」を通して 鉄三の心に近づき、外に向かって閉ざした鉄三の気持ちを開き始めます。
処理場の子供たちは仲が良くて 鉄三が喋らなくても気持ちを汲み取るように声かけできるし、鉄三がハエや犬のキチを大事にする気持ちをよく知っています。もちろん彼らは ずっと字が書けなくてもしゃべらなくても 大事な仲間として鉄三を扱ったとは思います。でも小谷先生の 自分の時間を投げ出しての先生としての取り組みは素晴らしいことだと思うのです。
世界には色々なものごとを極める研究者がいて、嫌われ者のハエだってその研究は絶対に役に立つ。鉄三が世界に役立てたいなんて思ってやっているわけではないけれど、やっぱり役に立ったことで新聞にだって載ります。

虫の図鑑を持っているので ハエのところを見てみたい気もずっとしてはいるのですが、まだ勇気がでません。小谷先生、凄いです。

鉄三とハエの話、キチを野犬狩りから奪い返す話、資金稼ぎのための廃品回収の話、ラストの処理場移転とこどもたちの話のほかに 大事なエピソードは みなこちゃんというクラスメイトの話です。こどもの小学校でも同じようなことを聞いたことがあります。授業に集中できないこども、多動でひらひらとどこかに行ってしまうこども いわゆる周りに「めいわく」をかけるこども(その子によって「障がい」という名前があったり 個性と言われたりまちまちですが)がクラスにいて、その子と触れ合うことによって周りがどう変わっていったか。隣の席の淳一くんの変わりようと、彼のお母さんの変化が特に感動的です。もし、こどもたちに「ゆとり」を求めるならば こんな風に授業の進行を止めても誰かに寄り添ったり付き合ったりしながら いつか楽しさや喜びを共に感じて 笑えるようになる時間を与えてやることだと思うのです。

他にも 不衛生な子供に給食当番をさせるかという職員会議の話、鉄三のおじいさんの「バクじいさん」の苦い過去の話、小谷先生と一般の会社員である夫との心のすれ違っていく様子など、これは大人の読む物語だよな、と思わせます。ずっと小谷先生の目線で書かれている点もありますが。

足立先生が大好きで 飛びついて頭までよじ登っちゃう子供たちがいて、小谷先生がそんなに愛されるこの「教員ヤクザ」な先生にやきもちを焼く気持ちも解るし 商店街で父兄に呼ばれ、ドキドキしていけば、「皆先生の味方だ」と力づけてもらうシーンなど 小谷先生にどっぷり感情移入して涙してしまいました。

今の教育現場ではもっともっと 深刻な問題があったり、逆にもっと素晴らしい感動や小さな喜びや悲しみの積み重ねがあることと思います。淳一を始めとするクラスの皆の優しい変化、そして特記すべきは鉄三が「みなこちゃん当番」だった日の目の覚める思い、子供たちのそれぞれが持っている素晴らしい宝物をプレゼントされた 良いクリスマスとなりました。

メリークリスマス。


# by nazunakotonoha | 2018-04-02 22:46 | 灰谷健次郎 | Comments(0)

いつか記憶からこぼれおちるとしても

こぼれ落ちた記憶のかけらも 時折拾って手に載せてみる。

いつか記憶からこぼれおちるとしても
  • 江國香織
  • 朝日新聞社
  • 500円
Amazonで購入
書評

 高校生の自分はどんなだったかな。女子なら皆 物語に重ねて自分を省みる。もっと普通の子で素直で、友達のことが純粋に「好き」でいただろうか。それとももっと、物事を重く、深く考えていただろうか。

 そこそこ経済的には恵まれた層の通う女子高。その一クラスの何人かの女の子たちの一話ずつ主人公の入れ替わる短編集だ。
だれもがそれぞれに「主人公」っていうのはよく言う言葉だけれど、本当にそうなんだよな、と思う。そして、親や友達に向けるおしゃべりの言葉、態度や表情でさえ、本人にとっての「ほんとう」かどうかなんて 他の人には解らない。本音を言って喧嘩もしない。相手の言葉に傷ついたとしても、それほど気にしなかったことにするか、架空の「毒の飴」を日記の中で相手に与えるだけ。そうやって自分たちの平和な世界を守っているのだ。(「飴玉」の彼女は少しだけ行動に出るが、今まで通りの平和な世界を壊すことはない)

 グループの仲間としてつるんでいても、互いに容姿や性格を褒め合っていても 誘われて断らなくても、それぞれが「自分はそれだけじゃない」と心に秘めたものがある。そしてそれが それぞれの他の誰でもない、「自分」であるプライドだ。

全てが読んでいて気持ちのいいものではない。読者が同性なら、「痛い過去の自分」を突きつけられているようであり、異性なら 女子高生にもっと夢を持たせてほしいと思うかもしれない。
だけど、上手いよね、と思うのだ。誰を「悪い」ともせず、ちょっとした「嫌な感じ」や「辛い時間」を、それこそタイトル通り「いつか記憶からこぼれ落ちる」ものとして さらりと扱うのだ。


 グループに属さない「高野さん」が 油性マジックを借りようと声を掛けるシーンが何回か繰り返される。同じ時間を描いていること、同じ人物がそれぞれの角度から見えることが解るシーンでもある。

その油性マジックに関連して 病んだ友達を支える「コータロー(これは意味を知ると酷いあだ名だと思う)」を怒らすことになるが、逆に他の女子と高野さんが違うところ 「ほんの少し好き」だと思える面に繋がっていく。歪んではいるが純粋な女の子の気持ちをあぶりだしているように思えるのだ。
 
 そして最終話に「美代」というコケティッシュな少女に翻弄される男の話がある。美代=「高野さん」だというのは ネタばれになってしまうが、勝手にイメージしていた彼女の容姿を、すっかり覆されたのだ。(よく読むとどこかに そんな彼女をにおわせる記述があったのかもしれないが)



