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白い犬とワルツを テリーケイ

人生はいつかは終わる。そのことをちゃんと見据えて 日々を大事にしよう。家族を愛し自分を愛し 精一杯生きるしかない、と思うのだけれど。
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先に情報なしに読み始め、これは読み続けるのが辛いかもしれない、と思う。
手を出したのは間違いだったのか、それともかけがえのない一冊になるか……

今までにも書評を書く際、自分の生活を何度も小出しに書いて来たけれど、私は高齢の父との暮らしを優先し、日々を過ごしている。ダンナと成人した子供たちの理解と協力を有難く思いつつ。

似てるのだ。実によく似てるのだ。まだまだ自分でやれるという頑固さも、これまでやってきた仕事へのプライドも、他人を揶揄うちょっとしたユーモアや悪戯心のあるところも。
主人公のサム老人とうちの父の姿が重なり過ぎて行動や言動が解り過ぎるほど解る。

それに従って、近所住まいの娘たちとその夫たち、息子たちの心配や気がかりや葛藤が我がことのようで、心に刺さる。
母が先に逝き、残ったのは歩行器に頼って歩く脚の悪い父(うちは「耳の遠い父」だ)。家族で支えようとするサムの子供たちは十分親孝行で温かいし、家政婦だったニーリーも押しが強く、お喋りすぎてちょっと迷惑がられてもいるけれど、素敵な「友人」だ。



文章はサム目線のもの(俺は、とサムの考えや行動を綴る部分)、少し冷静な第三者目線(彼は、と綴られる)、サム自身が綴った日記の文章が織り交ざった形で表わされる。

サム目線で家族を見たところなんかも、ああ、老人本人はこんな風に自分と周りを見るのだなぁと思うし、サムの見えていないところで家族が何を過剰に心配しているのかも感じることができるのだ。

表題の「白い犬」は不思議な存在だ。いつも隠れていて、なかなかサム以外の人には見つけることができない。「白い犬」が辺りにいるとしても飼い犬たちも吠えない。本当に居るのか、妻を急に亡くした寂しいサムの妄想なのか、それともニーリーの言うような「犬の幽霊」なのか。

サムはふと現れた「白い犬」に少しずつ馴染み、大事な相棒になっていく。サムの歩行器に足を掛けると本当に二人でワルツでも踊るようだ。
最初、サムがいくら言っても、子供たちは犬を見つけることができない。認知症の傾向かと心配し、「見えるふり」をするべきか否定するべきか悩む。
読みながら、どうぞ犬が本当に居ますように、と祈る。認知症になったサムと居もしない犬の物語を読み続けるのはやっぱり辛い。(「長いお別れ」は良い作品だったけれども)
だから子供たちにも犬が「見えた」記述があって ほっとしたのだ。


子供たちが心配するのも解る。何の説明もせず、急に銀行に行ってお金を引き出すし、おんぼろトラックをいつもになくお金をかけて修理する。子供たちには訳が解らない。子供のようになってお金の価値が解らなくなったのかと悲観し合うのだ。
でも、本当はサムは一人で同窓会に行くことにしたのだ。言えば心配を掛ける、反対されるかもしれない。まだまだ自分でできるのに。

けれど、やっぱりおんぼろトラックでの旅はかなり無謀だった。道を間違え窮地に立たされるのだ。夜は冷え、悪くした腰も痛む。ああ、お父さん やっぱり、と思ってしまう。救う人が居て本当に良かった。


妻や仲間との思い出はキラキラしていて楽しくて愛おしい。結局同窓会には出なかったけれど同窓生と話もできた。
知り合いが一人ずつ亡くなって減っていく中、懐かしいだれかと会えただけでも 行った甲斐はあったと思う。その相手が彼のやってきた苗木の仕事についてどれだけ世間も認めていたかを教えてくれたことも、だ。



「白い犬」は妻のコウラだ、とサムは息子に言った。どこまで、いつからそう思っていたのか、本当にそう思っていたのかは解らない。日記や自分目線の記述には今まで書かれていなかったことだ。



知っている人がどんどん先に逝き、(予想通りか予想を裏切り、か)自分より先につれあいが逝き、やがて自分の身体も思うように動かなくなる。今「老人」でなくたって、皆そうなのだ。もちろん自分もだ。
どんな青春小説の主人公で、そこだけ切り取った物語だって、もし続きがあればやがては老いて亡くなるのだろう。

