薄墨の桜

生命尽きようとしている桜の大樹。それを救おうとする着物デザイナーと老木の根元の水田の持ち主の老女の対立。そして老女の言いなりに生きる楚々とした養女の芳乃。現実世界と交錯する華麗な「ものがたり」の世界。


薄墨の桜
  • 宇野千代
  • 集英社
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書評

岐阜県の根尾谷にある樹齢1500年と言われる「薄墨桜」。
実はうちの父がこの「薄墨桜」の写真を撮って引き延ばしてフレームに入れたものを この本と共に貸してくれたのがこの読書のきっかけだ。パネルを部屋に飾りながらの読書はなかなか味わい深いものだった。(父と母が夫婦で行った思い出の写真だということも含め)

写真の中のその桜は、周りを取り囲む沢山の支えの木に守られながら 大きく枝を広げ薄いピンクの花を見事に咲かせている。それは支えてやらないと倒れてしまう か弱い老木ではない。沢山の支えの木に寄り添われ、歴史の重みを知り、長い年月の中で自身の命運も天に任せて立つ毅然とした巨木だ。この樹の前ではたかだか長くても100年程度の人間の命などとてもちっぽけに思えてしまう。

この物語の作者 宇野千代は物語の語り手と同じ着物のデザイナーでもあり、実際に枯死の危機に瀕していたこの巨木を救おうと力を尽くしたそうだ。また さらりと本名で登場する知事や作家仲間もいて、どこまでがフィクションなのか、と不思議な気持ちにもさせられる。
この樹を見て来た父は 先に作品を読んでから行ったそうで、老女の豪邸の壁も、水田のあった形跡もなく、観光客の多さにもかなりイメージを覆されたとのこと。


物語は桜の根元の水田の持ち主で、戦後を逞しく成り上がった老女「マダム」の姿と、その周囲のできごとを着物作家の「吉野一枝先生」の視点で描き出す。この老マダムはなかなかの饒舌なモンスターだが、対比して養女の芳乃は作中ほとんど台詞はなく、先生の心に直接語り掛けるように描かれる。もちろんそれは先生の想像の中にすぎないが、その楚々としたたたずまいや小さな表情の変化、しぐさから彼女の想いを汲む形となる。養母に逆らえず意のままに動かされている薄幸の芳乃の恋を先生が応援したくなるのは、薄墨桜の保護をあからさまに邪魔する「マダム」への反発も関係ないとはいえない。誰に悪役と思われることも全く厭わない「マダム」のヒールっぷりは却って潔く、読者にとっては憎み切れない登場人物となっている。


政略結婚に利用されかかる芳乃が、マダムから逃れて恋人と逃げる企てをし、そんな恋人たちに肩入れし、手を貸すまでに腹をくくった先生の心理が、巧みに描かれていて、どうなることかと目が離せない。その結果として起こる悲劇の描写は、格調高い伝統的な「ものがたり」として、この作品を締めくくっている。

語り言葉で綴られる文章がとても美しい。



もう一編の「八重山の雪」は日本人女性のとの恋のため脱走したイギリス兵の話。二人を認め、産まれた子を可愛がり、匿うお父さんと親類家族が皆優しい。女性自身の語りとして方言で描かれているのが味わい深い。
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# by nazunakotonoha | 2018-08-22 07:58 | 未分類(国内の作家) | Comments(0)

おめでとう

たんたんと生きていく。しばらくは「怒っている」ことに決めたりして。



おめでとう
  • 川上弘美
  • 新潮社
  • 420円
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書評

日本語の表現で豊かだなぁと思うのは、同じ単語、形容詞でも、ひらがな、カタカナ、漢字、どれで書くかを選ぶことができることだと思う。それを自由自在に操れるのがこの作家さんだ。

表記だけではない。擬音やオノマトペ、タコを噛むのが「むつむつと」であるのもそうだし、「逢瀬」や「接吻」「性交を行った」、なんて古風だったり堅苦しかったりする言い方を選ぶこのセンス。「こちんとくる」もよかったなぁ。

いい大人の女性が心中で悶々とする様子。「こう思っていると思われたくない」と思っていると「思われたくない」と「思っていると思われたくない」……今の自分の気持ちを、再会した、もと恋人に深読みされたくないとう気持ちの表現し方の可笑しみ。
多くの主人公が怒る、泣く、叫ぶなどのはげしくストレートな感情がすぐには出なくなったのは、年齢のせいか、元からの性格か。さて、今から自分はこのもやんとした気持ちをどうしようなどと考えたりするのだ。(使われていた「なんとしょう」という表現がとてもいい。)

初めて読んだこの作家さんの「龍宮」は不思議な物語が多かったように思う。同じ雰囲気では幽霊のモモイさんの出てくる「どうにもこうにも」や木のうろに住み着き、徐々に異形の姿に変化する「運命の恋人」がある。夢のようなファンタジーのような不可思議な設定と、その状況の中でもあたりまえのようにごくごく普通の「心配」をし、次第にこの事態に慣れて 納得する主人公。そういえばカフカの「変身」でも変身した主人公がまず心配したのは「仕事に行けない」ことだったので 似た感じではあるかもしれない。

恋愛を扱った数編では「センセイの鞄」と同じに 決して熱くならない静かな心の行き交いが描かれている。「ふたり」は女性同士の元恋人であったり不倫であったり、元の鞘に収まるかもしれない別れたカップルだったりする。ダメな恋を終わらせて友人に聞いてもらっているというものもある。うまくいっている「今」のあるカップルでも 終わった恋の話でも 同じように「終わりの予感」と「相手への消えない想い」が同時に存在し、さらさらと流れる水のように、静かに降る雪のように、暖かな空気のように二人の間に、周りに、在り続けるのだ。

感情の起伏がはっきりしているタイプの読者さんには解りづらいかも知れないが、キャッチコピーにも出した、「怒ることにしよう」と決めて、「怒る」というのは、私には凄く良く解る。付き合っていた人に、「別れてくれ」と言われたその「くれ」という言葉のチョイスに、酷くこだわってしまうのも解ってしまう。「別れたい」「別れてください」ではなく、「別れてくれ」。命令調で懇願調で親愛的、「複雑怪奇」な意味合いを持つこの言葉使いが嫌だったのだ、と、友人と話す内に結論づけるのも面白かった。

タマヨさん、ショウコさん、ミヤコさん、トキタさんに田島さん、主人公はもう一人の登場人物と話すことによって 自分のなんとなく、の気持ちの落ち着かなさの原因や行先を見つけていく。どの物語でも語り相手というのは自分を見つめなおす鏡のようでもある。

表題作の「おめでとう」は少し変わった短編だ。終末の世界で独りぼっちで生きる女性と、時々会うことができる「あなた」。詩のような形式とひたひたと続く寂しさと静けさ。そこにある「愛」「大事なひとがどこかに(「ずっとそばに」ではなく)居る」ことの大切さ 温かみ。全て理解できたというわけでもないのに、心にずんと刺さり、悲しさと静かな幸福感を残して消えない作品だと思う。

解説は俳人の池田澄子さんという方なのだが、この解説が絶品。解説も併せておすすめの一冊です。

もう一度読み直してみたいと思わせてくださったYasuhiroさん、三太郎さんに感謝です。


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# by nazunakotonoha | 2018-08-18 08:51 | 川上弘美 | Comments(0)

ナイン・ストーリーズ

ちゃんと語るにはもう少しサリンジャーを知ってから。



ナイン・ストーリーズ
  • サリンジャー
  • 新潮社
  • 460円
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書評


実は「ライ麦畑」を読んでいない。橋本紡の「九つの、物語」のレビューを書いた。けど、あんまり内容を覚えていない。いきなりのサリンジャー体験の短編集はハードルが高かった、気がした。

クスリと笑えるオチがあるものやブラックユーモア的な短編を想像したら全く違う。さらりと読むと「それだけ?」のような描き方の話であり、でも深く考えると 病んだ人は死と隣り合わせてに居て、普通に生活しているような人たちも奥に深い闇や絶望を抱えている。

奇妙な話を真顔でする大人とそれに普通に応じるこども、想像のボーイフレンドの場所を空けて眠るちょっと変わった女の子と母親とその友人の会話、生と死、存在について語る「天才少年」と大人の会話、作家という男と合唱団に居た少し大人びた女の子との会話 数えてみれば ほとんどの話に 大人と子供の会話が重要な要素となっている。そしてそのどちらかの一人のどこか風変わりな、でも本人にとってはとても「筋の通った」考えが会話によって引き出されtる。会話の相手は大方冷静だが 相手を馬鹿にしたり理解不能だと思ったりもしない。ただその会話によって 病んだ魂が救われるということもないのだ。この突き放した感じは何だろう、と思う。

個人的に気に入ったのは この中の想像のボーイフレンドのいる女の子のネーミングセンスで 一人目は「ジミー・ジメリーノ」二人目は「ミッキー・ミケラーノ」。(あんまり筋に関係なくて、特記することではないのかもしれませんが)私はこの妄想癖のある女の子、とても好きです。

たぶんサリンジャーに深く傾倒している人、かつてどっぷりハマった人がいるだろうし、研究対象にしておられる人も多いと思う。人となりの予備知識もなく、代表作も未読なので、とりあえずぼんやりした感想しか持てなかったのだが、これから少しずつ 知っていきたい作家さんだと思ったのだった。

少女漫画の作家さんたちにも 随分影響を与えているようだしね。




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# by nazunakotonoha | 2018-08-18 08:48 | 海外の作家 | Comments(0)

木洩れ日に泳ぐ魚

映画にしたらどうなるだろう、舞台では?と考えながら読んだ。文字でこそ表せる緊迫感と、「目線」を選べる小説ならではの技巧的な選択、物語の魅力が巧くマッチした作品。


木洩れ日に泳ぐ魚
  • 恩田陸
  • 文藝春秋
  • 620円
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書評

「こんなことが在るわけがない」と、趣味の創作サークルのお題バトルで「辛口批評」を頂いたことがある。電車の隣り合った席に座った男女が身の上話をした上、思い出の歌を(小声で)歌ったりした話だ。実は離れ離れの兄妹だったとか、そういう話ではなかったんだけれどもね。その時は「小説なんだし」「そんなこともある…かもしれないじゃない」とひとり心で言い返したものだった。

ありえそうもない偶然を突きつけられて こんなのナシだよな、と思いながらもそこはスルーしてでも先に読み進めたい小説、というのはきっと物凄く文章に力があるんだと思う。惹き付ける力 引き寄せる力。

読みかけで すぐにここの皆さんの書評を読み漁ってしまうクセがあるのだけれど、今回最初に開いたのが たけぞうさんので良かった。ありがとうございます。
「ネタバレに極端に弱い」ので レビューや解説は読まないことを薦めてくださっていたので。ふむ。
で、読了したので書評を書きます。ネタバレしないように書く自信がないのでご注意ください。



舞台は荷物を片付けて後は明日の朝出ていくだけの部屋。登場人物は男女二人。明日には二人は別れることになっている。二人の最後の気まずい宴。

語り手は 一章ごとに入れ替わる。彼と彼女 ヒロとアキ。それぞれの心理描写、それぞれしか知りえないことが 読者に少しずつ解るという手法は特に珍しいものではないけれど、こういう謎を次々引きずって先に読み進めさせる物語には合っていると思う。

さっきの章で彼が思っていることから 読者がこうだと思ったら、次の彼女の章では逆の話になっている。何故?がどんどん数珠繋ぎ。読者、読むのをやめることができません状態。

相手が殺人の犯人かと思っていたけれど そうではなさそうだ、とお互いが疑いを晴らすのは割と簡単で、事故だとしたらそれでおしまいかと思うと そうでもない。二人の関係がただの 関係の終わった恋人かと思って読み始めたら もっと複雑で そうだと思っていたら少しずつ それだけでもなさそうだと感じてくる。そもそも読者にとってはまず 同じ場面に居合わせているはずの二人なのに、相手が殺人犯っじゃないかとそれぞれが思う、という状況がどうやったら生まれてくるのかが気になって読み進めさせられるわけだ。

映画にしたら構成を変えて 普通のミステリーにしてしまったり、「何年前」とか文字が出て過去の状況を映像で出してしまったりするのだろうか。それだとこの物語の一番の面白さが抜け落ちてしまわないだろうか。だからといって会話と独白だけで映画を成り立たせるのも難しそうだし。舞台装置の転換無しの二人芝居とかではどうだろうなど、想像するのは楽しい。(個人的趣味)


障害があるからこそ想いが深く、悩みが生まれる。嫉妬が芽生える。障害が無いと知ったら…という女性の心理描写がなかなか鋭い。




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# by nazunakotonoha | 2018-08-04 13:18 | 恩田 陸 | Comments(0)

きみはいい子

闇を抱える人は多いのだろうな、と心は重くなる。けれども 人と人がちゃんと個々に知り合えば また違った温かな関係も生まれることも信じさせてくれる。希望が残る短編には涙。

([な]9-1)きみはいい子
  • 中脇初枝
  • ポプラ社
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書評
同じ町に住む人たちの5編の短編集。

私は先生になりたいという子に会うと ただただ偉いな、頼もしいな、と思う。

ニュースでは日々、「いじめ」にかかわる痛ましい事件が後を絶たず、問題を抱えた子 問題を抱えた親、家族、先生自身、モンスターとなって相手ばかりを責める人たち、他人の痛みに無感動になってしまった子供たち……そんな世界をリアルに見る仕事に 自分が身を置く自信が全くないからだ。

だから「先生になりたい」と言うこの子はきっと いい学生生活やいい先生に出会ったことがあるんだろうな、もし学校で悲しい経験をしたことがあって、それでも「先生になりたい」というならば、きっとその子なりの同じ思いをしている子供を助けたいとか、間違った現状に声を上げたいという覚悟や強い意志があったり、温かな希望を持てる何かを経験したのだろう、と思うのだ。

どの短編にも家庭に問題を抱えた子供や、かつて悲しい子供時代を送ってきた大人が出てくる。先生の活躍で仲直りしたり反省したりするという結末は特にない。虐待をした母親は歳をとってすべてを忘れて少女時代の幸せな「こども」に戻ってしまうし、暴力から救い出さないといけない子供はまだ、ドアの向こうにいる。学級を崩壊させ、仲間外れをした「強い立場」のこどもたちはそのままだけど、新米の先生の経験が積み重なり、先生自身のものの見方が少し変化して、こどもたちを個々に大事に思えるようになれば、きっと何か変化があると そう 信じていくしかないのだ。みんな誰かの「大事なこども」なのだから。

希望のある物語、良かったね、で泣ける話が好きな私だが そういった問題を無理やりに「良い話」で終わらせられてもなぁ、という気持ちもある。「サンタさんの来ない家」の神田さんは自分を「いい子」だと言ってくれる先生がいたことで少しは自分を肯定できるようになったかもしれない。だがこどもを大切にして愛を伝えることのできない彼の親は変われるだろうか。

「べっぴんさん」の公園のママたちはにこにこしているのに、あやねちゃんママは隠れて虐待をやめられない。ほかのママの微笑みだって信じることができない。彼女も過去を抱えているのだ。
「辛かったね」と抱きしめてくれる人を得て 彼女も変わることができるのだろうか。