それにしても、江國香織の作品のタイトルはどれも 魅力的だ。


# by nazunakotonoha | 2018-03-05 10:59 | 江國香織 | Comments(0)

わたしの出会った子どもたち

灰谷健次郎というひとを改めて知る一冊。


わたしの出会った子どもたち
  • 灰谷健次郎
  • 角川書店
  • 480円
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書評

 灰谷健次郎という作家について 随分間違った思い込みをしていたことが解った。
児童文学の名作を次々と産み出し、皆に賞賛と共感を持って遇せられる「教育評論家」とか「児童心理学のエキスパート」とかそんな肩書の「先生」のイメージを勝手に持っていたのだ。
「兎の眼」「太陽の子」の題名とあらすじはうっすらと知っていた。こどもの素直な気持ちを引き出した詩を紹介し、弱い者、傷ついた心に寄り添う そんな「出来上がった」人だと思っていた。

 実家の本棚にあって、自分が買った本だということは知っている。ずっと以前に何故この本を先に手にしたのだろう。最初に読んだ頃の印象が思い出せない。けれど、きっと その思い込みを打ち砕くものがここに書かれていることを 感じっとったから読んでみようと思ったのだと思う。当時だって読みたかったのは「偉い先生」の「ありがたい話」ではなかったはずだから。


 灰谷健次郎はまず、極貧の生い立ちを、またその環境でやむなくやってしまった「罪」を思い起こす。そして家族のこと、仕事求めて毎日並ぶまだ子供の自分に、声を掛けてくれたタッちゃんのこと。お兄さんを自死で失った悲しみ。自分がお兄さんの本当の苦しみを理解していなかったという後悔を隠さず書く。「おかまの」タッちゃんの明るさはどこからきたのだろう。貧しいということの辛さや虐げられた人の苦しさを、当時の自分はまだ本当に解っていなかったことに気づくのは それからずっと後のことだ。
 学校の先生時代も、数々の失敗を繰り返す。子供自身が灰谷先生の言葉に「はらがたった」と詩につづり、また別の時にも 引き受けたある授業で心ない言葉を言ってしまったことを先輩の先生から指摘される。(作家としても 作品や作品の一部分に差別的な感覚や現状を理解していない点を批判されたことも 後で調べて知った)障がい、貧困、周囲の無理解の中で、もがき、苦しみ、それでも明るく優しい子供たちに心を寄せ、こどもの内にある無限の可能性を信じるこの先生でも、まだまだ未熟だと反省する場面が多くつづられるのだ。

 そして 先生を辞めて放浪する中で、苦しい思い出を持ちながら 逞しく生きる沖縄の人々に出合い、今まで気づけなかったことを知る。沖縄で出会った人たちの明るさ、大らかさ やさしさは、決して呑気で平和で満ち足りた過去から来ているわけではないのだ。傷ついた人だからこその優しさを灰谷先生は肌で感じる。そのやさしさが彼の中にしみ込んで 自分の今までの傲慢さを省みさせるのだ。若い頃出会った人たちの本当の苦しみと悲しさを思い、それでも明るかったその人たちのやさしさと強さに気づくのだ。

 「たいようのおなら」という子供の詩集に曲をつけて 矢野顕子が歌っていたのを覚えている。楽しくて自然に微笑みが浮かぶような 子供の発想が素敵な詩は 矢野顕子の曲にマッチしていた。今でもいくつか覚えて歌えるその歌詞も灰谷健次郎が紹介した子供たちの詩なんだと、知った。(本作で紹介されていた作品の内に 覚えのある詩があったので検索した後解ったことだ。)

 こどもの持つ豊かな想像力、発想力、表現力は、「こんな風に書いてもいいんだよ」「こんなことも書いていいんだよ」という大人の誘い出す力で更に引き出されるのだろう。悪いことをしたこと、嫌な感情を持ったこと、やりきれない想いも、辛いことも、すべて受け入れて認めてくれる「先生」がいれば のびのびとした「詩」になる。そんな可能性を伸ばすのもつぶすのも周りの大人なのだということに気づかされる。良い先生に出合ったこどもたちは幸せだと思う。

 どんなに社会的に成功しても、過去の反省を忘れない、新しい気づきによって、誤りを認めれば正直に告白する。灰谷健次郎の作品の魅力はきっと、そんな人間にたいする真摯な態度から来るのだと思う。「兎の眼」「太陽の子」などの灰谷作品をちゃんと読んでみたいと思う。



# by nazunakotonoha | 2018-02-19 21:20 | 灰谷健次郎 | Comments(0)

ことり

静かに生きるひとの物語。小父さんのことはちゃんと小鳥たちが知っていてくれた。それだけで十分だった。きっと。

ことり
  • 小川洋子
  • 朝日新聞出版
  • 626円
Amazonで購入
書評


 小父さんの死から始まって 遡って小父さんの一生をなぞり そして小父さんの死で終わる物語。
読み終えて少しの間何も考えられず、その後じわじわと胸が熱くなった。こんな読後感は初めてかもしれない。
ちょうど輪っかみたいにラストが冒頭に繋がっているために もう一度最初に戻ってみる。だけど、決して小父さんは生き返らない。

「ことりの小父さん」と幼稚園児たちが呼んだ。
自ら申し出て幼稚園の鳥小屋の掃除やエサの世話をずっと完璧にやり続けた人だ。そう言うとまるで子供に囲まれ、親しまれた、子供好きの優しい小父さんのように思えるが ただただ控えめで無口で、どちらかといえば子供が苦手な小父さんだった。

 小父さんにはお兄さんがいた。子供の時に人間の言葉を話すのをやめて、特殊な言語を話すようになった人だ。お兄さんの言葉は小父さんにはちゃんと解る。お母さんは心配し 医者に連れて行き言語学者にも頼る。だけど誰にも解らない。鳥が大好きだったお兄さんの「ポーポー語」。