だから、老いることや人生を終えることばかりを気にして 誰かの人生の物語を考えるのは違うんじゃないかと思うのだ。サムとコウラは出会えて良かった。幸せな結婚生活を送った。
子供たちは心配性でおせっかいで勘違いも多いけど、いい子たちだ。ちゃんといい大人に育ってくれた。
サムの育てた苗木は沢山の人の手に渡り、育ち、花を咲かせたわわな実をつけるだろう。

白い犬もまた、誰かのもとに現われ、寄り添うかもしれない。

# by nazunakotonoha | 2022-02-28 20:51 | 海外の作家 | Comments(0)

鏡の国のアリス

言葉あそびの訳に苦労された翻訳者さんに感謝

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アリスでもプーさんでも子供が読むのを意識して訳される場合、そんなに注釈ばかりつける訳にはいかないのだろう。ここは駄洒落、ここは原語での言葉遊び、子供の書くような言い間違い 綴り間違い その国ではみんなが知っている童謡やことわざや童話や詩、子供同士の遊びなんかが 作品の要になって「面白み」を与えている場合、さてどう訳そう、と思われることだと思う。

父がよく引き合いに出すのは「怪盗ルパンシリーズ」の過去の偉大な超訳で ルパンが都都逸(?)か当時の日本の流行歌、日本語の駄洒落やことわざを使うものがあった話だ。子供心にわくわくして読んだそれらは、大人になっても色あせないという。

私も石井桃子さん訳の「くまのプーさん」は大好きで「トオリヌケ キ ⇒トオリヌケ・キンジロウ」とか「おたじゃうひ たじゅやひ おたんうよひ おやわい およわい」とか そんな訳がたくさん出てきて それがとっても好きでした。私にとっては「ピグレット」じゃなく「コブタ」は「コブタ」です。

話を戻して 今回 大人になって再読のアリスの話。

子供の時読んだのは子供向けの短いものだったのかもしれないが うろ覚えの内容は もっと「鏡の国」だから何でも反対で 近づくために進むのもそうだけど 言いたい言葉も反対に言うとかそんな話だと思っていたのだが そこはそんなに重要ではなかったみたいだった。
確かに 女王に近づきたいのにわざと遠ざかったら会えたり、鏡文字を読むところもあるけれど思っていたほど「何もかもあべこべ」な世界での冒険話ではなかった。(記憶っていい加減)。そういえば1個で買うより2個の方が安いとか、時間(日にち)と記憶の前後するところもあり、そこそこに「鏡の国らしさ」は散りばめられてはいた。


大人になってから読むと 訳文や言葉のチョイスに注釈でほほう、と思ったり(翻訳者の努力も含め)、もとネタやチェスが解る下地があれば いっそう物語の作りに意味を見出せるんだろうなと思ってみたり。

弱いコマから進んで、途中で他のコマと出会ったりすれ違ったりして「女王」のコマになる、チェスのゲームに沿った、少女の冒険と成長の物語として読めるところ、上手くできてるなぁと思う。

アリスが、相手の言葉や態度にむっとしたり、言い返したり、ちょっと我慢したり なぐさめたり、喜んだり悲しんだり……と、とても自然体で、やたら「いい子」だったり、物語中で「成長」を描くために わざわざ最初は「嫌な子」や「ダメな子」にしていないことは好感が持てた。(先に「不思議の国」があるし、そもそもモデルの子も居るので アリスのキャラクターはそうそう変えられないとはおもうけれど)

# by nazunakotonoha | 2021-09-04 10:02 | 海外の作家 | Comments(0)

死者の奢り・飼育

特殊で異様な状況も、戦後すぐの時代だからこその光景も、置き換えてみれば今につながる。人の残酷さ、身勝手さ、卑屈さ、弱さ。手放しで責められないのは どこかにそんな「自分」も居るのだという思いがあるからだ。
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「死者の驕り」、「他人の足」、「飼育」、「人間の羊」、「不意の唖」、「戦いの今日」。
内容の濃い6編が一冊になって、息をつかせない。