「うそつき」と「こんにちは、さようなら」には 発育が遅かったり、「障碍」を理由に皆と一緒にできない子供たちが出てくる。親の知らないところで 彼らは誰かと接し誰かに認められ、訪問を喜んでもらえる。それを知ったひろや君のお母さんの涙で 私の涙腺は崩壊した。話をする相手も家族もいなくなり、老いを感じ、うっかり万引きしてしまった「あきこさん」にとってひろや君の「障碍」なんて何の問題もない。何てうれしい毎日のあいさつと 訪問だったことだろう。それが「万引き未遂のおばあさん」と「万引きに目を光らせる店員さん」を、個々のひととして繋いでくれたのだ。私には そのシーンが本当に嬉しかったのだ。なんだかね、もう「老い」が自分に近いからかもしれない。まだまだ、ひとりぼっちではないけれど。

最終話「うばすて」は「老い」を自分のことに引き寄せたまま読むと相当辛い。相手を傷つけ続けたのに本人は何にも覚えていないって、罪だなぁと思う。置き去りにすることを想像しながら手を繋ぎ、自分を傷つけるような言葉を相手の思い出の中に一つでも与えたかった「かよちゃん」の気持ちも痛いほど伝わる。子供の時 ただ微笑み返して欲しかった、手を繋いで欲しかった それだけだったのに。傷つける人もそれなりの理由がある。その人にも深い傷があるのだ、と全編で言い、でも傷つけられた人の思いも絶対に消えないのだ、と訴える。傷を癒すのが当人たちの和解や反省ではなく、また別の傷を持った人だというのが悲しいけれど、温かくもある。

1編目、若い先生の視点で描かれた学級崩壊した1年生と翌年の担任の4年生のクラスを描くのに、問題の掘り下げ方がやや浅いかなと(生意気にも)思ったけれど、そんなに何でも感動的に解決するわけじゃない これからも問題はずっと続くのだ、というメッセージでもあるのかもしれない。周囲の理解と見守りと 手を差し伸べる人が増えることで 悲しい想いをする子供が救われますように、と祈る気持ちになった。大人だって、先生だって一人の悩みを持ったにんげんなんだよ、解ってね、っていう物語を子供たちに読んで 考えてほしいと思うけれど、「相手の立場に立った思いやり」を先に覚えなければいけないのは やっぱり大人の方なんだろうな。

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# by nazunakotonoha | 2018-07-31 21:50 | 未分類(国内の作家) | Comments(0)

トム・ソーヤーの冒険

なんとなく「ハックルベリー・フィンの冒険」の方が好きだったことだけ覚えていた。


トム・ソーヤーの冒険
  • マークトウェイン
  • 新潮社
  • 637円
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書評

いつ読んだのか解らない程以前の本を再読。

物語冒頭でのトムの悪ガキぶりといえば つまみ食いや、ちょっとしたイタズラ。サザエさんちのカツオくんかと思うような(いやいやトムの方が先ですね)巧みに人の心理を利用してずる賢くさえある「罰のペンキ塗り」のサボりっぷりや学校での栄誉の賞の頂き方。

そんな描写に絡めて その当時の男の子たちのポケットに入れた「宝物」が何だったかが解り 面白いです。今でも男の子は蛇や虫の抜け殻とか落とし物の何かの部品とか大事にするのかな。のら猫の死骸なんかを平気で遊び(本人たちは真剣なことかもしれませんが)に使うとか、不衛生なものを大事に持ち歩いたりはできないと思うけれど。気味悪いのや変な趣味のストラップとかキーホルダーは集めたがるかもしれませんね。


お行儀良く、マナーを守り道徳的で信心深い そんな、地域の奥さん達が皆同様に子供に施す「ちゃんとした躾」をしてくれるポリー叔母さんへのちょっとした抵抗。でも、叔母さんの愛情の深さは本物だし、トムもそれは受け取っている。だからこそ、安心してのびのびと悪ガキでいられるのだと思います。

少年たちの「ごっこ遊び」、「海賊ごっこ」のプチ家出、幼い恋心。好きな女の子の気を引くために周りでうろちょろ目立とうとしたり やきもち焼いたり、わざと無視したり そんな田舎町の牧歌的な物語が進みます。(海賊ごっこの顛末は結構大事になり みんなに迷惑を掛けましたが)

内容が本格的にスリリングになるのはその後で、ハックと二人で殺人現場を目撃してしまうところからです。罪に問われ死刑にもなろうかという人が実は冤罪だということを 証言できるのはトムとハックだけ。でもその罪を擦り付けて逃げているのが凶悪な男。二人は恐怖と真実を黙っていることの罪悪感の板挟みになります。

そして真相を暴露してトムが一躍ヒーローになり、事件は解決するものの、やはり逃亡中の真犯人に恨まれていることは間違いない。ドキドキは続きます。
ただ、そんな事態が続いているのに、そこはトム。危険な遊びや「冒険」をやめることはありません。

今度はハックを誘って「宝探し」を始めます。こういうときのトムの「知識」はロビンフッドや海賊などの物語。宝物は山賊や泥棒がこんなところに隠すものだ、こういう場合出てくる相手側の女性は美人で、捉えた側の自分達を好きになるんだとか 戦うときはこんな風にやり合うものだとか、「そういうものなんだ』というトムと「そんなものなのか」と納得して従うハックのやり取りが微笑ましいです。

「お宝」は思いがけず本当にあることが解りますが、相手がとても危険です。それでも二人はまだ懲りることなく、これを奪うべくあれこれ画策します。そんな中、更にトムにもハックにもそれぞれに別の危険な状況が訪れ それぞれに勇気と知恵をもって苦境から脱出します。

お宝も手にしたし、狙われる恐怖もなくなったし、トムは好きな女の子を守れて 相手の親からも称賛と信頼を勝ち得たし、ハックも暖かいベッドと毎日の食事を貰える家のこどもになれました。
ただ これで すべてめでたしめでたしにならないのがトムとハックの物語の良いところで、「安定」や「(行儀のよい)世間に受け容れられること」は、彼らの好む「自由」や「冒険」の世界とは真逆なんだなと ニヤリとさせられたのでした。

これを読んでいると「ロビンフッドにトムソーヤ みんなぼくらのなかまだぞ」という日本語の歌詞のついた「ともだち讃歌」を思い出します。小学校の時「学習発表会」でクラスで歌いました。勉強ができる子や優等生以外の「声の大きい子、度胸のある子 元気な子」に 合いの手の掛け声を分担させるイキなはからいをしたのは 地味で真面目な新卒の先生でした。

YouTubeの動画で歌うこどもたちは かなり「優等生」っぽさが漂っております。
なかなか今の日本のこどもではこんなに伸び伸びとした冒険をしたり 愛される「悪ガキ」でいることは難しいだろうと思います。

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# by nazunakotonoha | 2018-06-22 21:54 | 海外の作家 | Comments(0)

チュベローズで待ってる AGE22、AGE32

AGE22、AGE32 2冊からなる加藤シゲアキ 意欲作。


チュベローズで待ってる AGE22
  • 加藤シゲアキ
  • 扶桑社
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書評

作者がジャニーズのNEWSというグループのアイドルだということは 先に触れた方がいいのかどうか こういう時はいつも迷う。
「本が好き!」ではこれはまだ書評がないし、一般ブログにはNEWSファンだという人のレビューが目につく。

私はスリルやサスペンス、殺人や企業での陰謀とか社会派的なものなど、そういう内容の小説はあまり読んでいないので これに近いジャンルを読み込んでいる読者が 構成や文章にどんな意見をもたれるのかは解らない。NEWSファンの家族が購入した本なので珍しいジャンルだけど読んでみた、というスタンスだ。(「ピンクとグレー」は自分で購入して読んだのだけど)
だから、なのかもしれないけれど、とても面白く先を楽しみに読み進めることができた。

AGE22 では就職に失敗してホストで家計を支えようとする「光太」(源氏名は「光也」)の、のし上がる様が描かれる。ちょうど今 TVドラマでホストが主人公のものを観ているので、情景や人間模様が想像しやすくて助かった。世話になったNo1ホスト雫と、友達になれた新人ホストの亜夢の絡んだある「事件」、その後の顛末、就職の面接で自分を落とした面接官が客として訪れ、金づるとして利用しているつもりの彼女と少しずつ心を通わせていく様子、彼女の「指導」で再度の就活に成功するまで、そして驚きの彼女の自殺までが描かれる。

AGE32では 計画通りにゲームの製作会社に入社後頭角を現し、会社で一目置かれる存在になった光太が、不穏な連続失踪事件が報道される中 妹の行方を探す日々と 人気ゲームのいきなりの健康被害報道がおそらくは誰かの陰謀であるとして相手を突きとめ追いつめる流れ、そしてそれが解決して結末かと思ったら、AGE22で自殺した美津子の死の真相を追い、左遷の真相や元恋人との隠された真実まで 怒涛の展開が繰り広げられる。

実のところAGE32を読み始めたところで AGE22の一冊は本当に一冊必要だったのかな、という感じがぬぐえなかった。もちろんホストの物語としての一冊は面白かったけれど、AGE32の物語の中で、過去の話を入れ込むとか 回想の形で簡潔に終わらせることもできたのではないかとも思ったのだ。
ラストに向かって短いページでの急展開 予測もできなかった人物の登場とネタばらしをもう少し 推理可能な 予測のつく形で少しずつ見せてくれた方が 読者には優しかったのではないかとも思うのだ。(後で考えれば 伏線になる記述はあったにはあったんだけど)

芸能人の書いた本だし、と侮られたくない、軽妙な読みやすさやライトノベル的な文章表現を使わないという作者の意気込みが 1冊目の冒頭から感じられ、骨太な作品を綴っていこうとする作者の気持ちが伝わった作品でもありました。

なかなかアダルトで色っぽいシーンも挿し挟まれるあたり 昨今アイドルのイメージの縛りも緩くなって 様々な個性が求められ、許容されるようになってきたのだなぁと思ったのでした。


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# by nazunakotonoha | 2018-06-22 13:03 | 未分類(国内の作家) | Comments(0)

戦争で死ねなかったお父さんのために (1979年)

どんな出来事も劇的な展開が必要とされるのだ。




戦争で死ねなかったお父さんのために (1979年)
  • つかこうへい
  • 新潮社
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書評

「郵便屋さんちょっと」「初級革命講座 飛龍伝」「熱海殺人事件」「出発」「戦争で死ねなかったお父さんのために」の6作が収録された つかこうへいの戯曲集。

どれも 3人から6人程度の少ない登場人物で、それぞれ同じ場所で繰り広げられる会話劇だ。

「飛龍伝」に関しては旬の女優さんを主演に再演を重ねているようだ、というのは最近のTVで見かけた話題だが、どうも雰囲気が違う。この「初級革命講座 飛龍伝」とは登場人物も扱う角度も別の物語になっていることに納得した。どの作品もどんどん内容を変化させて再演を繰り返しているようだ。
演劇は「生もの」(イキモノでもありナマモノでもある)だなぁと思う。

会話は連想ゲームのようにつながり、ひねくれ、行きつ戻りつし 急に想像の世界へぶっ飛んでいき、時にサディスティックないたぶり合いに、時に演歌調、昭和歌謡風に 目まぐるしく変化しながら進行していく。そして だんだんと人間関係や背景や事件の本質が見えてくるのだ。

「郵便屋さんちょっと」では郵便局でストライキをする局長と局員たちが、「初級革命講座 飛龍伝」では学園紛争で勇敢に戦った過去を持ち 今は挫折したといいつつ息子の嫁と平穏な生活をしている男と 元機動隊員が、「熱海殺人事件」では刑事や巡査部長たちが実は犯人ではないかもしれない男を囲み、「出発」では「家出したお父さん」とその家族が、「戦争で死ねなかったお父さんのために」では戦時中に手違いで赤紙が届かず 今頃届けられた男を警察署長と郵便局長たちが、それぞれ事態を更に「劇的」にするべく演出を施していく。

殺人事件も父の一時の不在も挫折した人生もこの世界では皆「理想の展開」を無理やりにでも創り出そうとやっきになる。事実なんてこの際どうでもいい。マスコミに報道された時 視聴者が納得する筋書きや盛り上がりが求められるように 普通の生活で、誰からの見栄えや感想を気にするはずもないことでも 彼らは皆 自分たちの求める「筋書き」へと演出を 時に団結し、時にそれぞれ自分勝手に施していくのだ。

一見 荒唐無稽で 無茶ぶり満載で お芝居なればこそ、と思いがちだが、実際に引き寄せて考えると 多かれ少なかれこういう「演出」ってあちこちに存在しているのではないだろうか。大衆に求められる「犯人像」とか 自分に都合のいい相手との関係性とか より見栄えのするよう捻じ曲げられる現実とか。

舞台で役者が演じる演劇という空間で 一般の人々(の役の役者)が「日常」の中で「演出」をし「演技」を する。本人たちが大真面目で大げさであればあるほど 見る者にとっては滑稽で馬鹿々々しい。コミカルな会話に引き込まれながら 人間の中に潜む傲慢さやエゴイズムを感じ取る。

デモだ、ストだ、学園紛争だ、なんて題材は今はもうずっと昔の物語で 大学生がヘルメットを被って政治を叫んだり 警棒で殴られ火炎瓶が飛ぶなんて 若い人たちに受けるだろうかと思ったのだが 内容を変化させながらも再演を続ける「飛龍伝」のことを思うと 今の自分に身近なテーマではなくても心を引きつけて止まない「物語」というものの「力」をしみじみと感じるのだ。

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# by nazunakotonoha | 2018-06-22 08:07 | つか こうへい | Comments(0)

ジーキル博士とハイド氏

「善と悪」人間の二面性に 踏み込みすぎた博士の話

ジーキル博士とハイド氏
  • ロバート・ルイススティーヴンスン
  • 光文社
  • 560円
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書評


何の予備知識もなく全く白紙の状態で読み始めたなら 推理小説的な謎解きの興味で読んだかもしれません。まず 素直に筋を追ってみることにします。

善良で人徳のあるジーキル博士の、友人で弁護士のアタスンはいとこのエンフィールドから恐ろしい人物の話を聞かされます。たまたまぶつかった少女を踏みつける悪鬼のような男の話です。どんなにその人物が嫌な印象を与える外見だったかを聞き、アタスン自身も彼を目撃し、印象を同じくします。

それが「ハイド」と呼ばれる男で、その男に、博士が自分の財産を譲る遺言状を書いて自分に託していることに アタスンは納得がいきません。どういう関係なのか、あんな身の毛のよだつ形相の男に友人は「恩義」を感じてでもいるのか。脅されているに違いない。そう思う訳です。

ハイドの悪行はとどまるところを知らず、ついに何の罪もない紳士を死に至らしめるのです。そして、ハイドは姿を消して現れない。悪人はどこに行ってしまったのでしょう。

愛すべき人物ジーキル博士が今度は屋敷に閉じこもって出て来なくなります。友人として当然心配します。屋敷の使用人たちも心配しているようです。

博士と研究上の行き違いか見解の相違かが原因で付き合いを断っている医師ラニョンのところに 奇妙な依頼があります。ジーキル博士からの手紙です。そして その依頼を遂行した医師はひどくショックを受け、すっかり弱ってその後 亡くなってしまうのです。


博士は引きこもったまま出て来ませんが、部屋にいるのが博士ではなくハイドではないか、忠実な召使とアタスンは協力して部屋に乗り込み、そこで見たのは…。

その後が タネ明かし。ラニョンからの手紙と 博士の遺書で すべてが解ります。


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極端に善い人と悪い人が出てくる話だったような気もしましたが それではあまりにもお伽噺的だし、そういえば善と悪の二面性、二重人格的な行動から 事件が起き、何らかの悲劇的な終末を迎える話だったかな、くらいには思っていました。