 お母さんとお父さんが亡くなってから お兄さんと小父さんは二人でその家に住んでいた。小父さんはゲストハウスの管理人として働いた。お兄さんの毎日のきちんと決まった生活を守ってあげた。お兄さんの落ち着いた幸せを壊さないことが小父さんの幸せでもあった。

他の誰と繋がりたいわけでもない。ただ、崩れ落ちた「離れ」をそのままにした草木の生い茂る庭に来る、野鳥にひっそりとエサを置く。決して彼らのさえずりを邪魔しない。野鳥たちを見守って、その美しい歌を聞かせてもらえることを感謝して つつましく暮らしていたのだ。

やがてお兄さんも亡くなる。
お兄さんと生きることだけが小父さんの毎日だったから その穴は大きいのだ。

それでも やはり小父さんは淡々と日々を続けて行く。
それだけで十分だったのに、時々その日常に小さな変化を起こす人が現れては遠ざかる。小父さんは何も悪くないのに、不穏な事件の影が差す。だんだんと心配になってくるのだ。誰か新しい人が登場するたびに。小父さんのささやかな幸せが崩されませんように ひとかけらも悪意のない小父さんに災難が降りかかりませんようにと、読者は心から願うのだ。

 そして お兄さんを亡くした後でやっと巡り合えた相棒、傷を負ったメジロ。お兄さんに教えてもらった鳴きまねは メジロにしっかりと通じる。なんと幸せな時間だろう。小さなメジロがどんどん美しい歌い手になっていく様は、ほんのりと温かい温度をこの物語に与えてくれる。いつか飛び立つ日まで、そのはかない時間を小父さんが覚悟していることも解る。

小父さんは絶対に何かを独占したり 相手の自由を奪ったり 名誉や賞賛を欲しがったりはしないのだ。だから 最後に現れた「鳴き合わせ会」とやらでメジロを勝負に使う男は相いれなかった。当然だ。求愛の相手のふりをしてメジロを騙して鳴かせて、勝ち負けを付けるなんて 小父さんの、そしてお兄さんの受け容れがたいことだ。野鳥を自由にしなければいけない、小父さんはあの愛する相棒を、明日にも放つことを心に決める。

 小川洋子の作品には いつも不思議な仕事や店、本当にそんな習慣や言葉があるのだろうかと思うような様々なものが登場する。まるで夢の中で見たような掴みどころのない何か、それなのにこと細かに羅列される現実感のある小物たち。非現実、想像 創造 虚構そんなものたちが 当たり前の顔をして登場し、静かで冷たい、でもどこかに小さな光と温かいものが隠れているような そんな世界だ。そしてその冷たい薄明りで見つけたような 小さな光と温かさが読者の胸に、忘れがたい何かを与えてくれる。

 時代は移ろう。あの不穏な事件が無くてもきっと、幼稚園の門には鍵が付いただろうし、鳥小屋だっていつしか無くなってしまったのかもしれない。ゲストハウスは様変わりし、小父さんは定年を迎え、薬局の店主は世代交代し、兄弟が「ポーポー」と呼んだ飴も取り扱いが無くなった。優しい司書の女性にも不思議な虫箱の老人にも会えなくなり、園児たちは卒園し大人になっていくだろう。地味で無口で人付き合いが苦手な「ことりの小父さん」のことを 思い出す人はどれだけいるだろう。

 でも小父さん、お兄さんにとって小父さんと生きた静かな日々が、多くの小鳥たちにとって小父さんが食べ物をを用意したあの庭や 幼稚園の清潔な鳥小屋が、大事な居場所だったんだよ。メジロは小父さんに会えて幸せだったんだよ。小父さんが居たことはちゃんと意味がある。ちゃんと何かを与えてるんだ。そんな風に思うのだ。

 冒頭、ループした構造のこの物語を読み返しても「小父さんは還らない」と言ったけれど、言い直す。還らないけれど、無くなってもしまわないのだ。小父さんはずっと、ことりたちと共に居る。恥ずかしそうに、申し訳なさそうに。

# by nazunakotonoha | 2018-02-17 21:56 | 小川 洋子 | Comments(0)

サーカスナイト

文庫版で入手。
たくさんの悲しみや大変な出来事を越えて 優しく繋がって生きる人たちの話。



サーカスナイト
  • よしもとばなな
  • 幻冬舎
Amazonで購入
書評


キャッチコピーを「たくさんの悲しみや大変な出来事を越えて 優しく繋がって生きる人たちの話」としたのだが、書いていて ああ一つ言い方が足りないな、と思った。

「優しく『生きる』人」と言う言葉を選んだけれど、この物語には大事なそのほかの人達がいる。「死んでしまった人たち」だ。けれどこれらの「死んでしまった人たち」こそ、この物語の中で大事な意味を持ち、彼らをを「生かし」、彼らのすべての時間や空間、自然の中に「生きて」いるのだ。

「物とお話ができる」不思議な力を持った主人公 さやか。この力で過去に警察と連携して事件を解決したこともある、なんて台詞もさりげなく出てくるが、そういう話ではない。(むしろそんな「力」は無くても 物語は描けたのでは?と思うのだが)
インドネシア、バリのような神秘的なものが自然に存在する場所で育ち、両親を事故で同時に失い、孤独になったさやか。そのさやかがバリの素朴で温かい人たちに守られ、やがて日本に来て神社を家とする一郎のもとにやって来る。きっと色んな「神様」がさやかを見守っていたのだと思う。

物語はそんな一郎の家にいた頃のことを後回しに(読者には謎のまま残して)、現在のさやかの生活から始まる。病気だった夫、悟をすでに亡くし、娘と二人で二世帯住宅の二階で暮らしている。階下の夫婦は亡くなった夫の両親だ。
今の生活は穏やかで幸せそうで、自立して爽やかな考え方を持つ階下の住人とはとてもいい関係を築いている。実に理想的な嫁姑の関係だと思う。娘のみちるも素直でかわいい。時に大人びたところもあるが 曲がったところのないとてもしっかりした良い子だ。子供らしさとのバランスがいい。