作者のごくごく若い時(「死者の驕り」は大学生の時)の作品だという。昭和32年から33年に「文学界」や「新潮」に発表されたもの。



高額なアルバイトに、こんなのがあるんだって、と昔 誰かに聞いたことがあった。医学部の教材用の死体をアルコールにつけてある水槽で時折 彼等をつついてひっくり返すという。その時どんな感想を抱いたかも忘れたけれど、「死者の驕り」ではその水槽のある場所が舞台となっている。

寒々とした空気、緊張感が読み手に伝わってくる。それよりも冷え冷えとした主人公たちの心の動き。

金額に魅力を感じてアルバイトに応募した文学部の学生の主人公と、女子学生、そしてそこの管理人。仕事は新しい水槽に「彼等」を移し替え、記録し、札をつけるという作業だ。
女子学生との僅かばかりの会話で、彼女が望まぬ妊娠をし、堕胎手術の費用を必要としていることが解る。
ぬめる床、匂い、死体の様子などに彼らが徐々に慣れ、管理人とも、その私生活などについて 一日作業をするうちに語るようになっていく。

作業の必要性を感じ、管理人と共に仕事としてそれなりの重みのようなものまで感じ、連帯感と責任感、手際よく仕事をこなせる誇りのようなものさえ芽生えた矢先、やって来た教授がそのバランスをゆがめる。
「何でこんな仕事をするのだ」と。

その作業をする人が居るから 自分は研究ができるのではないか。教授の示す優越性がどこにでも在る人の差別意識を感じさせる。水槽にいる「彼等」に差はないはずなのに。
それでも 学生は「新しい死体」を選び、深く沈んだ古い死体はますます顧みられなくなっていく。


ネタばれになるが、物語はそれらの作業が全て「徒労」に終わったという なんとも皮肉などんでん返しで幕を引く。不毛な重労働の後には 火葬にするために外に運び出す仕事が追加され、いつ終わるとも知れない。バイト代もどこまで出るか解らない。



「他人の足」は治る希望を持たない病院生活の少年たちの物語。
閉ざされた世界で彼らなりに充足して暮らす中、「外」を持ち込んだ大学生の新入り。
彼らに政治や世界に関心を持たせ、働きかけることで新聞にも掲載されるまでに変化は起きる。

けれど 大学生の治癒の様子がまた、彼らと「彼」の世界を分け隔ててしまう。

……という話だけれど、いつの間に大学生の「彼」が回復の見込みを得て、手術したのか 快方に向かっていたのか、読み返しても解らなかった。

どこか読み落としたのだろうか。そこは想像しないといけないのだろうか。「ひとりだけ治る見込み」があったのは「自殺未遂の少年」で、手術を受ける決心をやっとしたのも その少年だったように読んだのだけれど。


「飼育」


米軍機が墜落して パラシュートで黒人兵が 村に降りて来る。「上」から処分のお達しが来るまで、村で彼を預かることになる。

彼らの暮らしぶりはとても貧しい。住処の様子、食事の様子などの細かな描写は家族で生きるぎりぎりの生活のようだが、語り手で主人公の「僕」が、それを当たり前のものとして暮らしているため、悲壮感はない。鼬を捕らえて捌く父親の、仕事の手際の良さを誇り、弟と寒さをしのぐために寄り添って暖を取る様子は そんな日常を受け入れ、愛しているようにも思える。
それでも「町」へ出ると、そこの暮らしとは格段の差が存在することが解る。「文化」とか「進歩」とか 綺麗ごととは切り離され見下された村だ。


子供たちは、初めて見る黒人に興味津々だ。主人公の「僕」の住む場所の地下が「牢」となったため、黒人兵の世話を彼がすることになる。子供たちにとって彼は珍しい「生き物」で、大事に世話をし、観察する対象だ。「僕」は優越感を十分に感じながら「それ」を見守り、食事を運び、用を足したの樽の世話をする。


徐々に近づくうち、「それ」が危険なものではなく、鍛冶屋の道具を上手く使って猪の罠を修理できたり、義足を治したりもできることを知るのだ。
会話こそ通じないが、互いに気を許していくうち、村の大人たちも彼の拘束を緩め、出歩くことさえ気にしなくなる。
子供たちと触れ合い、水遊びに興じる様は 不思議と明るい 牧歌的で幸せな光景だ、