真っ白な状態ではなくても、事情の分からない博士の友人が語り手のため、非人間的で残忍なハイド氏の存在を知ったところから 謎を解き明かすまで、彼と共にジーキル博士の安否を心配し事件の真相を想像しながら 読み進めることができました。

以下 ネタバレを含まないと書けませんので 読んでからにされる方はここまででやめた方がいいかもしれません。


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ハイドと呼ばれるその男は大変嫌な印象を与える外見を持っています。その残忍な行動を知らずとも、顔を見ただけで不快なものを誰もが感じる、という具合です。全身からにじみ出ているような、それが何なのか。
古い本なので、今なら「差別的」だと言われるんじゃないのかな、という表現が気になりました。新訳や他の本ではどのように表現されているのでしょうか。

ジーキル博士が「善」の塊で ハイド氏が「悪」の権化だ、という訳ではないところがこの物語の大事な点だと思います。ジーキル博士は 善悪併せ持つ「普通の人間」なんですよね。でも、善きひと、尊敬されるひとであろうとしすぎると 人は苦しいもの。「本当の自分」とのギャップを感じるのでしょう。彼は自分の「悪」を開放することを望むのです。

彼の背徳の研究は密かに成功し 完成したある薬を飲むと何の罪悪感も持たずに悪を行える「ハイド氏」となって街を歩くことができます。少女を踏みつける事件は友人のいとこに目撃され、そのほかにもあえて明かされないものの、様々な悪徳の快楽を得ていたようではあります。その間の解放感、爽快感を博士は覚えているのです。外見が期せずして変わってしまうこと(悪い印象が表情や顔つきに出る、というだけでなく 身長も皮膚の色や体毛の濃さも変わるようです)で、博士にとっては自分でありながら自分ではない。もちろん「ハイド氏」にとっても外見が「博士」に戻ることは 裁きの手から逃れる格好の逃げ場となるのです。

そんな事情など、だれも知りません。博士は自分の財産や屋敷を「ハイド氏」でも使えるように、また「ハイド氏」としても存在できるように家を用意したり、忠実な博士の召使たちに対しても「ハイド氏」が屋敷に自由に出入りできるよう色々言い含めます。

ハイド氏が行きつくところ「殺人」という罪を犯してしまったのは 読者にも想像できたことでしたが、それよりも博士が恐ろしく思ったのは 自分でその「変身」が制御できなくなってきたこと。目覚めたらハイド氏になってしまっていたことで、もういつハイド氏のままになってしまうか解らない。ハイド氏の姿のままになれば 殺人鬼として捕えられてしまう。

古い物語でありながら ただの怪奇小説には留まらず、現代にも通ずる人間の心の問題に踏み込んでいて、とても考えさせられてしまいます。博士の苦悩が、ハイド氏となって殺人などの「罪を犯した」ことになかなか至らない、そんな「人間らしさ」を描いているのが 怖いのです。


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# by nazunakotonoha | 2018-05-19 10:23 | 海外の作家 | Comments(0)

濹東綺譚

結局は 結ばなかった女性との思い出が後を引き。

〓東(ぼくとう)綺譚
  • 永井荷風
  • 岩波書店
  • 483円
Amazonで購入
書評

美しい恋の思い出は男子の胸にずっと切なく残るのだ、というのは 古今東西の文学や最近TV放送のあったアニメ映画でもあり。荷風先生の名作と誉れ高いこの作品にこんなキャッチコピーですみません。
「結ばれ」なかった、ではなく、「結ばない」。本人が諦めて断ち切ってしまっているのだ。たいていの場合。でも、その割には気持ちはいつまでも引きずっていて、ついつい美しい思い出にしてしまうのよね。男子は。


「失踪」という作品を描きながら 若い娼婦お雪のところへ通う作家の「わたし=大江匡」。
名の知れた作家らしく、色街通いなどを報道されないよう身をやつし、報道、出版関係者や知り合いに会わないようこの街の人に混じるようにしてお雪のところに足を向ける。(かつてカフェ通いを報道されたことがあるらしい)

出会いは突然の雨。傘に入れてといきなり入ってきた その女性がお雪だ。中年作家の「わたし」とお雪は親しい間柄になる。このシチュエーションはできすぎだと指摘される前に、本当にそうだったんだもん、という大江の、そして作者の言い訳が微笑ましくもある。
 家で創作をするにも隣家のラジオがうるさいというのもあり、ぶらぶらと散歩する大江。そして偶然出会ったお雪と、彼女の住む界隈がいたく気に入って通うのだ。上階で客を取るお雪の邪魔にならないように客の来ない時間を一緒に過ごし、そっとその場を去る。「仕事」とは別に世間話をしたり、留守番をしてやったりと、「なじみの客」とも違う、特別な関係とお雪も認めているようだ。

「わたし」はお雪に本当の素性を話さない。自分は名の売れた作家だと言ってしまうと 彼女との今の関係が崩れると思っている。そして商売を捨てて妻となった女は豹変してしまうのだという。お雪は彼が借金返済に追われた危なげな商売をする男だと思っているようだが、日がたつ内に情が深くなっていき、いずれ一緒になって欲しいという気持ちを示すのだ。

大江は、「作品の取材のため」お雪のところに通う。女には怪しい商売の男のように見せたままでいる。そして 一度だけ着物を買うお金を与えて そろそろ消えようと思っているのだ。十分に未練もあるし、執筆中の小説「失踪」の主人公のように妻子持ちで家出の身というわけでもないのに。

風情のある挿絵と共に、街のざわめきや華やぎ、ちょっとうらぶれた感じ、下駄の音、煩く飛び回る蚊の羽音まで聞こえて来そうな筆致。降り出す雨や蒸し暑さ、季節の移ろいや月の空、この小説が愛され続けているのは こんな細かな描写の美しさ故だろう。そしてなによりお雪さんの人となりが、現代の女性読者にも受け容れられるような 賢明さやさばさばした感じを与えるからだと思う。

物語の最後について「再会」や「その後の彼ら」を書くことで感傷や感動を煽らないというのは潔くて良いと思う。また、そこはそう書きませんよ、ということを敢えて「書いて」いる点も面白いと思う。

古き良き時代、活気があって猥雑で得体のしれない人間がうろうろしても普通に受け容れる界隈。土地勘のある人ならもっとタイムトリップした感じで楽しめたのかもしれない。


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# by nazunakotonoha | 2018-04-27 09:29 | 未分類(国内の作家) | Comments(0)

兎の眼

クリスマスにはハートウォーミングな物語を(2017.12月に「本が好き!」のサイトに投稿したものです。


兎の眼
  • 灰谷健次郎
  • 角川書店
  • 600円
Amazonで購入
書評


と、言っても 全然クリスマスとは関係ない物語です。
でもね、どこかにサンタさんみたいなおじさんが、純真な妖精みたいなこどもが、天使みたいな女の人が出てきます。


きっと見る目さえあえば、ゴミ処理場のある街やそこに住まう人たちにはもちろんのこと、嫌われ者の昆虫にも鑑札つけていない犬にも 素晴らしい「宝物」がたくさん隠されているのでしょう。

今のごみ処理施設やクリーンセンターはきっともっと「清潔」な外観で、携わる人の衛生にもずっと気を配られいて、臨時の職員さんとその家族がいたって、衛生的に悪い環境で住まわせていることは無い、と想像します。現状を知っているわけではないのですが。

ただ、今回この物語を読んで ごみ処理の現状はどうだろうとか、どんな職種であれ不当な扱いを受ける従業員さんたちその家族がいる場合、行政などの大人の勝手な事情で子供たちに不利益が生じる場合どういう戦いが起き、どう解決をされていくのだろうかと社会的な問題に興味を持つという方にいくのは ここでは辞めておこうと思います。実際の教育現場にいる教員の方々が読んで、時間的な制限や 障害をもったこどもを引き受けるクラスの在り方についても、現実的な見方で色々こんな風にはいかないよ、という嘆きや苦言も聞こえる気がします。

それくらい美しい ハートウォーミングな物語、ある意味ファンタジーの世界でもあると思うのです。何回 泣いたでしょう。悔しさの涙とそれを超えられたうれしさの涙と 周囲の温かさへの感謝の涙。主人公の若い女先生、小谷先生も泣き虫ですが、私もすっかり泣き虫になって読んでいました。


舞台は 大変旧式で不衛生なごみ処理場のある町。ごみ処理場内に住む子供たちの環境も悪いのですが 町全体にも灰が降り迷惑しています。だから 処理場自体の移転や近代化はおおむね歓迎なのですが、子供たちの家族の住まいまで 埋立地に移転、子供たちは転校を余儀なくされることになります。小学校までは遠いし トラックなどの危険がいっぱいです。

何より 今の学校には子供たちの大好きな先生たちが居る。それは子供たちでも指折り数えて名前を上げられる数人の先生です。(他は自分たち処理場のこどもを馬鹿にしていたり 親身になってくれない先生だっているのです。)
処理場のこどもたちの中の一人「鉄三」は小谷先生の受け持ちです。
カエルを踏みつぶし、友達や先生にもつかみかかり引っ掻く、小谷先生にはひどくショックでダメージを受ける事件だったのですが それでも「どうしてこの子はそういう行動に出たのだろう」という小谷先生の気持ちが 徐々に鉄三を知り、後にその事件の意味を教えてくれるようになります。ただ、学力のない、粗暴な少年と括ってしまわなかったことが とても大事なことだったのだと思います。

ハエ。鉄三の家に訪問を繰り返すことで知ったのは鉄三がハエを飼っていることでした。最初は「ハエは病原菌を媒介するから」と飼うことを辞めさせることしか考えなかった先生が 少しずつ「ハエ」を通して 鉄三の心に近づき、外に向かって閉ざした鉄三の気持ちを開き始めます。
処理場の子供たちは仲が良くて 鉄三が喋らなくても気持ちを汲み取るように声かけできるし、鉄三がハエや犬のキチを大事にする気持ちをよく知っています。もちろん彼らは ずっと字が書けなくてもしゃべらなくても 大事な仲間として鉄三を扱ったとは思います。でも小谷先生の 自分の時間を投げ出しての先生としての取り組みは素晴らしいことだと思うのです。
世界には色々なものごとを極める研究者がいて、嫌われ者のハエだってその研究は絶対に役に立つ。鉄三が世界に役立てたいなんて思ってやっているわけではないけれど、やっぱり役に立ったことで新聞にだって載ります。

虫の図鑑を持っているので ハエのところを見てみたい気もずっとしてはいるのですが、まだ勇気がでません。小谷先生、凄いです。

鉄三とハエの話、キチを野犬狩りから奪い返す話、資金稼ぎのための廃品回収の話、ラストの処理場移転とこどもたちの話のほかに 大事なエピソードは みなこちゃんというクラスメイトの話です。こどもの小学校でも同じようなことを聞いたことがあります。授業に集中できないこども、多動でひらひらとどこかに行ってしまうこども いわゆる周りに「めいわく」をかけるこども(その子によって「障がい」という名前があったり 個性と言われたりまちまちですが)がクラスにいて、その子と触れ合うことによって周りがどう変わっていったか。隣の席の淳一くんの変わりようと、彼のお母さんの変化が特に感動的です。もし、こどもたちに「ゆとり」を求めるならば こんな風に授業の進行を止めても誰かに寄り添ったり付き合ったりしながら いつか楽しさや喜びを共に感じて 笑えるようになる時間を与えてやることだと思うのです。

他にも 不衛生な子供に給食当番をさせるかという職員会議の話、鉄三のおじいさんの「バクじいさん」の苦い過去の話、小谷先生と一般の会社員である夫との心のすれ違っていく様子など、これは大人の読む物語だよな、と思わせます。ずっと小谷先生の目線で書かれている点もありますが。

足立先生が大好きで 飛びついて頭までよじ登っちゃう子供たちがいて、小谷先生がそんなに愛されるこの「教員ヤクザ」な先生にやきもちを焼く気持ちも解るし 商店街で父兄に呼ばれ、ドキドキしていけば、「皆先生の味方だ」と力づけてもらうシーンなど 小谷先生にどっぷり感情移入して涙してしまいました。

今の教育現場ではもっともっと 深刻な問題があったり、逆にもっと素晴らしい感動や小さな喜びや悲しみの積み重ねがあることと思います。淳一を始めとするクラスの皆の優しい変化、そして特記すべきは鉄三が「みなこちゃん当番」だった日の目の覚める思い、子供たちのそれぞれが持っている素晴らしい宝物をプレゼントされた 良いクリスマスとなりました。

メリークリスマス。


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# by nazunakotonoha | 2018-04-02 22:46 | 灰谷健次郎 | Comments(0)

いつか記憶からこぼれおちるとしても

こぼれ落ちた記憶のかけらも 時折拾って手に載せてみる。

いつか記憶からこぼれおちるとしても
  • 江國香織
  • 朝日新聞社
  • 500円
Amazonで購入
書評

 高校生の自分はどんなだったかな。女子なら皆 物語に重ねて自分を省みる。もっと普通の子で素直で、友達のことが純粋に「好き」でいただろうか。それとももっと、物事を重く、深く考えていただろうか。

 そこそこ経済的には恵まれた層の通う女子高。その一クラスの何人かの女の子たちの一話ずつ主人公の入れ替わる短編集だ。
だれもがそれぞれに「主人公」っていうのはよく言う言葉だけれど、本当にそうなんだよな、と思う。そして、親や友達に向けるおしゃべりの言葉、態度や表情でさえ、本人にとっての「ほんとう」かどうかなんて 他の人には解らない。本音を言って喧嘩もしない。相手の言葉に傷ついたとしても、それほど気にしなかったことにするか、架空の「毒の飴」を日記の中で相手に与えるだけ。そうやって自分たちの平和な世界を守っているのだ。(「飴玉」の彼女は少しだけ行動に出るが、今まで通りの平和な世界を壊すことはない)

 グループの仲間としてつるんでいても、互いに容姿や性格を褒め合っていても 誘われて断らなくても、それぞれが「自分はそれだけじゃない」と心に秘めたものがある。そしてそれが それぞれの他の誰でもない、「自分」であるプライドだ。

全てが読んでいて気持ちのいいものではない。読者が同性なら、「痛い過去の自分」を突きつけられているようであり、異性なら 女子高生にもっと夢を持たせてほしいと思うかもしれない。
だけど、上手いよね、と思うのだ。誰を「悪い」ともせず、ちょっとした「嫌な感じ」や「辛い時間」を、それこそタイトル通り「いつか記憶からこぼれ落ちる」ものとして さらりと扱うのだ。


 グループに属さない「高野さん」が 油性マジックを借りようと声を掛けるシーンが何回か繰り返される。同じ時間を描いていること、同じ人物がそれぞれの角度から見えることが解るシーンでもある。

その油性マジックに関連して 病んだ友達を支える「コータロー(これは意味を知ると酷いあだ名だと思う)」を怒らすことになるが、逆に他の女子と高野さんが違うところ 「ほんの少し好き」だと思える面に繋がっていく。歪んではいるが純粋な女の子の気持ちをあぶりだしているように思えるのだ。
 
 そして最終話に「美代」というコケティッシュな少女に翻弄される男の話がある。美代=「高野さん」だというのは ネタばれになってしまうが、勝手にイメージしていた彼女の容姿を、すっかり覆されたのだ。(よく読むとどこかに そんな彼女をにおわせる記述があったのかもしれないが)



それにしても、江國香織の作品のタイトルはどれも 魅力的だ。


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# by nazunakotonoha | 2018-03-05 10:59 | 江國香織 | Comments(0)