悟は自分の病気が重いのを知って、「良い友達」だっただけのさやかに子供を産んでほしいという 随分順序の変わったプロポーズをして一緒になった人だ。
余命が短いこと、いずれは子供が父を失うことを覚悟の上「尊敬する友達」の悟と結婚する。さやかはそういう決断ができるが人だ。けれど悟自身が そういう決断をさせるだけの素敵な人だったことや、口にはしなかったし、さやか自身は気づいていなかったけれどきっと 彼はさやかのことを本当に大好きだったのだろうと、義母が言うのは説得力がある。恋愛を口に出さなくても、順序が逆でも確かなつながりを持って家族でいた日々がそこにはあるのだ。

冒頭そんなさやかの、夫の悟を亡くしてからの日々が描かれているが、少しの寂しさはあるものの安定した幸せな感じに包まれている。
色々な辛い経験が影を落としていると言えば、義父母との心地よい関係も永遠ではないことを覚悟しているところだろうか。人やものに執着を見せない、別れを諦めている様子が解る。
そしてそこに「事件」として手紙が届く。さやかとみちる、義父母の住む家の庭に 以前の住人が何か大事なものを埋めたままにしているので掘り起こしたいという手紙だ。そして更にその差し出し主が過去さやかの恋人だった一郎だったという偶然。
さやかが「ものとお話できる」という力はそこで発揮される。一郎との連絡を待てずにさやかが掘り起こしたものは 骨のかけらで、さやかの力でその骨が幼くして亡くなった一郎の双子の兄のものだと解るのだ。

それでもこの話はホラー展開にならない。ありがちな恨み嫉み悪意といった そういうものがさやかの周りに存在しない話なのだ。死者もまた生きている彼らに優しい。色々な縁を結び、癒しをもたらすのは 亡くなった大事なひとたちなのだ。

さやかの片手が曲がって動かないわけも、さやかが一郎の家族を好きでいながら離れなくてはいけない苦しい思いをしたその原因や経緯などは なかなか明かされず 謎のまま話は進む。さやかの父母が無くなったこと、悟が亡くなったことのほかにも辛い苦しい過去があるのは解るのだが それが何かは長い間ぼかしたまま話はゆっくり進行する。

実のところその話は随分と突飛なもので、緩い日常や穏やかな家族の物語の中に違和感としか言えないバイオレンスな展開を含むのだが、だからこそ、その結果さやかが一郎の家族から離れて バリに「逃げて」行く理由となってくる。「工作員」とか「生きた殺人兵器」とかもちろん冗談での言葉で一郎も言うのだが それくらいさやかの行為が日常からかけ離れて想像を絶していたのだと思う。(読者にとっても…なのだが)

色々な紆余曲折も大事な人を失う悲しみも、この物語ではすべて心の中で穏やかな別のものに変わっているように思う。それは「終わったこと」として遠ざけられているのではなく、いつもそばにある温かな空気のように、生きている彼らの幸せを願い、優しく包み込むようなそんなものとして さやかが感じ取っているのだと解る。
さやかの想いや考えが沢山書き込まれている。この世界 この時間はたくさんの自然や過去の時間や死んでしまった大事なひとたちと繋がっているのだということを繰り返し美しい言葉で語られるのだ。それはたぶん 作者がずっと考えて来て ずっと言いたかったことばたちなのだろうと思う。あふれ出してとどめることがどうしてもできなかったかのようだ。

残念なのは それらがあまりにも冒頭から多すぎて どこをピックアップしたらいいのか 読者にも解らなくなってしまうところだろう。すさんだ世界がだんだん癒され許されて最後の場所にたどり着いて落ち着いた、という話ではなく、やはり最初から人のつながりが温かい物語として描かれているからだろうと思う。


今、傍に居ない大事な人たちを想いながら 長い時間を掛けて 少しずつ読むのにとても合った本だと思った。


# by nazunakotonoha | 2017-12-18 17:13 | 吉本ばなな | Comments(0)

九十歳。何がめでたい

86歳の父と一緒に楽しく読めると思い購入。



九十歳。何がめでたい
  • 佐藤愛子
  • 小学館
Amazonで購入
書評


話題の本である。テレビのCMで90歳オーバーのご老人たちが「この本は面白い」と言っている。
そもそも本のTV CMも珍しい気がするけれど。
これならきっと、父も楽しく読めるだろう。嫌な話題もないだろう。読んで落ち込むこともなさそうだ。

うちの父も身体が全体的に弱り、耳が遠くなり、心臓も大事に大事にしないといけないので上り坂は避けている。
なにせ急な坂ばかりの住宅地に住んでいるので 気軽に散歩も楽しめない。坂を下りて電車に乗り、買い物をして図書館で本を借りていたのに、今度は目が疲れて本を読むのを面倒がるようになった。
眼鏡を替えたら?眼鏡型拡大鏡はどう?というものの 本人に改善したいという強い希望が無い。新聞は読んでいるので それでいいなら、と思っていた。

それにしても 読まないままの本が置きっぱなしになっているのを見るにつけ、ぜひとも先を読みたい本に出合えば また読書の楽しみも戻るかな、と気になっていた。

神戸を散歩したとき、灘中学校と甲南女子高校の話や遠藤周作やこの本の作者の佐藤愛子の話が出た。父よりもう少し年上だし、面識はもちろんないのだが近隣に住んでいたこともあるということで 彼らが絡むエピソードについては 何で読んだのか聞いたのか、よく知っていた。
佐藤愛子さん、美人で灘中生の憧れの的だったそうだ。(帯に今のお写真があるが綺麗に歳を重ねておられると思う)