急展開を見せるのは 黒人兵の移送が決まったことを聞いた主人公の少年が慌ててそれを告げに行ったとき。迫って来る大人たちに対し彼が 少年を囮にしたことだ。少年が身の危険を感じるのに大人たちは迫って来る。少年の心には黒人兵への恐怖と大人たちへの不信が渦巻き、そこにはもう救いが無い。少年の親は少年の手もろとも黒人兵の頭に鉈を叩きつけるのだ。

黒人兵は死に、またその処分の回答待ちの日が続く。
子供たちは壊れた機体の部分をそりにして草地を滑って遊ぶけれど、もう少年は仲間には入らない。
「町」から来た義足の小役人が彼に義足を託して そり遊びに参加したのは何故だろう。戻ったはずの牧歌的な風景に、唐突に新たな「死」が加わる。


言葉は通じなくともやがて人間同士と認め、繋がりや交流が描かれていくのかと思わせての 意外な結末に、単純な甘さを寄せ付けない怜悧な目線を感じる。


「人間の羊」は占領下の日本人がバスの中で外人兵に辱めを受ける話。屈辱的な姿勢を取らされあざけられた一部の乗客と その他の傍観者。警察に行って訴えましょうと言う「傍観者」の代表と「被害者」の主人公の埋まらない溝。

「加害者」が無謀な若者や優越を感じる集団に置き換えれば 今の世の中にもありそうな物語。
受けた屈辱の時間を蒸し返し、世に問えと端から言われても、頑なになってしまう気持ちが痛いほど解る。



「不意の唖」は外国兵たちが村にやって来て休息する間に起こった事件。威張った態度の「通訳」の靴が無くなり 犯人探しをさせられる。村の長である主人公の父親は問い詰められ、非難されるが……。理不尽な抑圧や優越感への抵抗、そして静かな報復の物語。


最後の「戦いの今日」を含め、どれも時代が色濃く反映していて、戦時中や占領下の日本の様子を描いているけれど、人の心の暗い部分、重い部分、それに対する気持ちは、いつの時代でも通じるものと思う。


いつか読もうと思いつつ、ずっと置いていた。本作。やたら難しい表現や解りづらい文体を想像していたが、決してそんなことはない。読んで良かったと思う。
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# by nazunakotonoha | 2021-07-03 22:53 | 大江健三郎 | Comments(0)

不時着する流星たち

実在の人物や物事から引き出された物語。小川洋子さんの手にかかるとこのようになる。
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普通の生活にひっそり紛れ込み、隠れているような、どこか歪んだ不思議な人やものごとが出て来る10の短編。そのひとつひとつの最後のページを一枚めくると、人物や物事の短い解説がある。

そんな実在の人や物事を元に再構築された物語だったのだ、と知ると、またその味わいが深くなる。作者がどんなものごとに惹かれ、そこからどんな枝葉を広げて 全く別の独自の物語を紡いだか、驚きと感嘆のタメイキが出てしまう。

知る人ぞ知る的な人物や有名な女優、学者も名を連ねるけれど、どの作品も 全然「伝記」の要素はない。彼らに「よく似た」主人公でもない。よくぞ見つけた、とそのユニークさに作者のアンテナの感度を感じてしまう。題名のような「不時着する流星」をひとり目撃し、異世界の何者かと交信できる人なのではないかと思ってしまうのだ。

ふとすれ違っただけの相手が心に持つ違和感や 本人さえ気が付いてさえいないような小さなささくれや、何でもなさげな落とし物の面白み、そんなものに対する繊細で確実なアンテナがこの人には確かにあると思うのだ。

今まで読んだどの作品にも目についたのは、例えば鞄の中身、箱や棚の品物の羅列。
どれも誰もがその中のいくつかは入れていそうで、でも全部並べて名前をあげられたら、だんだん違和感が増してくる。
まさか、そんなもの入れてる人、そうそうはいないんじゃないの?というものが 平然と紛れ込んでいたりする。そして、本当にあるの?と思うような、仕事や任務や場所が ごくごく当たり前のような体で語られる。SFでもファンタジーでもない、普通の日常の物語として、だ。
だからこの作品のモチーフになった人物や出来事が確かに存在するということが また印象深いのだ。

あまり細かに作品の内容を紹介するのはいつもどおり控えるつもりでも、端折れない。どの作品もそれぞれに愛おしい。(短めに紹介と感想を書いてみる努力はします。)