わたしの出会った子どもたち

灰谷健次郎というひとを改めて知る一冊。


わたしの出会った子どもたち
  • 灰谷健次郎
  • 角川書店
  • 480円
Amazonで購入
書評

 灰谷健次郎という作家について 随分間違った思い込みをしていたことが解った。
児童文学の名作を次々と産み出し、皆に賞賛と共感を持って遇せられる「教育評論家」とか「児童心理学のエキスパート」とかそんな肩書の「先生」のイメージを勝手に持っていたのだ。
「兎の眼」「太陽の子」の題名とあらすじはうっすらと知っていた。こどもの素直な気持ちを引き出した詩を紹介し、弱い者、傷ついた心に寄り添う そんな「出来上がった」人だと思っていた。

 実家の本棚にあって、自分が買った本だということは知っている。ずっと以前に何故この本を先に手にしたのだろう。最初に読んだ頃の印象が思い出せない。けれど、きっと その思い込みを打ち砕くものがここに書かれていることを 感じっとったから読んでみようと思ったのだと思う。当時だって読みたかったのは「偉い先生」の「ありがたい話」ではなかったはずだから。


 灰谷健次郎はまず、極貧の生い立ちを、またその環境でやむなくやってしまった「罪」を思い起こす。そして家族のこと、仕事求めて毎日並ぶまだ子供の自分に、声を掛けてくれたタッちゃんのこと。お兄さんを自死で失った悲しみ。自分がお兄さんの本当の苦しみを理解していなかったという後悔を隠さず書く。「おかまの」タッちゃんの明るさはどこからきたのだろう。貧しいということの辛さや虐げられた人の苦しさを、当時の自分はまだ本当に解っていなかったことに気づくのは それからずっと後のことだ。
 学校の先生時代も、数々の失敗を繰り返す。子供自身が灰谷先生の言葉に「はらがたった」と詩につづり、また別の時にも 引き受けたある授業で心ない言葉を言ってしまったことを先輩の先生から指摘される。(作家としても 作品や作品の一部分に差別的な感覚や現状を理解していない点を批判されたことも 後で調べて知った)障がい、貧困、周囲の無理解の中で、もがき、苦しみ、それでも明るく優しい子供たちに心を寄せ、こどもの内にある無限の可能性を信じるこの先生でも、まだまだ未熟だと反省する場面が多くつづられるのだ。

 そして 先生を辞めて放浪する中で、苦しい思い出を持ちながら 逞しく生きる沖縄の人々に出合い、今まで気づけなかったことを知る。沖縄で出会った人たちの明るさ、大らかさ やさしさは、決して呑気で平和で満ち足りた過去から来ているわけではないのだ。傷ついた人だからこその優しさを灰谷先生は肌で感じる。そのやさしさが彼の中にしみ込んで 自分の今までの傲慢さを省みさせるのだ。若い頃出会った人たちの本当の苦しみと悲しさを思い、それでも明るかったその人たちのやさしさと強さに気づくのだ。

 「たいようのおなら」という子供の詩集に曲をつけて 矢野顕子が歌っていたのを覚えている。楽しくて自然に微笑みが浮かぶような 子供の発想が素敵な詩は 矢野顕子の曲にマッチしていた。今でもいくつか覚えて歌えるその歌詞も灰谷健次郎が紹介した子供たちの詩なんだと、知った。(本作で紹介されていた作品の内に 覚えのある詩があったので検索した後解ったことだ。)

 こどもの持つ豊かな想像力、発想力、表現力は、「こんな風に書いてもいいんだよ」「こんなことも書いていいんだよ」という大人の誘い出す力で更に引き出されるのだろう。悪いことをしたこと、嫌な感情を持ったこと、やりきれない想いも、辛いことも、すべて受け入れて認めてくれる「先生」がいれば のびのびとした「詩」になる。そんな可能性を伸ばすのもつぶすのも周りの大人なのだということに気づかされる。良い先生に出合ったこどもたちは幸せだと思う。

 どんなに社会的に成功しても、過去の反省を忘れない、新しい気づきによって、誤りを認めれば正直に告白する。灰谷健次郎の作品の魅力はきっと、そんな人間にたいする真摯な態度から来るのだと思う。「兎の眼」「太陽の子」などの灰谷作品をちゃんと読んでみたいと思う。



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# by nazunakotonoha | 2018-02-19 21:20 | 灰谷健次郎 | Comments(0)

ことり

静かに生きるひとの物語。小父さんのことはちゃんと小鳥たちが知っていてくれた。それだけで十分だった。きっと。

ことり
  • 小川洋子
  • 朝日新聞出版
  • 626円
Amazonで購入
書評


 小父さんの死から始まって 遡って小父さんの一生をなぞり そして小父さんの死で終わる物語。
読み終えて少しの間何も考えられず、その後じわじわと胸が熱くなった。こんな読後感は初めてかもしれない。
ちょうど輪っかみたいにラストが冒頭に繋がっているために もう一度最初に戻ってみる。だけど、決して小父さんは生き返らない。

「ことりの小父さん」と幼稚園児たちが呼んだ。
自ら申し出て幼稚園の鳥小屋の掃除やエサの世話をずっと完璧にやり続けた人だ。そう言うとまるで子供に囲まれ、親しまれた、子供好きの優しい小父さんのように思えるが ただただ控えめで無口で、どちらかといえば子供が苦手な小父さんだった。

 小父さんにはお兄さんがいた。子供の時に人間の言葉を話すのをやめて、特殊な言語を話すようになった人だ。お兄さんの言葉は小父さんにはちゃんと解る。お母さんは心配し 医者に連れて行き言語学者にも頼る。だけど誰にも解らない。鳥が大好きだったお兄さんの「ポーポー語」。

 お母さんとお父さんが亡くなってから お兄さんと小父さんは二人でその家に住んでいた。小父さんはゲストハウスの管理人として働いた。お兄さんの毎日のきちんと決まった生活を守ってあげた。お兄さんの落ち着いた幸せを壊さないことが小父さんの幸せでもあった。

他の誰と繋がりたいわけでもない。ただ、崩れ落ちた「離れ」をそのままにした草木の生い茂る庭に来る、野鳥にひっそりとエサを置く。決して彼らのさえずりを邪魔しない。野鳥たちを見守って、その美しい歌を聞かせてもらえることを感謝して つつましく暮らしていたのだ。

やがてお兄さんも亡くなる。
お兄さんと生きることだけが小父さんの毎日だったから その穴は大きいのだ。

それでも やはり小父さんは淡々と日々を続けて行く。
それだけで十分だったのに、時々その日常に小さな変化を起こす人が現れては遠ざかる。小父さんは何も悪くないのに、不穏な事件の影が差す。だんだんと心配になってくるのだ。誰か新しい人が登場するたびに。小父さんのささやかな幸せが崩されませんように ひとかけらも悪意のない小父さんに災難が降りかかりませんようにと、読者は心から願うのだ。

 そして お兄さんを亡くした後でやっと巡り合えた相棒、傷を負ったメジロ。お兄さんに教えてもらった鳴きまねは メジロにしっかりと通じる。なんと幸せな時間だろう。小さなメジロがどんどん美しい歌い手になっていく様は、ほんのりと温かい温度をこの物語に与えてくれる。いつか飛び立つ日まで、そのはかない時間を小父さんが覚悟していることも解る。

小父さんは絶対に何かを独占したり 相手の自由を奪ったり 名誉や賞賛を欲しがったりはしないのだ。だから 最後に現れた「鳴き合わせ会」とやらでメジロを勝負に使う男は相いれなかった。当然だ。求愛の相手のふりをしてメジロを騙して鳴かせて、勝ち負けを付けるなんて 小父さんの、そしてお兄さんの受け容れがたいことだ。野鳥を自由にしなければいけない、小父さんはあの愛する相棒を、明日にも放つことを心に決める。

 小川洋子の作品には いつも不思議な仕事や店、本当にそんな習慣や言葉があるのだろうかと思うような様々なものが登場する。まるで夢の中で見たような掴みどころのない何か、それなのにこと細かに羅列される現実感のある小物たち。非現実、想像 創造 虚構そんなものたちが 当たり前の顔をして登場し、静かで冷たい、でもどこかに小さな光と温かいものが隠れているような そんな世界だ。そしてその冷たい薄明りで見つけたような 小さな光と温かさが読者の胸に、忘れがたい何かを与えてくれる。

 時代は移ろう。あの不穏な事件が無くてもきっと、幼稚園の門には鍵が付いただろうし、鳥小屋だっていつしか無くなってしまったのかもしれない。ゲストハウスは様変わりし、小父さんは定年を迎え、薬局の店主は世代交代し、兄弟が「ポーポー」と呼んだ飴も取り扱いが無くなった。優しい司書の女性にも不思議な虫箱の老人にも会えなくなり、園児たちは卒園し大人になっていくだろう。地味で無口で人付き合いが苦手な「ことりの小父さん」のことを 思い出す人はどれだけいるだろう。

 でも小父さん、お兄さんにとって小父さんと生きた静かな日々が、多くの小鳥たちにとって小父さんが食べ物をを用意したあの庭や 幼稚園の清潔な鳥小屋が、大事な居場所だったんだよ。メジロは小父さんに会えて幸せだったんだよ。小父さんが居たことはちゃんと意味がある。ちゃんと何かを与えてるんだ。そんな風に思うのだ。

 冒頭、ループした構造のこの物語を読み返しても「小父さんは還らない」と言ったけれど、言い直す。還らないけれど、無くなってもしまわないのだ。小父さんはずっと、ことりたちと共に居る。恥ずかしそうに、申し訳なさそうに。

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# by nazunakotonoha | 2018-02-17 21:56 | 小川 洋子 | Comments(0)

サーカスナイト

文庫版で入手。
たくさんの悲しみや大変な出来事を越えて 優しく繋がって生きる人たちの話。



サーカスナイト
  • よしもとばなな
  • 幻冬舎
Amazonで購入
書評


キャッチコピーを「たくさんの悲しみや大変な出来事を越えて 優しく繋がって生きる人たちの話」としたのだが、書いていて ああ一つ言い方が足りないな、と思った。

「優しく『生きる』人」と言う言葉を選んだけれど、この物語には大事なそのほかの人達がいる。「死んでしまった人たち」だ。けれどこれらの「死んでしまった人たち」こそ、この物語の中で大事な意味を持ち、彼らをを「生かし」、彼らのすべての時間や空間、自然の中に「生きて」いるのだ。

「物とお話ができる」不思議な力を持った主人公 さやか。この力で過去に警察と連携して事件を解決したこともある、なんて台詞もさりげなく出てくるが、そういう話ではない。(むしろそんな「力」は無くても 物語は描けたのでは?と思うのだが)
インドネシア、バリのような神秘的なものが自然に存在する場所で育ち、両親を事故で同時に失い、孤独になったさやか。そのさやかがバリの素朴で温かい人たちに守られ、やがて日本に来て神社を家とする一郎のもとにやって来る。きっと色んな「神様」がさやかを見守っていたのだと思う。

物語はそんな一郎の家にいた頃のことを後回しに(読者には謎のまま残して)、現在のさやかの生活から始まる。病気だった夫、悟をすでに亡くし、娘と二人で二世帯住宅の二階で暮らしている。階下の夫婦は亡くなった夫の両親だ。
今の生活は穏やかで幸せそうで、自立して爽やかな考え方を持つ階下の住人とはとてもいい関係を築いている。実に理想的な嫁姑の関係だと思う。娘のみちるも素直でかわいい。時に大人びたところもあるが 曲がったところのないとてもしっかりした良い子だ。子供らしさとのバランスがいい。

悟は自分の病気が重いのを知って、「良い友達」だっただけのさやかに子供を産んでほしいという 随分順序の変わったプロポーズをして一緒になった人だ。
余命が短いこと、いずれは子供が父を失うことを覚悟の上「尊敬する友達」の悟と結婚する。さやかはそういう決断ができるが人だ。けれど悟自身が そういう決断をさせるだけの素敵な人だったことや、口にはしなかったし、さやか自身は気づいていなかったけれどきっと 彼はさやかのことを本当に大好きだったのだろうと、義母が言うのは説得力がある。恋愛を口に出さなくても、順序が逆でも確かなつながりを持って家族でいた日々がそこにはあるのだ。

冒頭そんなさやかの、夫の悟を亡くしてからの日々が描かれているが、少しの寂しさはあるものの安定した幸せな感じに包まれている。
色々な辛い経験が影を落としていると言えば、義父母との心地よい関係も永遠ではないことを覚悟しているところだろうか。人やものに執着を見せない、別れを諦めている様子が解る。
そしてそこに「事件」として手紙が届く。さやかとみちる、義父母の住む家の庭に 以前の住人が何か大事なものを埋めたままにしているので掘り起こしたいという手紙だ。そして更にその差し出し主が過去さやかの恋人だった一郎だったという偶然。
さやかが「ものとお話できる」という力はそこで発揮される。一郎との連絡を待てずにさやかが掘り起こしたものは 骨のかけらで、さやかの力でその骨が幼くして亡くなった一郎の双子の兄のものだと解るのだ。

それでもこの話はホラー展開にならない。ありがちな恨み嫉み悪意といった そういうものがさやかの周りに存在しない話なのだ。死者もまた生きている彼らに優しい。色々な縁を結び、癒しをもたらすのは 亡くなった大事なひとたちなのだ。

さやかの片手が曲がって動かないわけも、さやかが一郎の家族を好きでいながら離れなくてはいけない苦しい思いをしたその原因や経緯などは なかなか明かされず 謎のまま話は進む。さやかの父母が無くなったこと、悟が亡くなったことのほかにも辛い苦しい過去があるのは解るのだが それが何かは長い間ぼかしたまま話はゆっくり進行する。

実のところその話は随分と突飛なもので、緩い日常や穏やかな家族の物語の中に違和感としか言えないバイオレンスな展開を含むのだが、だからこそ、その結果さやかが一郎の家族から離れて バリに「逃げて」行く理由となってくる。「工作員」とか「生きた殺人兵器」とかもちろん冗談での言葉で一郎も言うのだが それくらいさやかの行為が日常からかけ離れて想像を絶していたのだと思う。(読者にとっても…なのだが)

色々な紆余曲折も大事な人を失う悲しみも、この物語ではすべて心の中で穏やかな別のものに変わっているように思う。それは「終わったこと」として遠ざけられているのではなく、いつもそばにある温かな空気のように、生きている彼らの幸せを願い、優しく包み込むようなそんなものとして さやかが感じ取っているのだと解る。
さやかの想いや考えが沢山書き込まれている。この世界 この時間はたくさんの自然や過去の時間や死んでしまった大事なひとたちと繋がっているのだということを繰り返し美しい言葉で語られるのだ。それはたぶん 作者がずっと考えて来て ずっと言いたかったことばたちなのだろうと思う。あふれ出してとどめることがどうしてもできなかったかのようだ。

残念なのは それらがあまりにも冒頭から多すぎて どこをピックアップしたらいいのか 読者にも解らなくなってしまうところだろう。すさんだ世界がだんだん癒され許されて最後の場所にたどり着いて落ち着いた、という話ではなく、やはり最初から人のつながりが温かい物語として描かれているからだろうと思う。


今、傍に居ない大事な人たちを想いながら 長い時間を掛けて 少しずつ読むのにとても合った本だと思った。


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# by nazunakotonoha | 2017-12-18 17:13 | 吉本ばなな | Comments(0)