内容は「お歳よりあるある」で、人によっては「よく言ってくれた」「自分も思っていた そのとおり!」と小気味良い毒舌に拍手ものなのだが、父はあまりにも自分と「同じ」すぎて 新たな感動や感心はなかったようだ。こんなに自分が日々感じたり思ったりしている普通のことを書いて「ベストセラー」なのか、と 文章を書くのがすきだった父は思ったみたいだ。すでに「作家」のひとはいいなぁ、と。

さりげなく描く、書く、さらりと楽しく読める、ということは それなりに作者の安定した技術があればこそだと思う。誰でも面白く書けるわけじゃない。

そんなことを考えながら 元気な愛子さんの存在が多くのお年寄りを励ますことを嬉しく思う。これからもどんどん元気に歳を重ねる人気現役作家さんが増えることを願っている。




# by nazunakotonoha | 2017-12-02 20:31 | 佐藤愛子 | Comments(0)

窓の向こうのガーシュウィン

フレームに入れて残したいくらい優しくて美しい世界は、ずっと寂しくて切なくて愛おしかった。



窓の向こうのガーシュウィン
  • 宮下奈都
  • 集英社
  • 562円
Amazonで購入
書評


主人公の佐古さんは、ずっと自分を「足りない」者だと語っている。
未熟児で生まれて、親が保育器に入れてくれなかったということが始まりのようだ。

でも佐古さんは「足りない自分」をそういうものだ、と認め、諦めて生きてきた。
クラスメイトのおしゃべりも学校の授業も 先生の言葉も すべて最後まで聞き取れない。雑音が入り、意味がくみ取れない。

それは聴力や理解力や集中力といった持って生まれた、あるいは育つことのできなかった能力のせいかもしれないけれど 佐古さんはそういうことで、親を恨んだりもしない。少しずつ自分のやりかたで 周囲とできるだけ折り合うのだ。頷くこと、同意すること。本当のところは 相手の言っていることを全部理解しようということも諦めている。だからずっと「感謝すること」「幸せだって思うこと」も辞めてきたのだ。それは本人が後で気が付くことだけれど。

佐古さんは高校を出て ヘルパーの仕事を始める。勉強や学校生活は彼女には合わないし、なんとか就職できた先は倒産してしまったからもある。
短い期間で辞めさせられてしまう中、やっと続いた派遣先は「先生」のところで、そこには額装の仕事をする先生の息子と 時々訪ねてくるその息子(先生の孫)がいる。「先生」は何の先生なのかは解らない。けれど、そのきちんとした生活態度や落ち着いた物腰や話し方は「先生」と呼ぶにふさわしい。佐古さんは何故だか不思議と、先生の言葉なら受け止められて(雑音が入らずしっかり言葉が伝わってくる)、たくさんのことをそんな「先生」から受け取ることになる。
偶然だがその孫と佐古さんは同級生だ、もちろん学生時代には何の交流もなかったけれど。


温かい物語なのに 読んでいる間中ずっとどこか苦しかった。

苦しかった理由はたぶん 先生の「老い」のせいだと思う。佐古さんがこの家族にだんだん馴染み、幸せな心通わす会話やシーンが増え、佐古さんが徐々に心を開放していくのにつれ、先生の時間がどんどん「老い」を深めていくのだ。そしてそれは、人間として避けられないものなのだと、やんわりとではありながら ずしりと重く突きつけられる。
孫の隼がそれを辛いと感じ、佐古さんは佐古さんで考える。先生にとっての「今」について。先生自身にとってはそれは「悲しい」かどうかということについて。

隼は勉強も苦手で就職もできないままだ。先生のような「賢い」祖父を持っていることにコンプレックスを持って生きてきた。色弱で、父のような色彩センスの必要な額装の仕事にも向いていないと感じている。隼もまた、自分に「足りない」感じを抱え下を向いて生きてきた。
隼の父は無口な職人で 父とも息子とも少し距離がある。でもこの人が佐古さんに額装の仕事の手伝いを頼んでくれたのだ。この家庭のヘルパーとしてだけでなく額装の仕事も佐古さんの時間に大事な意味を加える。

佐古さんはすごい、佐古さんは偉い、佐古さんは賢い。そして佐古さんの額装への想いやこだわりを認めてくれる。
今まで佐古さんが聞いたこともなく、自分で思ってもみなかったことを この家族は言葉にしてくれるのだ。

「みんな違ってみんないい」というお話なのだ、と どなたかが書かれていた。本当にそうだと思う。
老人も無口な職人も、もと不良も、持って生まれた体の不具合も、「いいんだよ」と言っているようだ。色弱だという隼に、佐古さんは言う。人と違う世界が見えることは彼女にとって普通だし、それを説明する言葉を持つのは「いいね」。そういう考え方ができるのは 自分自身のものの捉え方が「みんなと違う」けれど、それをうまく説明できずにきた佐古さんだからなのだろう。「いいね」なんて隼には驚きの捉え方だったろうとは思うけれど。

そして 佐古さん自身が「私は私でいい」と思えることで、周りを認めたり愛したり、大事に思えたりする過程が 丁寧に丁寧に それこそ佐古さんの持つゆっくりした時間に沿って描かれる。

高齢の父を先生に重ねてしまい 私にとってはとても辛い展開でもあったけれど 「老い」は現実なのだから、余計に「今」の大事さを痛感したのだった。物語の最後まで先生が「先生」でいてくれて良かった。そして温かで穏やかな「蕗のとう」を七輪で焼いて皆で食べるシーンがくっきりと額に入れたような「美しい思い出」となったことが 凄くうれしい。




# by nazunakotonoha | 2017-11-27 14:49 | 宮下奈都 | Comments(0)

こちらあみ子

いつかどこかできっと、あみ子のトランシーバーに応答が来る、と信じたい。


こちらあみ子
  • 今村夏子
  • 筑摩書房
  • 1470円
Amazonで購入
書評
「こちらあみ子」という題の意味がずっと解らなかった、私が鈍いのか。