1作目は 小箱の中に秘密の物語を抱え持つ「姉」の話。

妄想、空想、ある種の病気も想像するけれど、実に素直にこの義姉の語る「物語」を愉しむ妹の存在が温かさを添える。ふと、ネットの中や心の中で物語を創作する人たちって、このお姉さんと同じなんじゃないかな、とも思う。道で拾った他の人にはガラクタに見えるものを大事に大事に物語に仕立てていく、そんなところが。

2作目

梱包の仕事に心を込めるおじさんも不思議なこだわりと蒐集を続けている。「散歩同盟会長」への手紙という形で綴られるこの物語も、普通と不思議のはざまで読者はふわふわと揺れているような感じ。散歩を愛したある作家がモチーフ。

3作目
街の中、オーケストラの人の中、スポーツ中継の選手たち中に潜む 自分の「秘密の仲間」を探す少女。空港で見かけた「かたつむりの賭けレース」。
モチーフは有名な作品もある女性作家だが カタツムリを偏愛したエピソードを後で調べて知って驚いた。

4作目

「手紙のばらまき調査」は実際に行われた実験だそうだけれど、乳児を預けて熱心にアルバイトをこなす女性の描写はやはり微妙に謎めいている。赤ちゃんを産み、母乳が良く出た人にとっては どんな場所でも搾乳が必要な状況は解るけれど、この作家さんの手にかかると そんな普通のはずの人間の身体の変化もどこかだたならぬ感じがする。街の様々な「隙間」に謎のメッセージを置いてくる。その場所を丁寧に確信を持って選んで。本当にあった現実的な意図のある実験だったとしても、やはりどこか密やかで謎めいた物語に仕上がっている。

5作目

グレン・グルードという人が有名なカナダのピアニストらしいが知らなかった。
調べるととても興味が湧く。でもこれはピアニストの物語とは違っていて、盲目の祖父と歩数であらゆる場所を測る孫の話。祖父は「元 塩田王」で広大な所有地に象の死骸を埋めた話をする。祖父は耳の中に「口笛虫」を住まわせているという。

6作目

他の作品に出て来る様々な状況や単語と同じく「お見送り幼児」や「死者に毛糸で編んだ靴を履かす」なんていう風習はあるのだろうか、作者の創作だろうか。
そんな不安定な感覚をもったまま、読者は読み進めるのだが まるでそんなことは周知の事実のように語りは続く。他人の葬列に参加して「お見送り」をするレンタル幼児なんていう存在自体がとても不思議だ。

ここでは物語の主役にはならないけれど、無名の写真家であり乳母のヴィヴィアン・マイヤーという興味深い人物が紹介されている。また別の物語も生まれそうな素材。



7作目

「肉詰めピーマンとマットレス」は 本書の中では清涼剤のようなお話。息子を持つ母親の読者にはぐっと来ると思う。

外国で一人暮らの息子のところに滞在する母。息子は事故で片耳を悪くしながらも、たくましく成長した様子。息子は母のために観光の手引書を作ってくれている。丁寧で親切。やさしさと思いやりが伝わる手引書だ。良い子に育ったなぁ、と読者も嬉しい。

そんな息子の好物のピーマンの肉詰めを母は沢山沢山作るのだけれど、作り終えた後、冷凍庫が無いことに気がつく。大事な手引書をうっかり失くしてしまったのは残念だったけれど、何より息子の住まいでオリンピックをTVで観ながら過ごした数日は宝石みたいな時間となったことと思うのだ。

これにはバルセロナ五輪・男子バレー米国代表の名が記されている。

8作目は「若草物語」

学芸会で演じた4人の仲間。主人公は脚本も書いたのに劇の役では末っ子エミイで 特徴も見せ場も無い。心の内では少し不満。けれど映画ではあのエリザベス・テイラーだったと知り、日々地味な「末っ子」を演じながら エリザベス・テイラーについて調べ、魅了されていく。
エリザベス・テイラーの数多い離婚結婚の相手を書き起こして暗記し、自分との共通点、足のサイズが同じことを知ると 足が大きくなるのを阻止する努力を始める。それこそ、「血のにじむ」この行為はエスカレートしていき、じわじわと恐ろしさを感じさせるまで。



