人生はいつかは終わる。そのことをちゃんと見据えて 日々を大事にしよう。家族を愛し自分を愛し 精一杯生きるしかない、と思うのだけれど。
手を出したのは間違いだったのか、それともかけがえのない一冊になるか……
今までにも書評を書く際、自分の生活を何度も小出しに書いて来たけれど、私は高齢の父との暮らしを優先し、日々を過ごしている。ダンナと成人した子供たちの理解と協力を有難く思いつつ。
似てるのだ。実によく似てるのだ。まだまだ自分でやれるという頑固さも、これまでやってきた仕事へのプライドも、他人を揶揄うちょっとしたユーモアや悪戯心のあるところも。
主人公のサム老人とうちの父の姿が重なり過ぎて行動や言動が解り過ぎるほど解る。
それに従って、近所住まいの娘たちとその夫たち、息子たちの心配や気がかりや葛藤が我がことのようで、心に刺さる。
母が先に逝き、残ったのは歩行器に頼って歩く脚の悪い父(うちは「耳の遠い父」だ)。家族で支えようとするサムの子供たちは十分親孝行で温かいし、家政婦だったニーリーも押しが強く、お喋りすぎてちょっと迷惑がられてもいるけれど、素敵な「友人」だ。
文章はサム目線のもの(俺は、とサムの考えや行動を綴る部分)、少し冷静な第三者目線(彼は、と綴られる)、サム自身が綴った日記の文章が織り交ざった形で表わされる。
サム目線で家族を見たところなんかも、ああ、老人本人はこんな風に自分と周りを見るのだなぁと思うし、サムの見えていないところで家族が何を過剰に心配しているのかも感じることができるのだ。
表題の「白い犬」は不思議な存在だ。いつも隠れていて、なかなかサム以外の人には見つけることができない。「白い犬」が辺りにいるとしても飼い犬たちも吠えない。本当に居るのか、妻を急に亡くした寂しいサムの妄想なのか、それともニーリーの言うような「犬の幽霊」なのか。
サムはふと現れた「白い犬」に少しずつ馴染み、大事な相棒になっていく。サムの歩行器に足を掛けると本当に二人でワルツでも踊るようだ。
最初、サムがいくら言っても、子供たちは犬を見つけることができない。認知症の傾向かと心配し、「見えるふり」をするべきか否定するべきか悩む。
読みながら、どうぞ犬が本当に居ますように、と祈る。認知症になったサムと居もしない犬の物語を読み続けるのはやっぱり辛い。(「長いお別れ」は良い作品だったけれども)
だから子供たちにも犬が「見えた」記述があって ほっとしたのだ。
子供たちが心配するのも解る。何の説明もせず、急に銀行に行ってお金を引き出すし、おんぼろトラックをいつもになくお金をかけて修理する。子供たちには訳が解らない。子供のようになってお金の価値が解らなくなったのかと悲観し合うのだ。
でも、本当はサムは一人で同窓会に行くことにしたのだ。言えば心配を掛ける、反対されるかもしれない。まだまだ自分でできるのに。
けれど、やっぱりおんぼろトラックでの旅はかなり無謀だった。道を間違え窮地に立たされるのだ。夜は冷え、悪くした腰も痛む。ああ、お父さん やっぱり、と思ってしまう。救う人が居て本当に良かった。
妻や仲間との思い出はキラキラしていて楽しくて愛おしい。結局同窓会には出なかったけれど同窓生と話もできた。
知り合いが一人ずつ亡くなって減っていく中、懐かしいだれかと会えただけでも 行った甲斐はあったと思う。その相手が彼のやってきた苗木の仕事についてどれだけ世間も認めていたかを教えてくれたことも、だ。
「白い犬」は妻のコウラだ、とサムは息子に言った。どこまで、いつからそう思っていたのか、本当にそう思っていたのかは解らない。日記や自分目線の記述には今まで書かれていなかったことだ。
知っている人がどんどん先に逝き、(予想通りか予想を裏切り、か)自分より先につれあいが逝き、やがて自分の身体も思うように動かなくなる。今「老人」でなくたって、皆そうなのだ。もちろん自分もだ。
どんな青春小説の主人公で、そこだけ切り取った物語だって、もし続きがあればやがては老いて亡くなるのだろう。
だから、老いることや人生を終えることばかりを気にして 誰かの人生の物語を考えるのは違うんじゃないかと思うのだ。サムとコウラは出会えて良かった。幸せな結婚生活を送った。
子供たちは心配性でおせっかいで勘違いも多いけど、いい子たちだ。ちゃんといい大人に育ってくれた。
サムの育てた苗木は沢山の人の手に渡り、育ち、花を咲かせたわわな実をつけるだろう。
白い犬もまた、誰かのもとに現われ、寄り添うかもしれない。
# by nazunakotonoha | 2022-02-28 20:51 | 海外の作家 | Comments(0)