そうだ、あみ子はトランシーバーをプレゼントされたのだ。

それは 生まれてくるはずの「弟(なぜか男の子が生まれてくると信じていた)」とのスパイごっこの遊び道具になるはずだった。けれど赤ちゃんは生まれることができず、母の心と身体を弱らせた。

あみ子のしたことで 母は更にダメージをうける。

あれは母を喜ばせ元気づける「お祝いの品」だったのに。
ちゃんと考えて 字の上手なのりくんに頼んで書いてもらった「弟の墓」の墓標。いい考えだと信じていたのに、母は泣いた。泣いて、沈んで、寝込んだままになって 結局あみ子を遠ざけてしまう原因ともなってしまうのだ。

最初から 何気ないあみ子の日常が あみ子の目線で楽し気に書き綴られているが あみ子がご機嫌でも歌っていても読者はだんだん気が付くのだ。
きっと訪れるあみ子にとって生きづらい世界。優しい人ばかりじゃない世界。

そしてまた思うのだ。あみ子のような子に「好きだー」って叫ばれる相手の困惑や、母、父、兄の抱える悩みや心配事。あみは子それでいいんだよ、いい子だねって言いたいのに、実際自分に引き寄せるとそう言えるだろうか、私が母ならば、兄ならば。


物語はたんたんと進み やたら感動をあおったり、悲惨な事実を突きつけたり、無理やり「考えること」を強要しない。誰が悪いとも言わないし、世間を批判するわけでもない。
あみ子とあみ子の周囲のできごとをとても素直に書き綴るだけだ。
それが 読者に何を突きつけるのかは相手に託しているようだ。

並大抵の作品じゃないぞ、そう思う。

そしてもう一作の「ピクニック」にしても然り。

妄想かもしれない 嘘かもしれない、と読者もうすうす思うのだ。売り出し中のお笑いタレントと恋愛中という七瀬さんの話を。
そして全てを受け入れる「優しすぎる」店の先輩たち。彼女たちにはそれが 夢でも妄想でもよかったのかもしれない。
騙されてる、とも思わない。七瀬さんのことも嫌いにはならない。

若い生意気な新人が現実を突きつけようとするけれど それも「優しい先輩」たちに阻まれるし、七瀬さんの世界は それくらいでは壊れない。そういうことではないのだ。彼女の幸せな世界を壊すことは。

ラストでその生意気な後輩も入っての「ピクニック」のシーン。仄明るい幸せな雰囲気はどこから来るのだろう、と考える。

あみ子のお母さんが得られなかった幸せがここにはある。「家族」じゃないからだ、本気で「迷惑」を掛けられることも、彼女の将来を気にする必要もないからだ。そういう説明もつくけれど それも違う。
「優しい先輩」たちにちっても 七瀬さんの居る幸せな世界が、それを認めて見守ることが 心の安定を約束するパラダイスだったのではないか。

口は悪いけれど、そうやってあみ子と自然にかかわることができる唯一のクラスメイト、あみ子には名前すら覚えてもらえない少年や 後年仲良しになった竹馬に乗ってあみ子を訪ねてくる少女の存在は同じように、物語に優しい風を運んでくれる。


読んでいる間の途切れない息苦しさは2作品とも同じだったけれど、決して重苦しくない、不思議な明るさのある読後感の作品だった。



# by nazunakotonoha | 2017-11-11 00:36 | 今村夏子 | Comments(0)

ピンクとグレー

「ごっち」と「りばちゃん」。芸能界を駆け上がった者とくすぶったままの者。幼馴染。
引き合っただけ反発する心。
こんな最後しかなかったのだろうか、と切ない。


ピンクとグレー
  • 加藤シゲアキ
  • KADOKAWA/角川書店
  • 605円
Amazonで購入
書評


作者が今 TVをつければかなりの頻度で会えるジャニーズのアイドルグループの一員だということは ここでは問題にしないでおこうと思う。
もちろん 作者が実際そういう環境に居ることもこの作品を創り出す一要素になっているはずだけれど、ちゃんと作品として評価するのに 必要ではない気がする。

映画ではまた構成を再構築しているらしい。
主人公たちが生きる映画やドラマといった「虚構」で表現する世界と、彼らの「現実」の世界を絡め、映画を観る人まで巻き込んで 大きなどんでん返し的な仕掛けを入れてくる、という映画を作る人の意気込みも頷ける。この小説はそれだけ魅力的な「素材」でもある。
この「現実」が小説内の、というところがまた更にフクザツだ。加藤シゲアキ自身のノンフィクションでは 決して無いからだ。


小説もなかなか凝った構成にしてある。こちらはこちらで映画のようなミステリー仕立ては狙ってはいない。それでも 時間軸を行ったり来たりすることで(章の題名に年齢とその時期に関係する飲み物の名があるのが面白い。)謎を残し続きを読みたい気持ちを引っ張る原動力にもなっている。

少年時代の出会いからずっと親友だった二人の 微笑ましい様々なエピソード ごっちの姉の事故と死。高校時代 バンドを組んで歌ったオリジナルのナンバーの歌詞の意味、その本当の意味。
代理のアルバイトから始まったモデルの仕事。ずっと二人一緒だった、同等だった。同じ景色を見ていたかった。

二人いれば、同じ道を進めば いずれはやって来る葛藤。他人の評価やチャンスは二人同じようにはいかないのだ。当然生まれてくる葛藤、軋轢。

それでも 幼馴染のもう一人サリー(ずっと男の子だと思っていた。読者は軽く騙される)と再会しごっちと付き合い、二人の間の溝を埋めようと努力する。爽やかな彼女の登場する場面では 少しだけほっと気を抜ける時間でもある。ただそれが 後戻りできない辛い結末を予想させるのも確かだ。