九十歳。何がめでたい

86歳の父と一緒に楽しく読めると思い購入。



九十歳。何がめでたい
  • 佐藤愛子
  • 小学館
Amazonで購入
書評


話題の本である。テレビのCMで90歳オーバーのご老人たちが「この本は面白い」と言っている。
そもそも本のTV CMも珍しい気がするけれど。
これならきっと、父も楽しく読めるだろう。嫌な話題もないだろう。読んで落ち込むこともなさそうだ。

うちの父も身体が全体的に弱り、耳が遠くなり、心臓も大事に大事にしないといけないので上り坂は避けている。
なにせ急な坂ばかりの住宅地に住んでいるので 気軽に散歩も楽しめない。坂を下りて電車に乗り、買い物をして図書館で本を借りていたのに、今度は目が疲れて本を読むのを面倒がるようになった。
眼鏡を替えたら?眼鏡型拡大鏡はどう?というものの 本人に改善したいという強い希望が無い。新聞は読んでいるので それでいいなら、と思っていた。

それにしても 読まないままの本が置きっぱなしになっているのを見るにつけ、ぜひとも先を読みたい本に出合えば また読書の楽しみも戻るかな、と気になっていた。

神戸を散歩したとき、灘中学校と甲南女子高校の話や遠藤周作やこの本の作者の佐藤愛子の話が出た。父よりもう少し年上だし、面識はもちろんないのだが近隣に住んでいたこともあるということで 彼らが絡むエピソードについては 何で読んだのか聞いたのか、よく知っていた。
佐藤愛子さん、美人で灘中生の憧れの的だったそうだ。(帯に今のお写真があるが綺麗に歳を重ねておられると思う)

内容は「お歳よりあるある」で、人によっては「よく言ってくれた」「自分も思っていた そのとおり!」と小気味良い毒舌に拍手ものなのだが、父はあまりにも自分と「同じ」すぎて 新たな感動や感心はなかったようだ。こんなに自分が日々感じたり思ったりしている普通のことを書いて「ベストセラー」なのか、と 文章を書くのがすきだった父は思ったみたいだ。すでに「作家」のひとはいいなぁ、と。

さりげなく描く、書く、さらりと楽しく読める、ということは それなりに作者の安定した技術があればこそだと思う。誰でも面白く書けるわけじゃない。

そんなことを考えながら 元気な愛子さんの存在が多くのお年寄りを励ますことを嬉しく思う。これからもどんどん元気に歳を重ねる人気現役作家さんが増えることを願っている。




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# by nazunakotonoha | 2017-12-02 20:31 | 佐藤愛子 | Comments(0)

窓の向こうのガーシュウィン

フレームに入れて残したいくらい優しくて美しい世界は、ずっと寂しくて切なくて愛おしかった。



窓の向こうのガーシュウィン
  • 宮下奈都
  • 集英社
  • 562円
Amazonで購入
書評


主人公の佐古さんは、ずっと自分を「足りない」者だと語っている。
未熟児で生まれて、親が保育器に入れてくれなかったということが始まりのようだ。

でも佐古さんは「足りない自分」をそういうものだ、と認め、諦めて生きてきた。
クラスメイトのおしゃべりも学校の授業も 先生の言葉も すべて最後まで聞き取れない。雑音が入り、意味がくみ取れない。

それは聴力や理解力や集中力といった持って生まれた、あるいは育つことのできなかった能力のせいかもしれないけれど 佐古さんはそういうことで、親を恨んだりもしない。少しずつ自分のやりかたで 周囲とできるだけ折り合うのだ。頷くこと、同意すること。本当のところは 相手の言っていることを全部理解しようということも諦めている。だからずっと「感謝すること」「幸せだって思うこと」も辞めてきたのだ。それは本人が後で気が付くことだけれど。

佐古さんは高校を出て ヘルパーの仕事を始める。勉強や学校生活は彼女には合わないし、なんとか就職できた先は倒産してしまったからもある。
短い期間で辞めさせられてしまう中、やっと続いた派遣先は「先生」のところで、そこには額装の仕事をする先生の息子と 時々訪ねてくるその息子(先生の孫)がいる。「先生」は何の先生なのかは解らない。けれど、そのきちんとした生活態度や落ち着いた物腰や話し方は「先生」と呼ぶにふさわしい。佐古さんは何故だか不思議と、先生の言葉なら受け止められて(雑音が入らずしっかり言葉が伝わってくる)、たくさんのことをそんな「先生」から受け取ることになる。
偶然だがその孫と佐古さんは同級生だ、もちろん学生時代には何の交流もなかったけれど。


温かい物語なのに 読んでいる間中ずっとどこか苦しかった。

苦しかった理由はたぶん 先生の「老い」のせいだと思う。佐古さんがこの家族にだんだん馴染み、幸せな心通わす会話やシーンが増え、佐古さんが徐々に心を開放していくのにつれ、先生の時間がどんどん「老い」を深めていくのだ。そしてそれは、人間として避けられないものなのだと、やんわりとではありながら ずしりと重く突きつけられる。
孫の隼がそれを辛いと感じ、佐古さんは佐古さんで考える。先生にとっての「今」について。先生自身にとってはそれは「悲しい」かどうかということについて。

隼は勉強も苦手で就職もできないままだ。先生のような「賢い」祖父を持っていることにコンプレックスを持って生きてきた。色弱で、父のような色彩センスの必要な額装の仕事にも向いていないと感じている。隼もまた、自分に「足りない」感じを抱え下を向いて生きてきた。
隼の父は無口な職人で 父とも息子とも少し距離がある。でもこの人が佐古さんに額装の仕事の手伝いを頼んでくれたのだ。この家庭のヘルパーとしてだけでなく額装の仕事も佐古さんの時間に大事な意味を加える。

佐古さんはすごい、佐古さんは偉い、佐古さんは賢い。そして佐古さんの額装への想いやこだわりを認めてくれる。
今まで佐古さんが聞いたこともなく、自分で思ってもみなかったことを この家族は言葉にしてくれるのだ。

「みんな違ってみんないい」というお話なのだ、と どなたかが書かれていた。本当にそうだと思う。
老人も無口な職人も、もと不良も、持って生まれた体の不具合も、「いいんだよ」と言っているようだ。色弱だという隼に、佐古さんは言う。人と違う世界が見えることは彼女にとって普通だし、それを説明する言葉を持つのは「いいね」。そういう考え方ができるのは 自分自身のものの捉え方が「みんなと違う」けれど、それをうまく説明できずにきた佐古さんだからなのだろう。「いいね」なんて隼には驚きの捉え方だったろうとは思うけれど。

そして 佐古さん自身が「私は私でいい」と思えることで、周りを認めたり愛したり、大事に思えたりする過程が 丁寧に丁寧に それこそ佐古さんの持つゆっくりした時間に沿って描かれる。

高齢の父を先生に重ねてしまい 私にとってはとても辛い展開でもあったけれど 「老い」は現実なのだから、余計に「今」の大事さを痛感したのだった。物語の最後まで先生が「先生」でいてくれて良かった。そして温かで穏やかな「蕗のとう」を七輪で焼いて皆で食べるシーンがくっきりと額に入れたような「美しい思い出」となったことが 凄くうれしい。




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# by nazunakotonoha | 2017-11-27 14:49 | 宮下奈都 | Comments(0)

こちらあみ子

いつかどこかできっと、あみ子のトランシーバーに応答が来る、と信じたい。


こちらあみ子
  • 今村夏子
  • 筑摩書房
  • 1470円
Amazonで購入
書評
「こちらあみ子」という題の意味がずっと解らなかった、私が鈍いのか。

そうだ、あみ子はトランシーバーをプレゼントされたのだ。

それは 生まれてくるはずの「弟(なぜか男の子が生まれてくると信じていた)」とのスパイごっこの遊び道具になるはずだった。けれど赤ちゃんは生まれることができず、母の心と身体を弱らせた。

あみ子のしたことで 母は更にダメージをうける。

あれは母を喜ばせ元気づける「お祝いの品」だったのに。
ちゃんと考えて 字の上手なのりくんに頼んで書いてもらった「弟の墓」の墓標。いい考えだと信じていたのに、母は泣いた。泣いて、沈んで、寝込んだままになって 結局あみ子を遠ざけてしまう原因ともなってしまうのだ。

最初から 何気ないあみ子の日常が あみ子の目線で楽し気に書き綴られているが あみ子がご機嫌でも歌っていても読者はだんだん気が付くのだ。
きっと訪れるあみ子にとって生きづらい世界。優しい人ばかりじゃない世界。

そしてまた思うのだ。あみ子のような子に「好きだー」って叫ばれる相手の困惑や、母、父、兄の抱える悩みや心配事。あみは子それでいいんだよ、いい子だねって言いたいのに、実際自分に引き寄せるとそう言えるだろうか、私が母ならば、兄ならば。


物語はたんたんと進み やたら感動をあおったり、悲惨な事実を突きつけたり、無理やり「考えること」を強要しない。誰が悪いとも言わないし、世間を批判するわけでもない。
あみ子とあみ子の周囲のできごとをとても素直に書き綴るだけだ。
それが 読者に何を突きつけるのかは相手に託しているようだ。

並大抵の作品じゃないぞ、そう思う。

そしてもう一作の「ピクニック」にしても然り。

妄想かもしれない 嘘かもしれない、と読者もうすうす思うのだ。売り出し中のお笑いタレントと恋愛中という七瀬さんの話を。
そして全てを受け入れる「優しすぎる」店の先輩たち。彼女たちにはそれが 夢でも妄想でもよかったのかもしれない。
騙されてる、とも思わない。七瀬さんのことも嫌いにはならない。

若い生意気な新人が現実を突きつけようとするけれど それも「優しい先輩」たちに阻まれるし、七瀬さんの世界は それくらいでは壊れない。そういうことではないのだ。彼女の幸せな世界を壊すことは。

ラストでその生意気な後輩も入っての「ピクニック」のシーン。仄明るい幸せな雰囲気はどこから来るのだろう、と考える。

あみ子のお母さんが得られなかった幸せがここにはある。「家族」じゃないからだ、本気で「迷惑」を掛けられることも、彼女の将来を気にする必要もないからだ。そういう説明もつくけれど それも違う。
「優しい先輩」たちにちっても 七瀬さんの居る幸せな世界が、それを認めて見守ることが 心の安定を約束するパラダイスだったのではないか。

口は悪いけれど、そうやってあみ子と自然にかかわることができる唯一のクラスメイト、あみ子には名前すら覚えてもらえない少年や 後年仲良しになった竹馬に乗ってあみ子を訪ねてくる少女の存在は同じように、物語に優しい風を運んでくれる。


読んでいる間の途切れない息苦しさは2作品とも同じだったけれど、決して重苦しくない、不思議な明るさのある読後感の作品だった。



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# by nazunakotonoha | 2017-11-11 00:36 | 今村夏子 | Comments(0)

ピンクとグレー

「ごっち」と「りばちゃん」。芸能界を駆け上がった者とくすぶったままの者。幼馴染。
引き合っただけ反発する心。
こんな最後しかなかったのだろうか、と切ない。


ピンクとグレー
  • 加藤シゲアキ
  • KADOKAWA/角川書店
  • 605円
Amazonで購入
書評


作者が今 TVをつければかなりの頻度で会えるジャニーズのアイドルグループの一員だということは ここでは問題にしないでおこうと思う。
もちろん 作者が実際そういう環境に居ることもこの作品を創り出す一要素になっているはずだけれど、ちゃんと作品として評価するのに 必要ではない気がする。

映画ではまた構成を再構築しているらしい。
主人公たちが生きる映画やドラマといった「虚構」で表現する世界と、彼らの「現実」の世界を絡め、映画を観る人まで巻き込んで 大きなどんでん返し的な仕掛けを入れてくる、という映画を作る人の意気込みも頷ける。この小説はそれだけ魅力的な「素材」でもある。
この「現実」が小説内の、というところがまた更にフクザツだ。加藤シゲアキ自身のノンフィクションでは 決して無いからだ。


小説もなかなか凝った構成にしてある。こちらはこちらで映画のようなミステリー仕立ては狙ってはいない。それでも 時間軸を行ったり来たりすることで(章の題名に年齢とその時期に関係する飲み物の名があるのが面白い。)謎を残し続きを読みたい気持ちを引っ張る原動力にもなっている。

少年時代の出会いからずっと親友だった二人の 微笑ましい様々なエピソード ごっちの姉の事故と死。高校時代 バンドを組んで歌ったオリジナルのナンバーの歌詞の意味、その本当の意味。
代理のアルバイトから始まったモデルの仕事。ずっと二人一緒だった、同等だった。同じ景色を見ていたかった。

二人いれば、同じ道を進めば いずれはやって来る葛藤。他人の評価やチャンスは二人同じようにはいかないのだ。当然生まれてくる葛藤、軋轢。

それでも 幼馴染のもう一人サリー(ずっと男の子だと思っていた。読者は軽く騙される)と再会しごっちと付き合い、二人の間の溝を埋めようと努力する。爽やかな彼女の登場する場面では 少しだけほっと気を抜ける時間でもある。ただそれが 後戻りできない辛い結末を予想させるのも確かだ。

「蓮吾(ごっちの芸名)」の 生きるのが辛くなっていく頃の気持ちは ごっちは語ることができない。
何故、は解き明かされることない謎を含んだままだ。

描かれるのは残された「りばちゃん」が様々な人の言葉や思い出や想像を紡ぎ合わせた「ノンフィクション」の出版物の文章でもあるからだ。そして くすぶっていた「りばちゃん」が芸能界で生き、「ごっち」の役を映画で演じることになる。これも「蓮吾」が望んだ筋書きなのだろうか。

そしてすべての幕切れまでのスピードは加速する。

題名に2色の色が挙げられる。目に見える「色」についての話、自分の「色」について。色が大事な意味を持たされているのは解る。映画もそこを捉えてカラーとモノクロを使い分けたようだ。さらっと読んだだけでは 作者が言いたかっただろう題名の2色の本当の意味あいが解らなかったのが残念だ。

主人公たちのニックネームの由来の「スタンドバイミー」や ごっちが父親の影響で知っている吉田拓郎の歌の一節、オリジナルの楽曲の歌詞、花の名前の意味など ちりばめられた様々なパズルのピースが 読者のイメージを膨らませる。

「読みやすくて先が気になる本を」と最近読書のスピードが落ちたので購入したこの一冊は 思った以上に内容が深くて重かったけれど、読んで良かった、と思う。

映画にはR指定してもいいようなシーンがあるそうだ。小説に全くないそういうシーンを入れられてしまったのは 観る人選んでしまうをという点でとても残念だと思う。


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# by nazunakotonoha | 2017-09-03 22:40 | 未分類(国内の作家) | Comments(0)

小川洋子ワールドにどっぷり。もう少し、前の1冊と間を空けて読めばよかった。



  • 小川洋子
  • 新潮社
  • 432円
Amazonで購入
書評

その時一気に2冊、同じ小川洋子作の「まぶた」と「海」を買ってしまったのだ。いつも行かない大きな本屋さんに並んでいたのであまりに嬉しくて。

さすがに数冊の間と期間を置いて読んだつもりだったのだけれど もう少し、もう少しだけ空けたら良かったのに、と思う。

ごく短い数編を含み、どの物語もやはり小川洋子。いつもどおり少しだけ不思議な状況や言葉、ひとや物が 日常の中に紛れ込んでいる。それらのものは 物語の中できらりと光って静かな存在感を示すのだ。