9作目 「さあ、いい子だ、おいで」

これは特に怖い。動物(特に鳥)を大事にされている方にはかなり辛い読み物。

物語は主人公夫婦が文鳥を飼い始めるところから始まる。最初は可愛がり、ささいな仕草や特徴を競って見つけ合って、さえずりに耳を澄ませ 喜び合う。そんなささやかな幸福の風景も徐々に変化し、早朝のさえずりを煩く感じ、カバーをかぶせだす。
そこまではまあ普通なのかも知れない、けれど、不幸にも文鳥の爪が折れてしまったことから文鳥と彼等に変化が起こる。誰かに相談するとか病院に連れていくことも無く ただ愛されなくなった文鳥は痛々しく弱っていくのだ。その描写に容赦はない。

ペットショップの店員の青年に「あんな風に育った息子がいたら」と思う 主人公の執着や他人の空のベビーカーを持ち出してしまうラストなど 空虚な心に忍び込む闇を感じさせ、読み終えた後、すぐは嫌な感じで胸が苦しくなる。

それでも作者の筆致はあくまでも淡々としている。小川洋子さんの作品群に出会うと、こんな歪んだこだわりや 小さな生き物相手でさえ飽きたり冷めたりすることさえ「普通の人間」で、「特殊なひと」なんかではなく、病んでいる、歪んでいる、そんな人はいくらでも傍にいて、自分は絶対にそうでないと言い切れる人なんて、自分はそんな心の闇とは関係ないと言い切れる人なんて、そっちの方が「普通じゃない」と、そんな風にも思えてくるのだ。


10作目「十三人きょうだい」

仲良しの叔父と少女の微笑ましい日常を描いているようで、不思議さを漂わせて終わる話。
13人兄弟の末っ子の叔父さんを少女は「サー叔父さん」と呼ぶ。その呼び名は二人だけの秘密だ。
蜘蛛の巣から「宇宙のメッセージを解読する」という叔父さんは 子供相手に面白いことを話してくれているだけだったのだろうか。お盆に祖母が茄子の牛の代わりに供えるキャラメルのおまけの小さな小さな三輪車。それに叔父さんが乗って去っていくラストは何故?何が起こっているのか解らずページを戻した。
そんなちょっと不思議なラストにはどんなメッセージが含まれていたのだろうか。もやっとしたままだけれど、今回は特に「解読」せずに 主人公と同じ目線で見送ってみた。


ネタバレを含み 短編集の作品全部の紹介をするのは初めてだと思う。だけど、どれを省くこともできなかった 大事にしたい一冊。

# by nazunakotonoha | 2021-06-05 14:49 | 小川 洋子 | Comments(0)

白い人・黄色い人

芥川賞受賞「白い人」、そして「黄色い人」。罪の意識、劣等感と自尊心、信仰と責め苦。 作者の永遠のテーマが見えてくるようだ。
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「白い人」は外国人が主人公で、一人称で描かれる、外国が舞台の物語。

歴史に取材した物語やファンタジー、SF以外の日本の作家の小説では珍しい気がします。(実際は沢山あるのかもしれませんが、私の読んだ本の中ではあまりありません)。
芥川賞(33回)を受賞作です。

読みながら真っ先に感じたのは 三島の「仮面の告白」に通じるもの。内向的で大人びた主人公の、周囲に隠してきた性癖と鬱屈したものの考え方、それを生み出した環境への洞察。歪んだ性への目覚め。

そして作者の書いた「沈黙」でも取り上げられた、キリスト者の信仰への不信と反発を感じる者と 責め苦に遇っても信仰を貫こうとする者の相克。それは、作者が作品を生み出す上でずっと根底に、「洗礼を受けた日本人」として、西欧人のキリスト教への信仰と日本人の宗教観への考察、自身の信仰への問いかけがあるように思います。

「白い人」の主人公(私)の母はドイツ人ですが、フランス人の父と結婚し、自身を頑なに「フランス人」として生き、病弱な息子を厳しくストイックに育てます。主人公は自分の容姿にコンプレックスがあり、父親にあからさまに指摘され傷つけられて育っています。

そんな境遇に育った内向的な少年が、自分の嗜好について決定づけたのは 女中が惨めな老犬を組み敷いていたぶる様子を見た時の高揚感。女中の露になった白い太ももと共に、弱い惨めなものを更に痛めつける情景に興奮と快感を覚え、それがずっと彼の秘密となります。