「蓮吾(ごっちの芸名)」の 生きるのが辛くなっていく頃の気持ちは ごっちは語ることができない。
何故、は解き明かされることない謎を含んだままだ。

描かれるのは残された「りばちゃん」が様々な人の言葉や思い出や想像を紡ぎ合わせた「ノンフィクション」の出版物の文章でもあるからだ。そして くすぶっていた「りばちゃん」が芸能界で生き、「ごっち」の役を映画で演じることになる。これも「蓮吾」が望んだ筋書きなのだろうか。

そしてすべての幕切れまでのスピードは加速する。

題名に2色の色が挙げられる。目に見える「色」についての話、自分の「色」について。色が大事な意味を持たされているのは解る。映画もそこを捉えてカラーとモノクロを使い分けたようだ。さらっと読んだだけでは 作者が言いたかっただろう題名の2色の本当の意味あいが解らなかったのが残念だ。

主人公たちのニックネームの由来の「スタンドバイミー」や ごっちが父親の影響で知っている吉田拓郎の歌の一節、オリジナルの楽曲の歌詞、花の名前の意味など ちりばめられた様々なパズルのピースが 読者のイメージを膨らませる。

「読みやすくて先が気になる本を」と最近読書のスピードが落ちたので購入したこの一冊は 思った以上に内容が深くて重かったけれど、読んで良かった、と思う。

映画にはR指定してもいいようなシーンがあるそうだ。小説に全くないそういうシーンを入れられてしまったのは 観る人選んでしまうをという点でとても残念だと思う。


# by nazunakotonoha | 2017-09-03 22:40 | 未分類(国内の作家) | Comments(0)

小川洋子ワールドにどっぷり。もう少し、前の1冊と間を空けて読めばよかった。



  • 小川洋子
  • 新潮社
  • 432円
Amazonで購入
書評

その時一気に2冊、同じ小川洋子作の「まぶた」と「海」を買ってしまったのだ。いつも行かない大きな本屋さんに並んでいたのであまりに嬉しくて。

さすがに数冊の間と期間を置いて読んだつもりだったのだけれど もう少し、もう少しだけ空けたら良かったのに、と思う。

ごく短い数編を含み、どの物語もやはり小川洋子。いつもどおり少しだけ不思議な状況や言葉、ひとや物が 日常の中に紛れ込んでいる。それらのものは 物語の中できらりと光って静かな存在感を示すのだ。

物語を特定して 最後に掲載の比較的長い「ガイド」などで考えてみると どことも特定できない異国風な場所設定を、普通に日本のどこかに置き換え、変わったデザインのシャツを作るおばさんを「シャツ屋」という風に仕事と店の名前も出さず 洋裁が得意なおばさん(時々 変わったデザインのシャツを作る程度でもいいけれど)、詩人を辞めて「題名屋」という不思議な仕事をしているという紳士については「物事や思い出にうまい『題名』を考えるのが得意な人」とだけにすれば かなり普通の、他の作家さんでも書けそうな話になりそうだ。こういった細部に少しだけ奇妙で不思議なものを差し込みつつ、まるで当たり前に存在しているか、それがないと物語が成り立たないとでもいうように描くのがこの作家さんの特徴のように思うのだ。いつもどこか居心地が悪く、少しだけ歪んでいて でも優しくて澄んでいるという 独特な印象。

掲載されているインタビューや解説を読んでいて 私の受けた印象とかなり違っていたのは「バタフライ和文タイプ事務所」。
コメディ要素とかユーモア、ノンセンスなどの言葉を使われていたのだけれど、わたしにはただ、活字のことを書いていながらエロティックにすり替えて読めるようになっている話として 悔しいほど上手くドキっとさせられてしまう。「面白い」といえば面白いんだけど それをユーモアという風には受け止められなかった。読み手を記述のトリックでドギマギさせようという意図を感じるというよりは、大真面目に医学用語ならこういう文字をタイピングすることもありなんだよな、と思ってしまったからもある。(何という文字、活字について どういう会話が交わされているかはここでは伏せますね。ぜひ読んでみてください)

こういう記述の仕方を「大人の遊び、おふざけ的なもの」として笑える余裕というものが自分に無いのでしょうかね。「活字」に対する偏執的なまでの愛というものを普通に感じてしまっていました。

今度はもう少し他の作家さんの本を間に沢山読んでから、この世界に戻って来たいと思います。未読で読みたいと思っている作品はまだまだあるんだけどなぁ。


# by nazunakotonoha | 2017-08-30 21:32 | 小川 洋子 | Comments(0)

ちょっとした偶然やすれ違いで恋の行方は変わっていくものなのか。



  • 森鴎外
  • 新潮社
  • 340円
Amazonで購入
書評



恋、というよりほのかな思慕。初めて恋を知ったお玉からは純情な乙女のようなときめきを感じます。

それもそのはず。
相手の仕事が「高利貸し」とは知らず妾となり、女中の女の子一人をあてがわれて、ひっそりと住まう美しいお玉。最初こそ 旦那の来ることだけを待ちながら もし旦那が来た時自分が留守ではいけないと、これも近くに住居をあてがって貰った父を、訪ねることすら憚って暮らしています。

まだ あどけなさの残る頃に見初め、お玉を手に入れた旦那の末造は元来無駄遣いや遊びにお金を使う人ではないけれど、父子二人で暮らしてきたお玉のためには 惜しまず(ちょっとは惜しんでいたかな?)父親の住まいも用意するという惚れぶりです。

末造の中では 本妻や子供に手を上げたり声を荒げたりせず、今まで通りの生活をさせているだけで何の落ち度も無い、妻に疑われ責められたとて、悪いことなどしていないという気持ちの居直りがあります。妻への言い逃れ方も上手いし、やり取りの中に夫婦の性格や気持ちの食い違いがリアルに描かれます。描き方はちょっとユーモラスで重さや暗さは感じません。

そんな末造を待つだけの日々に変化が起きたのは 外を通るある大学生にお玉が惹かれるものを感じ、日々通るのを心待ちにしてしまうようになったこと。そして ある日 彼がふとお玉に挨拶をしたこと。