物語を特定して 最後に掲載の比較的長い「ガイド」などで考えてみると どことも特定できない異国風な場所設定を、普通に日本のどこかに置き換え、変わったデザインのシャツを作るおばさんを「シャツ屋」という風に仕事と店の名前も出さず 洋裁が得意なおばさん(時々 変わったデザインのシャツを作る程度でもいいけれど)、詩人を辞めて「題名屋」という不思議な仕事をしているという紳士については「物事や思い出にうまい『題名』を考えるのが得意な人」とだけにすれば かなり普通の、他の作家さんでも書けそうな話になりそうだ。こういった細部に少しだけ奇妙で不思議なものを差し込みつつ、まるで当たり前に存在しているか、それがないと物語が成り立たないとでもいうように描くのがこの作家さんの特徴のように思うのだ。いつもどこか居心地が悪く、少しだけ歪んでいて でも優しくて澄んでいるという 独特な印象。

掲載されているインタビューや解説を読んでいて 私の受けた印象とかなり違っていたのは「バタフライ和文タイプ事務所」。
コメディ要素とかユーモア、ノンセンスなどの言葉を使われていたのだけれど、わたしにはただ、活字のことを書いていながらエロティックにすり替えて読めるようになっている話として 悔しいほど上手くドキっとさせられてしまう。「面白い」といえば面白いんだけど それをユーモアという風には受け止められなかった。読み手を記述のトリックでドギマギさせようという意図を感じるというよりは、大真面目に医学用語ならこういう文字をタイピングすることもありなんだよな、と思ってしまったからもある。(何という文字、活字について どういう会話が交わされているかはここでは伏せますね。ぜひ読んでみてください)

こういう記述の仕方を「大人の遊び、おふざけ的なもの」として笑える余裕というものが自分に無いのでしょうかね。「活字」に対する偏執的なまでの愛というものを普通に感じてしまっていました。

今度はもう少し他の作家さんの本を間に沢山読んでから、この世界に戻って来たいと思います。未読で読みたいと思っている作品はまだまだあるんだけどなぁ。


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# by nazunakotonoha | 2017-08-30 21:32 | 小川 洋子 | Comments(0)

ちょっとした偶然やすれ違いで恋の行方は変わっていくものなのか。



  • 森鴎外
  • 新潮社
  • 340円
Amazonで購入
書評



恋、というよりほのかな思慕。初めて恋を知ったお玉からは純情な乙女のようなときめきを感じます。

それもそのはず。
相手の仕事が「高利貸し」とは知らず妾となり、女中の女の子一人をあてがわれて、ひっそりと住まう美しいお玉。最初こそ 旦那の来ることだけを待ちながら もし旦那が来た時自分が留守ではいけないと、これも近くに住居をあてがって貰った父を、訪ねることすら憚って暮らしています。

まだ あどけなさの残る頃に見初め、お玉を手に入れた旦那の末造は元来無駄遣いや遊びにお金を使う人ではないけれど、父子二人で暮らしてきたお玉のためには 惜しまず(ちょっとは惜しんでいたかな?)父親の住まいも用意するという惚れぶりです。

末造の中では 本妻や子供に手を上げたり声を荒げたりせず、今まで通りの生活をさせているだけで何の落ち度も無い、妻に疑われ責められたとて、悪いことなどしていないという気持ちの居直りがあります。妻への言い逃れ方も上手いし、やり取りの中に夫婦の性格や気持ちの食い違いがリアルに描かれます。描き方はちょっとユーモラスで重さや暗さは感じません。

そんな末造を待つだけの日々に変化が起きたのは 外を通るある大学生にお玉が惹かれるものを感じ、日々通るのを心待ちにしてしまうようになったこと。そして ある日 彼がふとお玉に挨拶をしたこと。

もちろん物語が急に動き出す、ということはありません。
それでも小さな出来事はお玉に少しずつこころや態度に変化をもたらすのです。片恋は彼女をさらに美しくする。秘密は彼女を魅惑的にする。末造は勘の鋭いたちらしいのですが その変化の原因には気づいていないようで 自分の手柄のように思っているくらいです。

末造へのうわの空の受け答えが逆に 今までのような硬さを緩め、秘密を持ったことで更に末造に丁寧に接する様子を好ましく感じるあたり 男なんて単純な生き物だとでもいうようです。ただ、お玉についても末造を手玉に取るような悪さ狡さは感じさせません。基本この物語に「悪者」は登場しないのです。(妾を囲うことや旦那が居るのに他に恋心を抱くことが「悪い」といえば そういうことになってしまいますが)

お玉と挨拶を交わすようになった学生の岡田とお玉が近づくきっかけは 鳥と蛇。鳥は末造がお玉を喜ばそうと鳥かごと共に買ったもので、軒下に吊ったその鳥かごを蛇が襲うという事件がありました。ヒーロー岡田は 隣へ手習いに来た女の子の人だかりをかき分け、蛇を退治してくれます。

これがきっかけでも、すぐに何かが起こる わけでもありません。物事はなかなかすいすいとは進まない。進まないから先が知りたくて読み手の手は止まりません。鴎外センセお上手です。

お玉は「お礼」を言うという理由ができて でもどうやって何をどういうタイミングで言えばいいのかあれこれ考えます。女中がするというのに窓を拭いたりして 恋しい岡田を待つのです。お礼の品を渡すのはどうだろう、手紙もつけたらいいかしら、でも何て書いたらいいのだろう、上手に手紙なんて書けるかしら・・と まるで告白をする前の女学生のようでもあります。

さて、末造が用事で出かけ訪ねて来ないと確認できた日、お玉は女中にも里帰りを促し、一人で彼の通りかかるのを待つのです。声をかけるチャンスは彼の行と帰りの2回。
なのに、です。

一人でいつものように通るはずの岡田は 下宿で出された鯖の味噌煮が嫌いな友人に誘われて外食に出たので 「連れ」が居ます。もちろんお玉の期待外れ。岡田はそんなこと知りません。
では 帰りは?というと今度の障害は「雁」です。まさにこの物語の題名。鳥の名です。たまたま出会ったそんなに親しくも無い友人が「連れ」に加わり 殺して食べようという提案に逃がすつもりで岡田が投げた石が当たってしまいます。獲物を隠し持って3人で歩く彼らに もちろんお玉は為す術も無く 見送るだけです。そして結局二人は何も繋がらないまま 岡田は海外留学に行ってしまう、というのがあらすじです。

大変面白く読み進めたのですが、後半で一瞬 読書の勢いが止まります。語り手が「僕」、文体の雰囲気がころりと変わるのです。あれ、僕?僕って何?、違和感はぬぐえません。
そこでやっと思い出すのは 冒頭は「僕」(=最後に「サバの味噌煮が嫌いで岡田を外食に誘う友人」が語りてだったのです。そして、お玉の素性、妾の生活を始めるまでとその後を語るのに、章を新たにして お玉と末造を主人公にした「物語」が三人称で語られます。そこでは「僕目線」はすっかり影をひそめているし、「僕」が知るはずもなさそうな細かな状況が 実に生き生きと描きだされているのです。読者はその内容と表現の面白さと登場人物の魅力に引き込まれてしまうので、語り手だったはずの「僕」の存在すっかりを忘れてしまいます。

確かに「雁」を捉えて「帰り道」を図らずも邪魔した友人はいきなりの登場なので、更に「サバの味噌煮」の彼まで いきなり出てきた登場人物ではあまりに物語の都合上すぎるとは思います。
その上 誰かにつっこまれたから言い訳するみたいに、語り手の「僕」が何故そこまで語れるのかという説明に「岡田から聞いた話」「岡田の様子」だけでは説明がつかないからか、「のちにお玉と知り合うきっかけがあり(恋愛関係にはなっていないこともひとこと「説明」されています)聞いた話を合わせて物語にした」とされています。それでも 末造と妻の会話や妻の様子、末造の思ったこととかは聞くことはできないはずです。

この物語の構造についてきっちり考察される方もおられると思いますが 私は単純に、連載中に鴎外先生が筆が乗りすぎて最初の設定を忘れちゃったのではないかと思ってしまったのですが そんなことはないのでしょうか。熱心な読者とか編集者とかに指摘を受けて慌ててまた「僕」の語りに引きもどしたとか。で、言い訳もつけてみたけど説明しきれてない、とか、ね。


ただ、聞き語りの体を辞め、「僕」がなりを潜めた方が物語の進み具合もスムーズだし、その間に地の分で語られる「女性観」とか「人間観」とかが すんなりと読めて面白いです。普通に鴎外先生(「僕」ではなく)、人間観察が鋭いなと 感心させられます。

題名の「雁」についても あまりに巻末にいきなりの登場で 何故それが題名なのか首をかしげないではないのですが 当時の読者に共通した「雁」のイメージがあるのでしょうか。(ある、という説明をしている人もおられます)。それを知っていたらこの物語の伏線的な「意味」を題名が担っていることになりますが、今の読者に伝えるとしたら 先の会話や物語の状況の中に、何か「雁」について語る場面でも欲しいところです。まあ、それは言っても仕方無いことですね(昔書かれたんだから)

ともかく、物語の構造なんて、途中であれれ?と思ったことなんて 関係ないくらい魅力的な「物語」に仕上がっています。私は地元ではないので 土地勘は無いけれど、風情のある街をそぞろ歩いている気持ちにもなれるし、妾とか三角関係とか悲恋などという言葉をかぶせると想像できないような さわやかで明るい雰囲気の 美しい物語だと思います。


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# by nazunakotonoha | 2017-07-22 16:56 | 森 鴎外 | Comments(0)

童謡1

マザー・グースなど子供向けの「詩(童謡)」から触発された短編と 「ねむの木学園」の子供たちの絵のコラボレーション。不思議で楽しい相乗効果。



童謡〈1〉 (1982年)
  • 吉行淳之介_::_ねむの木学園の子どもたち
  • 指定なし
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書評
随分前に購入した本で、1巻のみ所有。内容は忘れていた。
「ねむの木学園」のこどもたちのカラフルな絵をふんだんに掲載した本で題名が「童謡」というだけにきっと子供向けの「いいお話」だと思っていた。が、大違い。いや「悪いお話」という意味ではありません。

病気で入院した少年が思いっきり痩せ(その表現は壮絶)、退院後の転地先で逆に思いっきり太り…という内容は この本で読んだ以外にも教科書か問題文かで読んだ気がする。立った姿が鉛筆みたいだったとか 見舞いに来た友達の言葉じりに今まで気が付かなかった悪意を感じるところなど 印象深い。

女子高の先生が知り合った男娼、「女の身体でないことが悔しい」と言うミサコさん。男の人の身体の状態で男性を愛する記述には時代と関係なく身体とこころの違和感に悩まされる人の 自分の身体ながらの消し難い矛盾のようなものを感じて切なくなり、「先生」の退職に花束を渡しに来る何の屈折もなさそうな女子高生との対比が興味深かった。

失恋した友人との男子二人旅で観たサーカスの話は、演者のさりげない仕草や目線に男女の関係を見て取ったり、美しい叔母と見知らぬ紳士との怪しい関係を少年が垣間見たり どれもどんでん返しやオチを用意したり むやみに感動や教訓を狙ったりした話ではないけれど、何か心に引っかかる物語ばかりでした。

最近 作品の新旧、国を問わず 短編集を続けて読んでいるのですが それぞれに違った視点 趣があって 面白いなと思います。


昭和57年第一刷…・絵を描いた「ねむの木学園のこどもたち」は今どうしているのかな。


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# by nazunakotonoha | 2017-07-07 17:00 | 吉行淳之介 | Comments(0)

まぶた

ほんの少しの偶然で、出会った人と過ごすいくつかの時間。
歪みやずれや奇妙さはごく普通の現実と隣り合っていて、ほのかな居心地の悪さと、静かな安らぎを読者に与える。



まぶた
  • 小川洋子
  • 新潮社
  • 420円
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書評

どの物語も小さな違和感を抱えている。

ファンタジーとか夢または 特定の登場人物のこころの病や歪みと捉えてしまうのは少し違う。
主人公や他の登場人物が、そういった「奇妙とも思える」出来事や、たまたま出会った相手の語る思い出話、
ささいな小道具に対して 読者と同じく少しだけ違和感を感じつつも、「受け入れる」からなのかもしれない。

そして読者もまたそういう小さな「歪み」や「奇妙さ」「不気味さ」を抱えた作者の世界に 惹かれ、
やがてはここでしか得られないような「居心地の良さ」まで感じてしまうのだ。

飛行機で隣り合わせた異国の老婦人は亡くなった日本のペンフレンドを訪ねたという。
ペンフレンドの写真は本人とは違う俳優のものだったけれど がっかりしたり怒るわけでもない彼女の挿話はほほえましい。
でも小さな老婦人に合わせて 持ち物や食べ物まで小さく見えるというその様子やカバンから出てくる沢山のものの羅列などが
微妙な非現実感を、そしてその後 彼女が異変をきたし、隣り合わせて話を聞いていたただけの関係のその男の腕で息絶えてしまう
展開は 日常的な感覚だけでは捉えきれない。

認知症の人たちのアコーディオンの音が響く狭い路地の「お料理教室」には 排水管掃除の業者がやって来る。
詰まった汚物(野菜の切れ端やタコの足といったもの)がどんどんシンクに逆流して溜まっていく。
そういったことすら 事件では無く、「当たり前」のような風景となる。

野菜売りのおばあさんにもらった不思議な植物はやがて発光し出し、訪ねて行ってもおばあさんの住んでいるはずの場所には
家も畑もない。

背泳ぎの選手の弟は狭い隙間がお気に入りだ。やがて彼は片手を上げた状態で下すことができないままになり、
水泳を諦めざるを得なくなる。その腕の「結末」。

匂いを収集する恋人は さまざまな匂いとその素となるものをビンに詰めて保管している。その匂いと素の細々とした記述。
偏執的とも感じられる収集の中に見つけたもの。

ふとしたことで知り合った少女と中年の男性はささやかな逢瀬を重ねる。彼の家のハムスターは病気で「まぶた」を
手術で切り取られ目をつぶることがない。

異国のそっくりな双子の老人は支えあって生きている。足の悪い弟の方はずっと家から出ることがない。
ナチスの迫害と家族の離散、自分を責め続けた父親 父の開業していた医院とその後 兄が開いていた花屋の思い出。

どの物語もめったに出会うことのない(全て「有り得ない」と言ってしまうことはできないと思う)出来事ばかりだけれど 
他では見られない細かな描写やアイテムが、また、空想と現実の混ざり具合や配分が 時間に置き去りにされた細い路地に
迷い込んだような小さな不安感となつかしさを感じさせる。

この短編集では「旅」(初めての場所を訪ねるというのも含め)が扱われているものが多い。日常の生活場所と、
いつも傍にいる相手から空間的にも精神的にもへだたりを持ち、旅先で見知らぬ人と出会い、過ごす。
未知の詩人の女性の住まいだった「記念館」に入り、故人が過ごした場所でその家の主の生と死を 存在と不在を
肌に感じる「詩人の卵巣」の主人公のように、読者もそれぞれの物語の中で、見知らぬ相手の生と死や、
不思議な植物や持ち物に寄り添いながら過ごすのだ。




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# by nazunakotonoha | 2017-06-17 11:46 | 小川 洋子 | Comments(2)