旅行先である少年に対しての行為を通しその快楽を最初に経験した彼は、その後、大学で「自分より醜い」神学生ジャックに出会います。彼の信仰、「罪」を語る姿に激しく反発を覚え 彼の守るものを壊し追い詰めたい衝動に駆られます。ジャックが保護者のように厳しく律し、それに服従している地味な従妹の女学生を誘惑し、ジャックを裏切らせようと画策します。

やがて大学を出た主人公は、フランス人であることに固執した母をわざと裏切るようにナチに与し、捕らえられた者への通訳の仕事に就きます。捕らえられた者は激しい拷問を受けています。

そこで再会するのがあのジャックです。
信仰のために苦痛に耐え、隠し持った十字架を握って他者の秘密を守り抜く彼の姿に、主人公の黒い感情が再燃します。愛や神、信仰への不信はどうやってもぬぐい去れず、けれど、もしジャックが責め苦に負け、保身に走り、信仰を捨てたとしても 彼が幸せになれるわけでもない。主人公の求めていたのは何だったのか。

そしてキリスト教では「罪」のはずの「自殺」を、ジャック自身が信じる正義のために してしまったら、主人公は何を得たのか。

問いかけられ、投げかけられたものには答えはでません。
人間の傷や闇に深く入り込んだ作品です。


「黄色い人」の主人公(語り手)は日本人です。舞台も私にはなじみ深い阪神間。阪急電車の通る「仁川」あたりの物語です。

主人公で語り手である千葉という青年がブロウ神父にあてた手紙と、その先にブロウ神父に送ることになるディランさんの日記を交互にして、戦時中の日本人のひとりの青年の虚無、洗礼を受けた身でありながらも入り込めないキリスト教への思いと、教義に反した行いのため罪の意識に苛まれ続ける西洋人のデュランさんの更なる「罪」について解き明かされます。

千葉は東京で医学を学んだものの肺を病み、故郷の関西に戻ってきます。そこには以前通った教会と自分に洗礼を与えながら、キミコという女性と関係をっ持ったことで教会を追われた元神父デュランと、そんなデュランを金銭的にも支えるブロウ神父がいます。
千葉は婚約者のいる糸子と惰性のような関係を続けています。婚約者は戦地にいます。キリスト教の物差しでなくても この行為は「罪」なのでしょうが、千葉にも、糸子にさえも「罪」という意識はなく、千葉にとっては「ふかい疲れ」と表現されます。

災害で行き場を失ったキミコと夫婦のような関係になり一緒に暮らすこと自体は 神父としては「罪」でも、人間としてはどうなんだろう、と思ってしまいます。日本の子供たちに石を持って追われ、信者のご婦人方からは蔑みの目で見られる、そんな恐ろしい「罪」なのでしょうか
そんな責め苦と後ろめたさを日々感じながら疲弊していったデュランは ブロウ神父に対し裏切りの罪を犯してしまうのです。時は戦時中、日本の国にいる少数の外国人(白い人)にとって監視の目は厳しく、いつ何を理由に捕らえられるとも知れぬ、そんな時勢です。
デュランの保身のための画策で、ブロウ神父は捕らえられていきます。何もかも知っているような落ち着きをを見せながら、です。


デュランと暮らすキミコの言葉に、黄色い人、日本人のもつ信仰、神のような存在への思い、「罪」についてが集約されます。

「どうでもええんよ。どうせあたしには、あなたみたいな西洋人のように教会ってなにか、わからへんし。」
「なぜ、神さまのことや教会のことが忘れられへんの。忘れればええやないの。あんたは教会を捨てはったんでしょう。ならどうしていつまでもその事ばかり気にかかりますの。なんまいだといえばそれで許してくれる仏さまの方がどれほどいいか、わからへん」


私も、教会にたまに行く機会があるのですが 信者にはなりきれません。信仰を持つ人たちの優しいコミュニティや讃美歌、聖歌には癒されるし、いいお説教には頷くところもあるけれど
やっぱりどこか入り込めなさを感じて 居心地が悪いのです。

手元にある本には あと二編の短編も収録されています。
フランスに留学した経験やキリスト教にずっと関わってきたことから 人種、宗教観の違いの中で、罪と咎め 人を苛む苦しみと癒し、憎しみや戦争に蝕まれる心について描き続ける姿勢を 感じ取れる作品群となっています。

# by nazunakotonoha | 2021-06-05 14:44 | 遠藤周作 | Comments(0)