もちろん物語が急に動き出す、ということはありません。
それでも小さな出来事はお玉に少しずつこころや態度に変化をもたらすのです。片恋は彼女をさらに美しくする。秘密は彼女を魅惑的にする。末造は勘の鋭いたちらしいのですが その変化の原因には気づいていないようで 自分の手柄のように思っているくらいです。

末造へのうわの空の受け答えが逆に 今までのような硬さを緩め、秘密を持ったことで更に末造に丁寧に接する様子を好ましく感じるあたり 男なんて単純な生き物だとでもいうようです。ただ、お玉についても末造を手玉に取るような悪さ狡さは感じさせません。基本この物語に「悪者」は登場しないのです。(妾を囲うことや旦那が居るのに他に恋心を抱くことが「悪い」といえば そういうことになってしまいますが)

お玉と挨拶を交わすようになった学生の岡田とお玉が近づくきっかけは 鳥と蛇。鳥は末造がお玉を喜ばそうと鳥かごと共に買ったもので、軒下に吊ったその鳥かごを蛇が襲うという事件がありました。ヒーロー岡田は 隣へ手習いに来た女の子の人だかりをかき分け、蛇を退治してくれます。

これがきっかけでも、すぐに何かが起こる わけでもありません。物事はなかなかすいすいとは進まない。進まないから先が知りたくて読み手の手は止まりません。鴎外センセお上手です。

お玉は「お礼」を言うという理由ができて でもどうやって何をどういうタイミングで言えばいいのかあれこれ考えます。女中がするというのに窓を拭いたりして 恋しい岡田を待つのです。お礼の品を渡すのはどうだろう、手紙もつけたらいいかしら、でも何て書いたらいいのだろう、上手に手紙なんて書けるかしら・・と まるで告白をする前の女学生のようでもあります。

さて、末造が用事で出かけ訪ねて来ないと確認できた日、お玉は女中にも里帰りを促し、一人で彼の通りかかるのを待つのです。声をかけるチャンスは彼の行と帰りの2回。
なのに、です。

一人でいつものように通るはずの岡田は 下宿で出された鯖の味噌煮が嫌いな友人に誘われて外食に出たので 「連れ」が居ます。もちろんお玉の期待外れ。岡田はそんなこと知りません。
では 帰りは?というと今度の障害は「雁」です。まさにこの物語の題名。鳥の名です。たまたま出会ったそんなに親しくも無い友人が「連れ」に加わり 殺して食べようという提案に逃がすつもりで岡田が投げた石が当たってしまいます。獲物を隠し持って3人で歩く彼らに もちろんお玉は為す術も無く 見送るだけです。そして結局二人は何も繋がらないまま 岡田は海外留学に行ってしまう、というのがあらすじです。

大変面白く読み進めたのですが、後半で一瞬 読書の勢いが止まります。語り手が「僕」、文体の雰囲気がころりと変わるのです。あれ、僕?僕って何?、違和感はぬぐえません。
そこでやっと思い出すのは 冒頭は「僕」(=最後に「サバの味噌煮が嫌いで岡田を外食に誘う友人」が語りてだったのです。そして、お玉の素性、妾の生活を始めるまでとその後を語るのに、章を新たにして お玉と末造を主人公にした「物語」が三人称で語られます。そこでは「僕目線」はすっかり影をひそめているし、「僕」が知るはずもなさそうな細かな状況が 実に生き生きと描きだされているのです。読者はその内容と表現の面白さと登場人物の魅力に引き込まれてしまうので、語り手だったはずの「僕」の存在すっかりを忘れてしまいます。

確かに「雁」を捉えて「帰り道」を図らずも邪魔した友人はいきなりの登場なので、更に「サバの味噌煮」の彼まで いきなり出てきた登場人物ではあまりに物語の都合上すぎるとは思います。
その上 誰かにつっこまれたから言い訳するみたいに、語り手の「僕」が何故そこまで語れるのかという説明に「岡田から聞いた話」「岡田の様子」だけでは説明がつかないからか、「のちにお玉と知り合うきっかけがあり(恋愛関係にはなっていないこともひとこと「説明」されています)聞いた話を合わせて物語にした」とされています。それでも 末造と妻の会話や妻の様子、末造の思ったこととかは聞くことはできないはずです。

この物語の構造についてきっちり考察される方もおられると思いますが 私は単純に、連載中に鴎外先生が筆が乗りすぎて最初の設定を忘れちゃったのではないかと思ってしまったのですが そんなことはないのでしょうか。熱心な読者とか編集者とかに指摘を受けて慌ててまた「僕」の語りに引きもどしたとか。で、言い訳もつけてみたけど説明しきれてない、とか、ね。


ただ、聞き語りの体を辞め、「僕」がなりを潜めた方が物語の進み具合もスムーズだし、その間に地の分で語られる「女性観」とか「人間観」とかが すんなりと読めて面白いです。普通に鴎外先生(「僕」ではなく)、人間観察が鋭いなと 感心させられます。

題名の「雁」についても あまりに巻末にいきなりの登場で 何故それが題名なのか首をかしげないではないのですが 当時の読者に共通した「雁」のイメージがあるのでしょうか。(ある、という説明をしている人もおられます)。それを知っていたらこの物語の伏線的な「意味」を題名が担っていることになりますが、今の読者に伝えるとしたら 先の会話や物語の状況の中に、何か「雁」について語る場面でも欲しいところです。まあ、それは言っても仕方無いことですね(昔書かれたんだから)

ともかく、物語の構造なんて、途中であれれ?と思ったことなんて 関係ないくらい魅力的な「物語」に仕上がっています。私は地元ではないので 土地勘は無いけれど、風情のある街をそぞろ歩いている気持ちにもなれるし、妾とか三角関係とか悲恋などという言葉をかぶせると想像できないような さわやかで明るい雰囲気の 美しい物語だと思います。


# by nazunakotonoha | 2017-07-22 16:56 | 森 鴎外 | Comments(0)