雨・赤毛

「永遠の」「美しい」愛だ恋だ、も 「神聖なるものへ導く」者も 冷めた目線で皮肉って。

雨・赤毛
  • サマセット・モーム
  • 新潮社
  • 380円
Amazonで購入
書評

この本に収録されている「雨」「赤毛」「ホノルル」の3つの短編は「南洋もの」というモームの作品のひとくくりに入るそうだ。

「雨」では船旅の途中で南洋の小島に足止めを食らい、そこでしばらく暮らさざるを得なくなった西洋人の二組の夫婦が中心だ。

別の文化を受け容れず、南の島の現地の人々を見下しているさまが 牧師夫妻と医師夫妻の(主に牧師夫人の)会話で浮き彫りに
なっていく。西洋人の、宣教師夫妻の振りかざす「正しさ」が会話の端々に鼻につく。
もちろん作者のこれらを見つめる冷めた視線も判るので 作品に対しての不快感は無い。お高くとまって何様だよ、ってな感じで
鼻で笑いつつ 作者が登場人物に好きにしゃべらせている、そんな感じ。

激しい雨が降り続く中 好んで滞在するわけでもない 彼らのじりじりした気持ちが物語の「嫌な感じ」に拍車をかける。
そこへもって もう一人同宿の女が問題となる。夜な夜な大きな音で音楽を掛け、男を部屋に入れてよからぬ遊びをしている様子。
牧師夫妻には許しがたい女だ。
女を更生させようと使命に燃える牧師。言うことをきかない女。

牧師は手を回して、行けば収監される恐れのある「強制送還」までにこぎつける。女が全然悔い改めないからだ。強制送還だけは
許してほしいと牧師に懇願するも頑として聞き入れない牧師。意気消沈し、派手な見た目もすっかり様変わりした女の姿に医師も 
そこまでしなくても、と 少し同情的にもなる。

牧師は心身疲れ果てやせ衰える程 必死で女の「更生」に祈りと説得の毎日を費やしてきたようだった。神の教えを信じ、
自らの「正しさ」を疑わず。

だが結末は意外に皮肉なこととなる。
どこで何が起きていたのか、どこで何が曲がっていったのか 物語は語らない。
女のひとことで想像させる結末への展開。でも その想像が本当に合っているのかは解らない。

「赤毛」も更に皮肉な話となっている。

船長が訪ねた白人は、「変わり者」で、現地で妻帯し本に囲まれて暮らしている。
でっぷりと太った白髪の船長が 彼から聞かされる話は 「レッド」と呼ばれた白人の赤毛の美男子と現地の美しい女との 
運命的で情熱的な至上の恋愛話だ。
その男女が離れ離れになった後 その美しさと悲しさに惹かれて結婚したその男は結局 「レッド」との思い出にさえ勝てず、
妻への辛い片恋をし続けているという それはまた「美しくも悲しい」話だ。そんな話の落としどころが解らないまま読んできた
私が鈍いのか すっかりラストで驚かされていまったのだ。

恋愛なんて、永遠なんて、こんなものさ、と軽く蹴っ飛ばされたみたいな感じだ。

なるほどね、歳月はいつまでも美しい者や美しい話を、そのままにはしておいてくれないということだ。


「ホノルル」

これも現地人の美女が出てくる話。冴えない船長がぞっこんなのは解るが 一緒に船に居る彼女の方もそのようだ。
そんな船長が美女をめぐり呪詛に遭い死にかけたという話を主人公が聞かされる。

西洋医学では治療しようがないその病を 現地の医者(呪術師?)が診て、呪いを解いて相手を倒す方法を女に示し 
見事彼女が船長を窮地から救い出す。なかなかスリリングでドキドキする展開だ。

2作読んだ後なので このままでは終わらないことは想像できる。そう、ちゃんとどんでん返しは用意されているのだ。

物語の筋とは 関係ないけれど中国人、フィリピン人、西洋人、現地人、日本人それぞれの様子を記述したところが面白い。

全体を通し 国籍も職業も老若男女も関係なく また見た目の美醜にも差別なく 作者の冷めたシニカルな目線は注がれる。
これって案外、作者の「人間愛」なのではないかなと思うのだ。

今度は有名な「月と六ペンス」を読んでみたいと思います。

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# by nazunakotonoha | 2017-06-17 11:37 | 海外の作家 | Comments(0)

卵の緒

このこどもたちが幸せなのは ぶれない生き方を貫く母の愛情があればこそだと思う。


卵の緒
  • 瀬尾まいこ
  • 新潮社
  • 420円
Amazonで購入
書評

不思議な本だ。
2作を読み終えて 頭を整理すると色々な問いと答えが出てくるのだ。

1作目、「卵の緒」。

簡単にあらすじを纏めてしまえば 血のつながりの無い母子が仲良く暮らしているところに、新たに母の伴侶となる男性が加わり 仲良く暮らしていく話である、となる。
加えて食事に呼ぶのをきっかけにして少年が好意を感じる不登校のクラスメイトとも 友情を深めるという話だ。

この物語には美味しいものがたくさん出て来る。働いているお母さんだが料理には手を抜かない。そしてその美味しくできたものを「好きな人にたべさせたい」。「食べさせたいと思う相手が『好きなひと』」なのだ。
何の波瀾もないといえばないのだが 育生が母から聞くこの母子関係の成り立ちや さらっと子供に告げる母の恋愛の発展具合や 3人で囲む初めての食卓や その後再婚で苗字の変わる少年の事情や そういうことって 大波乱を引き起こしてもおかしくないことなのだ。実のところ。

だけど大丈夫。息子はグレないし 母の恋人は感じが良いし 何となく仲良くなっていきそうだし、弟か妹が生まれても この「家族」は幸せに暮らせそうだ。
深刻なドラマにもなりそうな背景を軽やかに乗り越え、ほんわかした平和な温かさに満ちた物語に仕上がっている。

2作目 「7's blood]
「卵の緒」が 血のつながりなんて関係ない 相手を想い大切にする気持ちだけで繋がれる、と謳いあげるのに対し、「半分血の繋がっている」異母姉弟の話で、恋人より友人より「少しでも血の繋がりがあること」の温かさを 姉の七子の心の紆余曲折を経て感じさせている。


2作に共通するのは 小学生の少年。 

卵の緒の育生は本当に素直でしっかりした子だがものの感じ方はまだまだ子供だ。自立すべきところは自立しひとを想いやることができる子供。このマイペースで個性的でありながら一本芯の通った母に 愛情をしっかりと受け育っていることが解る。
7'S Bloodの七生は苦労人だ。そもそも「愛人の子」で今母親は服役中。虐待を受けたこともあるようで、母も寂しくなると彼に依存する。そんな環境の中 「子供だから一人じゃ生きられないから」と彼が身に付けたのは「素直で可愛い」「人懐こくて優しい」大人に人気のこども。

だがこの物語に高校生の姉 七子の目線が入る。

「卵の緒」ではそのままで良かった少年らしさがこちらでは見事に「うそくさい」と嫌われる。
それは水商売の母から教わった「大人の相手を気分よくさせる会話術」の話からも解るように 相手(主に大人)を喜ばせて気に入ってもらう「生きる術」。そういうものを身に付けざる得ない環境で育った彼に 初めて七子がもっと本来の「こども」であれと 声を荒げるのだ。

そんな一件から 一旦入ったひびが 時間を掛けて少しずつ修復され 温かな「血」の絆に変わる。相手を喜ばす「気遣い」を一蹴され、渡せないまま腐ったバースデーケーキを 結局は一緒に食べ(腐ってるんだよ!)、彼氏とのデートを切り上げ 弟とのアイスクリームを選び、真夜中のパジャマのままでの行き当たりばったり「旅行」。夜の闇と野犬への恐怖をやわらげてくれた小さな弟の手。母が 愛人の息子を一時的にでも引き取り、七子と暮らさせたのは こういう「確かな温かさ」を心の支えにするためだったのだろう。


血のつながりなんかなくっても、が1作目、半分でも繋がる血は確かな温かさを約束してくれる、というのが2作目。

「卵の緒」にももっと別な目線が加わると変わるものもあるかもしれない。もう少し育生が大きくなると 新たな人間関係で悩むこともあるかもしれない。半分血のつながった妹との温かな絆を 支えに感じることもあるだろうか。

それでも 大丈夫、と思えるのは どちらの家族の物語でも母が強く優しいことだ。常識的じゃなくても 病気でずっとは傍に居てくれることができなくても、生き方が考え方が、真っ直ぐでブレないことだ。こどもへの愛を言葉で態度できちんと伝えるところだ。
こんな 大人がそばにいれば こどもはちゃんと育つ。

母よ、愛だぞ、愛! 駆け引きじゃなく格好つけもせず、おおらかで確かな 大きな愛!

それが この1冊から私が受け取ったメッセージだ。
 

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# by nazunakotonoha | 2016-12-03 20:44 | 瀬尾まいこ | Comments(0)

夏の庭

その夏、おじいさんの庭で得たものは 思いやる気持ち、ほのかな将来の夢、そして「あの世の知り合い」。



夏の庭―The Friends
  • 湯本香樹実
  • 新潮社
  • 420円
Amazonで購入
書評

久々に読むことで 色々思うことがある。忘れていた部分は どうして忘れていたのかとか。あちこちで見る「あらすじ」にも出てこない部分は 物語にとってさして重要ではないのかとか。

映画も観た(これもうろ覚え)ので、印象に残った井戸や蝶が映画だけのものだったことや 登場人物と人間関係、エピソードの変更は 映画監督にとってどんな意図があるんだろうかとか。読んでいる時は夢中で 引き込まれ、すっかり小学6年生男子の気持ちだったけれど、読み終えてそんなことを考えたりする。


身近で親しくしているひとの「死」に初めて接するのは この頃の子供では何歳くらいが多いのだろう。この物語の少年3人の内ひとり 山下くんがお祖母ちゃんのお葬式に行ってきたことから話は始まる。生きている間ほぼ会ってもいないということもあり、その山下くんでさえ「死」について、いや「大切なひとりの人を失うということ」が解らない。そんなことがきっかけで 3人は近所の老人を見はって「死ぬのを見届けよう」「死体というものを見てみよう」ということになる。

へたくそな「探偵ごっこ」はやがて 本人にばれるのだが、その経緯が何ともほほえましい。
おじいさんに近づく動機がとんでもないから余計に、少年たちの気持ちの変化が 心の成長が目覚ましいのだ。
そして おじいさんも変わっていく。子供たちが見ていることに気づき、気になり、すぐに受け容れるわけでもないけれど 関わりを持っていく。ひとりきりの生活に きちんとしたリズムが生まれ、自分の衣食住を立てなおして行く。溜まったゴミを片付けようとした 少年たちを一旦拒否するものの、洗濯ものを干すために庭に紐を張るのを手伝わす。
やがて 老人と少年たちの心は繋がっていくのだ。3人はちゃんとひとりひとりとして、「おじいさん」はただの「年寄り」からひとりの大事な友人に。


荒れた庭の雑草をとり 皆で種を撒いた。コスモスの種だ。スイカを食べた、切る前に包丁を砥いだ。もう果物の剥き方だって解る。
家を修繕した。ペンキだって奇麗に塗れる。
台風の日は 相手の心配をした。誰かと誰かの家の無事を真剣に案じることなんて今まであったろうか。
戦争の話を聞いた。そこに居る相手が心に深い苦しい思いをしたことを知った。戦争は教科書に載っている昔だけの話ではなくなった。大事な相手を今も傷つけているのだ。

実はおじいさんには 戦後戻ったことも知らせずにそのまま会わないでいる奥さんがいる。その話を聞いた三人は珍しい苗字を手掛かりに 奥さん探しを始める。(電話帳に多くの人が番号を載せる時代だからできるのだけれど)。

奥さんを探せておじいさんに会わせられたのか、結局おじいさんと会ったのは誰かというところが 本と映画の違うところだが、私はこの本での少年たちの彼らなりの悪あがきと それに関わってくれた女性(おばあさんではあるが 奥さんとは別人)、彼らの失敗と反省と得たもの、おじいさんの静かな優しさと寂しさ、厳しさが伝わるエピソードだと思う。物語的に「解決」や「感動の再会」ではないにしても。

細かい部分は忘れていたのだが、三人の家庭環境による寂しさや屈折。「死」や「怖れ」についてのそれぞれの幼いなりに思ってきたこと。山下くんがプールでおぼれかけ「死」に近づいたこと、

そしてサッカーの合宿での妙に長い「怪談話」。
怪談話をしたのはサッカーのコーチのおばあさんなのだけれど、そういう「お年寄り」についても少し 見方が変わったこと。友達を守るために卑怯な相手とは喧嘩も辞さないということ。少年たちの一夏での成長は それ以前の様々な幼い経験や感じ方を描くことで よりくっきりとするのだろう。

映画のような「救い」やファンタジー的、象徴的な美しいシーンは無いけれど それでも十分 少年たちの成長と得たものは伝わるし、おじいさん自身も彼らと出会って沢山のものをその心に残したことが 読み手の私にも嬉しくて 本を閉じてもきっと 思い出す度に胸の奥から温かくなれる。


ひとはいつか死ぬ。子供だってずっと子供ではいられない。だけど誰かと繋がってその心に何かを残せたら そのひとの人生は無かったことにはならないのだ。

せっかくみんなで奇麗に直した家も無くなり、コスモスの咲いた庭も駐車場になってしまったけれど、君たちは絶対忘れないよね、おじいさんと過ごした時間とこの庭のこと。

そんな風に私も忘れられない季節を、大事な場所を持っていたい。そして その場所からまた、次に来る誰かに何かを残したいと思うのだ。何か 凄くおじいさんと3人に「有難う」を言いたい、そんな物語だ。

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# by nazunakotonoha | 2016-09-18 08:04 | 湯本香樹実 | Comments(0)

サド侯爵夫人・わが友ヒットラー

女性だけの「サド侯爵夫人」、男性だけの「わが友ヒットラー」。舞台装置の転換も、小道具もほ
とんど使わず 語りが全て。登場人物のバトルでもあり、作者と役者とのガチバトルでもある。


サド侯爵夫人・わが友ヒットラー
  • 三島由紀夫
  • 新潮社
  • 420円
Amazonで購入
書評


サド侯爵夫人

サド侯爵夫人のルネ、その母モントルイユ夫人、妹アンヌ、、訪問客サン・フォン伯爵夫人、シミアーヌ男爵夫人、家政婦のシャルロットが 3幕で入替わりはするが、全ての登場人物だ。

「サド」と言えばもう どういう趣味嗜好の人なのかはみなさんご存知だろう。
史実をもとに、家族以外を創作の人物で作り上げた世界だが、作者の脳内だけで 作者とは時代も国も違う女性たちの心理、裏表の顔を創り上げ、表に投げ出される「ことば」のみで見せていく。その実に鮮やかなこと。

サド本人は逃亡、投獄などで3幕とも登場しない。その罪状、所業については女性たちの言葉からそれと知れるのだ。

「貞淑な」妻のルネは、そんな夫の趣味嗜好 罪までも受け容れるかのようで、家柄や体面、常識を重んじる母は そのためなら他人を使い、肉親を騙しもする。

奔放なサン・フォン夫人はサド侯爵に親しみさえ覚え、その言葉に耳をふさいで神に救いを求める「敬虔な」シミアーヌ男爵夫人は、サド侯爵の幼馴染として彼の行為に「良心」を探してみたりする。耳を塞ぎながら結構ちゃんと聞いている彼女の行為は「良識的」をきどった 実はゴシップ好きの現代にもいる女性のようでもある。(3幕では彼女はすでにちゃんとした修道女になっているのだが)

妹のアンヌは自由で その残酷な素直さで、姉の夫と逃亡を共にし不実なことをさらりとやってのけ 姉の前でもそれを隠さず恥じることもない。

ともかく3幕ずっと 壮大なる口喧嘩だ。そして全てが体面する相手に投げる言葉となっている。
(「心の声」的な独白はおそらく無かったと思う)

怖ろしく長いセリフが延々と続き、どんなにか役者泣かせだろうと思うのだが、「YouTube」で公開されている舞台(新妻聖子主演)は衣装も一見の価値があり、全て驚くほど見事に演じ切られていた。
他にも男性だけで演じられた舞台や、蒼井優の主演のものも機会があれば観たいと思う。


年老いてくたびれた姿でやっと解放され、戻って来たサド侯爵は 驚くほどあっさりと見捨てられる。舞台には一度も登場しないままその輝きは消えうせる。侯爵夫人ルネは 侯爵と会おうともせず、修道女になる決意を固めるのだ。
ルネにとってサド侯爵が「獄中の夫」であることが そんな夫を献身的に支えるという自分自身を愛するために、必要だったのかもしれない。

ルネが大事にしてきた「献身」や「貞淑」を、獄中で書きあげた著書の中でだたひたすら不幸に陥れたことだけが この結末を引き起こしたわけではないかもしれない。




わが友ヒットラー

ヒットラーを親友として信じ、「粛清」されてしまった軍人の話。というのはちょっとまとめすぎかもしれないけれど。
単純な筋肉バカ 友情を熱く語る軍人のレームを 結局のところその「親友」ヒットラーが切り捨てた事件の話。


男性ばかりの作品で 内容も難しい。舞台は華やかさには欠けるし 冒頭がヒットラーの演説と政治経済絡みの客人の会話を交互に聞かせる演出だが サド侯爵について語る貴婦人方の会話に比べとっつきは悪い。

単にヒットラーよりサドを語るご婦人の会話に 私が魅かれてしまったせいなのだが もっと歴史的な経緯を解っていたら よりこの戯曲も面白く読めたことと思う。



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# by nazunakotonoha | 2016-09-06 20:06 | 三島由紀夫 | Comments(0)

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年

ひとつの謎の真相を追って旧友を訪ねて歩く。そんな形なので 読みだすと止められない。
謎だらけで終る。これは無い、と思いながら「何故」「誰が」を考えて長く引きずってしまう。


色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年
  • 村上春樹
  • 文藝春秋
  • 1785円
Amazonで購入
書評
謎の多い話だ。

主人公は多崎つくる(「作」という字を彼の父は選んでつけている。)。
彼は高校時代男子3人女子2人のグループにいたのだが、彼だけ東京の大学に進学先を選び 慣れ親しんだ名古屋から離れた。
どんなに距離が離れてもこの5人の関係を大事に思っていたのに、20歳のある日 急に彼だけ4人から付き合いを拒絶される、理由は全く解らない。
電話をしても出てもらえず、電話に出る彼らの家族からも不在ばかりを言い渡され、やっと話せたひとりからは「理由は解るはず」と言われ 絶縁されるのだ。
確かに悩むだろう。自殺を考えるほど追い詰められ、病んでしまったとしても仕方ない気もする。こんな状況では。
「何でなのかちゃんと説明しろ、何も思い当たることはない」とその場で頑張れればいいのだが、自信の無さとプライド より傷つきたくないという気持ちに阻まれてそれ以上何も言えない。

「色をもたない多崎つくる」。
色というのは単純にグループの4人に「赤、青、白、黒」の色が姓についているということ、そしてそれをニックネームにしていて、つくるだけが同じでないこと。
苗字なんてその人のせいじゃないし それに色がついてるとかついてないとかで個性があるとか無いとかいうことはないのだけれど、彼は思ってしまったわけだ。
皆には「色」がある。それぞれが誇れる特技や特徴がある。僕には何もない。本当はそんなことなかったのに。


多くの未解決な物事について「推理小説」として読み解くアプローチもあるという。

推理小説だとすれば、「シロ」を犯した真犯人や何の手がかりも残さず彼女を殺し得た人物、そしてつくるの今の恋人が笑顔で接していた50代(?)の男性は誰でどういう関係なのか、姿を消した友人灰田、灰田の話に出てきた不思議な「緑川」、灰田とのあの「夢」は本当に「夢」なのか。推理小説として読み解くならば、読者の知り得ない人物がいきなり「犯人」では困る。なので、グループの内部や僅かに記述のある親兄弟の中で「犯人」探しをするようだ。全ての細部にもヒントが隠されているはずだ。

私の読みでは足りないかもしれないので、まちがいもあるとは思うが自分なりに これならという説明をしてみたいと思う。以下勝手に作ったサイドストーリーまがいなので、信用はしないで読み流してほしい。
私は推理小説風な解決は求めていないので 誰も知らない人物が「レイプ犯」、「殺人犯」であっても一向に構わない。
シロの死が「自殺」で遺書が謎を解く筋なら 陳腐かもしれないが読者はすっきりしたのにと思うが 解っていて作者があえてしなかったのだろうから 仕方ない。
友人3名の話に嘘はないとする。言い切れていないことがあったとしても。

でなければ クロとフィンランドまで行っての邂逅で得た癒しと許しの感動が全てダメになる、それは避けたいのだ。(ハグした時の「乳房の感触云々」は余計な気がするが)クロが「つくる」の個性を肯定し、つくるは「空っぽ」なんかじゃない、もし「空の器」が彼だとしてもと その可能性について言ってくれる言葉はかぎりなく優しい。
 
だから、繊細で潔癖すぎていどんどん病んでいったのは「ユズ=シロ」だ、という所で私はまとめたい。
クロのつくるへの恋愛感情や他の男子の気持ち、もしかしたら美少女ゆえに 高校時代から「知らないところで」告白されたり接近されたりしたかもしれない。卒業してからも、心を病んでしまってからでも寄ってくる者はいたはずだ。
産婦人科医の父が堕胎を手助けすることを嫌悪し、性的なものに激しい拒否反応を覚え、恋愛を差し挟まない5人の関係を頑ななまでに愛して守りたかったのではないか。もしかしたらクロがつくるに告白すると言い出す前に、あるいは誰かが恋愛をもちこむ前に それを阻止したかったのではないか。

知り合いかあるいは通りすがりの男に襲われたことを 咄嗟に「つくるに無理やり襲われた」とクロに告げたのうはクロをつくるから遠ざけたい気持ちから出たのかもしれない。実際東京につくるにそれを言うために会いに行こうとして起こった話だったのかもしれない。
つくるを傷つけることや5人の関係が崩壊することまで考えが及ばなかったのか、それとも全てを壊してしまいたかったのか。

そしてシロの闇は更に深まり流産を経て死へと自分を押しやって行く。形跡を残さないように自ら仕組んだ嘱託殺人かもしれない。では誰に?
けれど 一人のひとの人生がいかに閉じているとはいえ、死ぬまで関わった相手がこの数人だけというのも現実的ではない気がする。(小説上ではありえるけれど)

つくるの恋人の沙羅が自然に微笑みかけていた男性について、彼女の言う「3日待って」の意味は気になるところだけれど(確かにシロの姉と同じ年齢ではあるけれど)、あまり深読みする気にはなれなかった。沙羅という女性との出会いと関わりには何の裏も無く、最後の「疑惑」についてはつくるが一人の女性をちゃんと求めたいと、自分に向き合いどんな障害があっても弱い自分をさらけ出しカッコ悪くても恥ずかしくても相手に気持ちをぶつける、そのきっかけだと そんな風に思うのだ。(にしても 最後の最後で思わせぶりな書き方ではある)


最終章は要るのか、灰田の存在と緑川のエピソード、6本目の指の話も 色々思うところがあるのだが、どうももう一度読み返さないと解らないことが多い。
謎や伏線をあえて回収せず放り出した作者の意図は「納得するまで読んで」「色々考えろ」ということなのかもしれない。


いつものように 凝った比喩やお洒落な背景、音楽、車、リッチな環境。カッコ良すぎてよく解らない会話、そして あからさまでミもフタもない性的描写。ここをクリアしないとこの作家さんは読めないのだな、と改め思う。
こうやってその辺を省略してあらすじを纏めてみると確かに深く心に残り、また悔しくも「やられた」感がひしひしとしてくるのだ。


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# by nazunakotonoha | 2016-08-28 22:05 | 村上春樹 | Comments(0)

ハーフ

ぺットだって大事な家族ね と保育園の先生も後で認めてくれた。けど、それは全然違うんだ。ヨウコは宮田祐治の「妻」、真治の「母」だ。少なくともそう、教えられて真治は育ったのだ。
短くてすぐに読めます。いや短いせいじゃない。ぐいぐい引っ張る勢いと先を心配させる展開があるせいですね。

父子家庭の真治はお父さんに「ヨウコがお前のお母さんだ」と(比喩でも何でもない調子で)言われて育ってきた。ヨウコは茶色の毛の雑種のメス犬だ。

大人があえて教えなくても、サンタさんはいない、と子供がいつしか知るように それでも共有する「ファンタジー」として否定せずにいるのと同じように、いや、もっと切迫した想いで、真治は「ヨウコ」を「お母さん」にしたままでもう6年生になった。

もうすぐ中学生。「この犬は妻」(しつこいが、「比喩」ではない)と言ってはばからないお父さん。生まれてから 一度もお母さんに会ったことがないとはいえ、お父さんの気持ちを理解して認めるほど真治は「大人」でもなく、まともに受けて信じるほど「子供」でもない。
もう解っているんだ。解っているけれど、今の2人と一匹の「家族」の平和を壊したくない。否定して、真実を教えろと迫って、幸せな結果になるとも思えない。

お父さんが本当に壊れているのかも よく解らないのだ。真治も冷静な読者でさえも。

ただ、散歩で会う愛犬家たちの犬に対する「家族扱い」と、明らかに違うことは真治が一番よく知っていて、どこで一線を越えた言動が お父さんを「頭のおかしな人」にしてしまうかを 常に心配していることで、読者も解るのだ。お父さんのぎりぎりの不安定さ。危うさ、もろさ。
お父さんのいとこの良子おばさんの心配、意地悪なクラスメイトのからかい。そしてヨウコが行方不明になった時のあまりの取りみだし方。



普通の家族なら、いや普通の「父子家庭」なら、こんな悩みはなかった。
真治の気持ちの屈折はリアルで、痛いほど伝わって来る。
心配してくれるおばさんへの「子供らしさ」を装った対応も、お父さんへの気遣いも、学校での嫌がらせに負けまいとする姿も、強くて悩みのなさそうな女子「三浦」への反発も。


ヨウコの「家出」事件で、お父さんの心の不安定具合が露わになり、真治の本音が吐き出され、またそれで悩む。三浦さんが家族の支えともなる関わりを持つことになるのだが、真治は彼女の良さや彼女の優しさが解るにはまだまだ子供だったし 自分の家の悩み以外には想いをはせる余裕も心の幅もなかったということなんだろう。
 
そして良子おばさんが知る「真実」と向き合う決意。もう「子供らしさ」を装ったりしない。真治の大人への出発でもあり、新たにおばさんという助けになる大人とちゃんと向き合って付き合えるきっかけでもあるだろう。


やっとヨウコは見つかるのだが、その後は悲しい。動物の寿命は短いのだ。決別のときはやってくる。そしてその時が、本当の意味での「ヨウコさん」とお父さんの別れであり、切ないけれど「現実の父子家庭」のスタートなのだ。

強くならねば、と思う。
親は自分の悲しみも迷いも自分で受け止め、更に子供の悲しみも支えて、心の穴を埋めていかねばならないのだ。ただ、親だけがそうやって空回りして頑張らなくても こども自身もそのはかり知れない素晴らしい力と優しさで親の至らなさを非力なところを認めて助けてくれる。相手への愛情と信頼さえ伝われば きっと何とかやっていける、そうも思えるのだ。

一見子供向きのようでなかなか深くて手ごわい「家族」の物語だ。 


草野たきさんの「透きとおった糸をのばして」もダメなところも愛おしい「大人」を、若い目線で見る作品。大すきな作品です。


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# by nazunakotonoha | 2016-08-13 21:38 | 草野たき | Comments(0)

人質の朗読会

異国の山中の小屋で囚われの身となった人たちが順に語る人生のささやかな一コマ。誰にでもありそうで、そのひとにしか無い思い出の時間。



人質の朗読会
  • 小川洋子
  • 中央公論新社
  • 596円
Amazonで購入
書評


異国の地、理不尽な暴力のために囚われの身となる日本人たちという設定が まず突飛な「物語」でもなくなってしまった現在、この話のレビューが簡単には書きづらく 書き出しで悩んでしまっていた。
こういう状況下、人質となったごく普通の旅行者たちが自身のささやかな思い出話を1つずつ 披露する。その内容を、仕掛けられた盗聴の録音テープから 後に他の人たちと読者が知る、ということになる。

手に汗にぎる救出劇やテロリストとのやりとりを含む事件の解決に向けての人間ドラマを小説にする作家もいるだろう。政治や思想を掘り下げて問題提起する社会派の物語を読みたい読者もいるだろう。けれど 小川洋子のこの作品はそうではない。「朗読会」の記述の前に 救出が叶わず、これらのひとたちが すでに亡くなってしまったことを知らされる。知った上で、その後の章ではたんたんと彼らが語る思い出話を「聞く」ことになる。

明日があるかどうか解らない囚われの身の状況で、本当にそんなことが行われるか、ということはここでは問題にしない。暴力や死への恐怖を紛らわすためか 意外と平穏な、だがいつ終わるとも解らない長い時間への不安を紛らわすためなのか、確かにこういうことがかつて行われた記録も無いだろうと思う。だが絶対あり得ない荒唐無稽な絵空事だと言いきってしまえるだろうか。

 世代も性別も仕事も違うそれぞれが きちんとした文脈で同じクオリティで 同じくらいの「ささやかさ」を持った思い出話ができるとは思えない。けれどここではそれも問題としないでほしい。語り口(文体)にはさほど個性を付けず、キャラクターを強く打ち出していないのもちゃんと解った上でのことだろう。
どの話もとっておきの感動話とかではない。家族や友人のことではなくほんのわずかな期間ふれあったと言っていいのかも解らないくらいの関わりの相手との儚い思い出話なのだ。
共通しているのは きっと、この人がここで語らなければ、誰も知らない、そんな話であることだ。

小川作品に流れる静けさと「いつか見た夢」のようなかすかな奇妙さ、わずかな歪みの部分がどの話にもある。
その製菓会社の作るビスケットの種類の羅列の中には 腔腸動物や内臓系があり、公民館の談話室で行われていた集会は「危機言語を救う会」で、他にも「溶鉱炉を愛でる会」や「空想動物写生同好会」で、片目のお爺さんが道端で売っているぬいぐるみは ムカデ、回虫、ヒドラもある、という。いつも色んな人の「死んだお婆さん」に似ていると言われてきたひとの話も不思議だし、隣人が台所を借りに来るのも 死者のためのスーツを買う葬儀屋さんも、そういう事態がたまたまあったとか 地域の風習があるとかいうことが絶対にないともいえないけれど 何となく不思議な空気と一抹の不安と落ち着かなさを 読者に与えるのだ。

冒頭からこの語り手たちが助からず、もうどこにもいないのだ、と解っているだけに この語られなければ忘れ去られてしまうような人や時間が、掛け替えの無い大切できらめくものに思えてくる。自分にもこんな思い出話が無いだろうかと、ゆっくりとした静かな時間の中で探してみたくなるのだ。

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# by nazunakotonoha | 2016-08-07 23:27 | 小川 洋子 | Comments(0)